延宝九年(1681・元和改元)の九州筋巡見使、奥田八郎右衛門の報告書「九州土地大概」には、「餓死数万人」と記録されている。
実際熊本に入ったのは八月の事である。薩摩を廻り日向から南郷高森に再度入国、南関から出国している。
我が家の二代目・太左衛門が道案内を勤めた。■天和二年の九州巡見使
城下熊本 細川越中守(綱利)
立賢無法、伊尹太公望皆然、肥州山鹿処士槇田安右衛門蓬窓ノウチヨリ出、郡司ヲ勤ルニ貢税重シ。
斂不知恤民、故ニ田畑九納一ツヲ私田ニ遣ス、亦課役ヲカクルニ不計暇日、口米銀水夫銀ト号シ取
納。納米タラサル者ハ出来銀ト云テ四壁竹木農具押ヘテ取納。然時、不得力農畝尽。旧年当春至テ、
餓死数万人、可憐。父母凍餓、兄弟妻子離散。其国与民同利、不設禁。当時安右衛門以嬖幸進、以
一人誤千万人ナリ。城下海近。後高山。左右大河。有畑鱗易求。侍屋舗町ニ至ルマテ、樹木暢茂。
土地善トイへトモ、国政悪、民大ニオヨフ。
巡見使奥田八郎右衛門の報告は大変辛らつだが、また真実であったのだろう。