津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本大学永青文庫研究センター・講演会

2017-05-02 10:39:57 | 講演会

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■佐方氏のこと

2017-05-02 08:41:54 | 人物

                                    

 今年の2月24日一冊の薄っぺらい図録をヤフオクで落札した。京都府立丹後郷土資料館の特別陳列図録31「細川幽齋と丹後」である。
発行日は1992年7月21日、写真はすべて白黒で時代を感じさせる。
まだよく目を通していない本や図録をひと塊においているが、昨日何気にこの図録を取り出して眺めていた。
ここに慶長四年六月二十三日宮津から舟で天橋立を見物した、烏丸光広以下八人の人たちが智恩寺詠みあった和歌(短冊)が紹介されている。それぞれ光(本願寺光昭)、光広(烏丸)、素然(中院通勝)、玄旨(細川幽齋)、述久(松下)、久慶(松下)、之昌、忠隆(細川)である。
一人「之昌」について人物を特定していない。監修にあたられた方がご存じないとはとても思えない。単なる欠落と思いたい処である。
この人物は細川家家臣で志方吉左衛門宗佐のことである。歌道を通しての親交があり、翌慶長五年吉右衛門は幽齋公の田邊城籠城に入城して名を成している。
豊前入国後間もない時期に忠興が、「先年黒田長政人数四千はかりにて豊前之国士紀伊か所ニ働、散々後れをそられ候・・・其場所を御覧」になったという記述に、「佐方吉右衛門ハ前廉、毛利壱岐守へ 小倉之城主 奉公、黒田氏紀伊か持之小城御攻候とて、毛利は加勢頼ニこされ、其時吉右衛門も加勢の人数ニ加り来高名も仕候由、入道之後三齋様御咄之伽ニ而候間、紀伊谷ニて之様体御物語之時、此節之案内者申上候通相違無御座段申上候
      考ニ、紀伊を紀井又城井とも有、太平記に出る紀伊常陸守か子孫之由、後ニハ和睦ニ及ひ、黒田氏たはかりて殺され候と也」とある。その後の吉右衛門の足跡をたどる資料にまだ出会っていない。ご存知の方はご教示賜りたい。


佐方家のことについて、ご子孫の元・郵政事務次官を勤められた佐方信博氏は、昭和61年「つづら文から」という72頁に及ぶ自家版の本を出されている。細川家侍帳において吉右衛門とのかかわりは見えないが、佐方信博氏は独自の史料から吉右衛門の子孫だとされている。

かって自家版の本ばかりを集め、これを有料で貸し付けている私設図書館?があって、そのサイトからこの本を見つけ出して借り受けた(一週間300円)ことがあった。
コピーをさせてもらったが、先の地震で行方不明になってしまった。時折ヤフオクや日本の古本屋で検索しているが自家版ということもありなかなか出会うことができないでいる。

図録で「之昌」の名前にふれ、いろいろな思いが走馬灯のように駆け巡っている。

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