古川古松軒が熊本を訪れたのは天明三年のことである。その旅路の詳細は紀行文「西遊雑記」に著され知られる。
薩摩から水俣に入り北上、熊本の城下に入り、阿蘇へ向かっている。
その阿蘇で見た光景に対し「仁政はない」として、「かく記し置は高貴(細川重賢・堀平太左衛門など)を誹謗恐レ有りといへとも実事を聞て記せさるもまた諭ふに似たれは僅にしるすならし」と飢餓の状況に言及している。
「宝暦の改革」を成し遂げ名君とうたわれた重賢公だが、晩節を汚す痛恨事であった。
阿蘇一郡にて今二万八千石の地といへとも東西凡十里余廣大なりといへとも山はかりにて原野も数多ニて
笹倉なとゝいふ原はむかしの武さしのの原と称せしはかゝる原ならんと思ふはかりの廣/\とせし所也
土人の物語には開田せは阿蘇郡にて十余万石も出来すへき平地有る所なから人のなき故に古田も年/\に
あれ果るといひき 近年うち続き凶年にて餓死せしもの数多有りしといふ いかにも實事と見へ住捨し明家
も爰かしこに有りし也 他国の評はんには當国の守は賢君にて経済役堀平太左衛門といへる良臣のやふに聞
侍りしに阿蘇郡のもやう民家数人飢餓し死におよふまても救ひ給はざりしにいかゞの事にや虚説もあらん
かと委しく尋聞しに熊本へ出て乞食せんとて老たるもおさなきもうちつれ出しミち/\にても■路に倒れふ
して死せしものも有りしに違ひなき実事也 予茂爰におゐて疑惑しに仁政はなかりしものと思ひき卑賤の
身をしてかく記し置は高貴を誹謗恐レ有りといへとも実事を聞て記せさるもまた諭ふに似たれは僅にしる
すならし 此辺は幾里行ても華咲草木もなく土色は黒く水のなかれも濁水にて清からす谷/\におゐて菖蒲
の花を見しはかりにて日本のうちにもかゝる下々風土も有るものかなと驚し所なりし