昨日の午後図書館に出かける。その後所用で1キロほど先まで出かけたのだが、自転車の後ろのタイヤがペッタンコ。
かんかん照りの中を我が家まで4キロ強を押して帰る。ふくらはぎがパンパンになって、時折こむら返り状況になりながら1時間半ほどの難行であった。すっかり疲れて昨晩は9:30就寝、今朝は6:20起床、9時間ほど寝たが疲れが抜けていない。
今日はインターネットで近所の自転車屋さんを検索、1キロほどの処に発見、またまた押して行く。
パンクを修繕というよりも、タイヤ・チューブを交換してまずは落着。前輪もと思ったがこれはまた後程・・・
帰りは風を切って帰宅。少々昼寝などして体力回復と参りましょう。
3、1755年のききん (細川越中守重賢公傳から)
御願書左之通
私領分、当六月・八月両度の損亡、且又破損所等の趣、別紙覚書に申上候通御座候。農民飢渇の上、農具迄取
失候仕合、何れより取立助成可申付様無御座候。此分にては、縦塩塘・川塘可也に修復仕候ても、右損所田畑、
中々急々に耕作等難相成、年々今年の通の損亡に成行候ては、甚難渋仕候。夫迄も飢民助成の致方、年末の不勝
手行届不申候。右に就ては拝借等も、被仰付被下候様、御嘆申上度心底には願奉存候得共、今年は国々の損毛、
私一人に不限儀に御座候間、甚恐入申上兼候得共、前程申上候通、年末の不如意之上、莫大の破損所、類も無之
儀に御座候間、可相成儀御座候はば、何卒拝借被仰付被下候様、御歎申上度奉得御内慮候。以上。
細川越中守
別紙
御覚書左之通
私国許、当六月強雨洪水にて、損亡高二十三万五百六十石餘、並破損所等夥敷有之候趣、先達而御届申上候通
御座候。尤先年も此節より、損亡高相増候儀も度々御座候得共、此程度に及大破損、亡所永荒等の儀者無御座候。
其上百姓家数千軒及流失、其外の民家も大方家財・農具等悉流失仕、第一及飢候に付、夫食下行等申付候而巳に
て、中々急に農業抔可仕手段も無御座候。所々夥敷崩候て及大破損候儀、先祖以来終に無之亡所にて御座候。其
儘差置候ては、海辺・川辺彌亡所罷成候に付、早速より往還道橋は勿論之儀、潮塘・川塘、其外如元修復の手賦
仕儀に御座候。然処兼々至極不勝手に付、右在中之人民夫々に相救、且修復等之手賦及力不申、甚当惑仕罷在候。
尤右申上候通、如元修復仕候ても、亡所永荒之場所、中々五七年の内田畑には相成兼候に付、当年計の損毛にて
無御座、田畑に相成候迄の内は、年々右亡所永荒之分、所務不足仕儀にて、旁々難儀至極仕候処、又々当八月廿
四日の夜大風雨にて、高十四万七千五百石餘及損亡、其外破損所等有之候段、国許より注進仕候趣、其砌書付を
以御届申上候通御座候。当六月水損、並八月風損、両度の損毛高都合三十七万八千六十石餘にて御座候。先達而
の水損に付、何れへ手賦可仕手段も無御座候。彌以行当罷在候。依之極々難渋の次第有増覚書を以申上げ候。
(宝暦)五年十二月廿七日 細川越中守(重賢)
細川藩士・神足氏の差物附による家紋。本家をおもんばかってか若干アレンジされている。
細川家の根本家臣の一人である神足家の分家筋・神足勘十郎家の6代目で200石、天保五年五月~天保六年二月にかけて玉名郡郡代(山本山鹿郡助勤、兼)を勤めた。
遠祖掃部は、天正元年信長の坂本攻めに際し「此時藤公君御身上之事何れも気遺、青竜寺の御城
騒申二付、(中略)二の丸の事無覚束と申候処、神足掃部罷出、私に被仰付候様ニ
と申、早速地下人共呼集二の丸堅め候 (中略) 掃部忠節御感被成候」
(綿孝輯録・巻二)
神足氏は天武天皇の皇子長親王の後裔という。すなわち、長親王の子栗栖王の子光丸が神足を名乗ったことに始まるという。その真偽は不詳というしかないが、建武四年(1337)に神足信朝(信友)が足利直義の警固役として登場する。そして、十四世紀末には小塩庄の下司職は神足氏が世襲するとことなっていた。かくして神足を本拠として勢力を拡大した神足氏は、室町時代には幕府の御家人に取りたてらていた。その後、神足氏は細川氏の被官となり、応仁の乱には孫左衛門尉友善が活躍した。
乱後、西岡被官衆はそれぞれの立場を越えて地域としての連帯を強めていった。そして、長享元年(1487)の書状から、孫左衛門尉友善は鶏冠井・小野・竹田・物集女・平氏らとともに西岡被官衆の指導者的立場にあったことがうかがわれる。戦国期になると神足氏は神足城を本拠に、小塩荘をはじめ高畠・大岡荘、勝龍寺領、西岡新馬場跡などに支配を及ぼしていた。
十六世紀、細川管領家の内訌に神足氏も翻弄され、神足城を攻撃されることもあった。しかし、よく勢力を維持して乱世を生き抜いた。永禄十一年(1568)、織田信長が上洛し細川藤孝が勝龍寺城に入部してくると、神足氏は細川氏に従った。元亀四年1573)の勝龍寺騒動のとき、神足掃部は二の丸の守備に任じた。天正八年(1580)、丹後に転封となった藤孝から同道を求められた掃部は、子供たちを出仕させみずからは西岡の地にとどまった。