最近オークションで手に入れた。上巻は昭和50年10月、下巻は51年6月、大分合同新聞社の発刊である。
かっては大友氏が君臨した豊後の国も、島津氏の侵攻を抑えきれずに秀吉の九州平定の大業を頼み何とかその地位を継承した。
しかし宗麟亡き後は文禄の役における嫡子・吉統の不手際により没収され、役後恩賞の地として七つに分けられた。慶長五年の石垣原の戦いにおいて吉統は復活の機会を与えられたものの、黒田・細川連合軍に敗北する。大名大友氏は滅亡し、その後も関ケ原の結果などを受けて入れ替わりもあり、また肥後・延岡・島原の分領や天領の日田その他幕臣の領地などが入り乱れた。
総高42万石ともいわれる豊後の国だが、小藩分立は明治に至る迄つづき、県民性にも影響を及ぼしているとされる。
細川家とかかわりの深い大名もいくつかあり、少々勉強をしたいと思い読み始めたがが興味は尽きない。
幕末段階において、県下の支配形態は8藩7領であった。その城地と領主 領知高(朱印高)を整理しておくと、中津( 奥平氏 10万石)、杵築( 能見松平氏 3.2万石)、 日出(ひじ)( 木下氏 2.5万石)、府内( 大給松平氏 2.12万石)、森( 久留島氏 1.25万石)、臼杵( 稲葉氏 5万石余)、佐伯( 毛利氏 2万石)、岡( 中川氏 7万石)の大分県下に城地をもつ8藩と、他国に城地をもち大分県下に 陣屋 などを置いた 島原藩領( 深溝・ふこうず 松平氏 高田 2.75万石余) 延岡藩領( 内藤氏 千歳・せんざい 2.06万石) 熊本藩領(細川氏 鶴崎 2.1万石余)という他国領がある。
他に、かつての中津藩主小笠原氏の一族で、元禄12年(1699)から宇佐郡時枝村(宇佐市)に陣屋を置いた 旗本 小笠原氏(0.5万石)、寛永19年(1642)日出藩木下氏から分家し速見郡立石(山香町)に陣屋を置いた旗本木下氏(0.5万石)、正保3年(1646)に幕府から寄進された 宇佐宮(0.1万石)という領地もあった。
さらに、分知領 として 杵築藩 分知(0.3万石)、 府内藩 分知(0.15万石)、 森藩 分知(0.1万石)があり、当主は旗本に列せられていた。
そして、九州の幕府領支配の中心として幕末期には九州7か国で16万5,000石を管轄していた西国筋郡代役所の直支配地、島原藩 佐伯藩 預け地が9万4,000石余あった。まさに「 小藩分立 」である。
こうした諸藩領の領地も一円的に存在しているのではなく、あたかも犬の牙のように入り乱れていることから「犬牙 錯綜(さくそう)」と表現される。こうした、所領の存在形態が、各藩の城下町経営を困難にさせる一因でもあった。
(「obs歴史事典」より)