津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■メモ・熊本の飢饉に関する記録・4

2017-05-19 07:00:11 | 史料

 細川家が入国後の熊本においては寛永十三年から飢饉が起こったとしているが、「熊本藩年表稿」などをみてもそれらしい記載はみうけられない。最近購入した中島陽一郎著「飢饉日本史」(昭和61年・雄山閣発行)に具体的な著述を見つけた。

 「寛永飢民録」から

                     津奈木村(現芦北郡津奈木町)
惣高弐千三拾九石七斗八升四合七勺九才御百姓数男女九百九拾弐人、人畜御帳面當時うゑ百姓改分

作高八石六斗七升 自身年四十七
         女房
一家内六人内   むすこ年八ツ
         むすめ同四ツ
         おふじ同七十三
         うば 同七十二
         七郎右衛門
 此の者當根付之儀は、麦くさり罷成申間敷通申候へども、御国中なみ之儀に候間、何とぞ精を出し仕付候
様にと堅被仰付候に付、根付は五月中に仕舞申候へば、右之案内之内用に立申もの無御座、壱人にてほりね
すみれほり申事も、もはやせいつき不罷成、うゑ死に及申に付書上申候事

作高八石     自身年三十
         女房
一家五人内    むすめ年八ツ
         むすめ同五ツ
         おじ 同六十九
         忠右衛門
 此もの當根付之儀、麦くさり罷成申間敷通申候へ共、御国中なみ之儀に候間、何とぞ精を出し仕付候様に
と堅被仰付候により、根付は五月中に仕舞申候へ共、右之案内之内用に立申もの無御座壱人にてほりねすみ
れほり申事も、もはや精つき不罷成、うゑ死に及申に付書上申候事

         (中略)

屋敷高四升    自身年五十    
         女房
一家四人内    むすこ年十三
         同  同七ツ
       水夫 村
         久次郎
 此のも之儀當年はいわしさかなもとれ不申候得ば、すみれわらびほり申候得共、連年仕付不申候故當時
うゑ申て體に罷成候間書上申候事

御百姓数合五拾八人(ママ、著者注、五拾八軒か)
  此男女弐百六拾三人
 寛永十三年六月二十九日
                小庄屋 早兵衛
                同   源右衛門 
                同   勝兵衛
                同   兵右衛門
                同   弥左衛門
 御惣庄屋  藤左衛門殿(花押)

宇野七右衛門 殿
大竹与三左衛門殿

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