熊本県史料集成・10「肥後藩の農民生活」の「第四節・ききんどし」から今回は(1)(2)をご紹介する。
1、1732年のききん (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
去る子年之夏請米、大凶作にて、守富在村々御百姓悉く餓死仕候に付、取立必至度差支御断申立候。且村々夏
受之内も取立、守富在急飢之者取救候様に被仰付候。何方も同前之儀にて、餓死仕候者多御座候、負方之者共之
内餓死仕候者多、村々内証入組にも相成申候。旁以取立必至度差支、重畳御断申立候処、被為以御慈悲、去寅暮
より、五ケ年賦上納被仰付、難有奉存候。然所去年夏の洪水村々田方水荒、其上虫入にて、御百姓困窮仕、取立
必至度差支、去冬以来、御断之書付差上申候処、難被為叶段被仰付、去暮分之上納差支申候ては、御代官当中御
算用支に相成候段被仰付、奉得其意候。
右申立候通之儀にて、村々至極困窮仕、取立必至度差支申候。重畳御断申立候儀、恐多奉存候得共、何程に仕候
ても、只今取立仕候儀極々差支申候間、御慈悲之上、当夏麦作出来迄、被延下候様奉願候。以上
享保廿年三月 廻江式右衛門
平 野 甚 助 殿
平井丹右衛門 殿
2、1739年のききん (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
下益城郡砥用手永三拾五ケ村御百姓共之内、去夏之洪水に田畑損毛に付て、当時取続及難渋候もの共男女都合
弐千弐百七拾八人此間、近野山に葛根を堀、致渡世候得共、最早堀尽候に付、同手永所々浦野に小屋懸仕、又は
日帰りに罷越、葛根を堀、麦作出来迄取続申度由願出候段、御惣庄屋書付被相達候に付、御家老中え相伺候処、
願之通埒明候間、可有其御沙汰候。以上。
元文五年二月廿ニ日 郡方
熊本藩年表稿の天明二年九月の項に「合志郡久米村での死者、葬儀の折よみがえる、以後葬儀は時刻を考えること(藩法899)」とある。
誠に不思議な話でずっと頭に残っていたが、最近その詳細を知ることができた。
天明三年の飢饉についていろいろ調べている中で、「熊本藩町政史料」のなかにこれに関する記述があった。ただしこの事件は飢饉とは無縁の話である。
病死の者、二日二夜之内ニハよみかえり候もの稀ニ有之事ニ候、既ニ此度、合志郡久米村之者、五十
四歳之男、大病相煩候処、先月晦日之暁致病死、翌朔日之夜葬候節ニ至りよみかえり、追々服薬等ニ
て弥養生ニ相成候、然処下方之風俗ニて病死之者早速不取置候ヘハ、其家ハ不及申、脇々よりも不埒
之様ニ相唱候処よりしきりに差急候儀、甚心得違之事ニ候条、以来取置不差急、時刻を考葬候様可被
示置旨候、此段懸り々々へ可有通達候、以上
九月廿六日 町方根取中
近代でもこんな話を聞くこともあるが、古今稀なる話ではある。まずは一件落着。