津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本市政便りから

2017-05-28 14:47:37 | 熊本地震

 明治三年に熊本において成立した実学党政権は、経費削減を謳い熊本城の破却を検索した。竹崎茶堂や徳富一敬の策だといわれる。
一方藩知事となった細川護久は、政府からにらまれていることに対し上記献策を受け入れ、政治的判断として「熊本城廃隳」の願いを政府に提出した。

                臣護久謹按スルニ、兵制一変、火器長ヲ専ニセシヨリ、昔時之金城湯地今巳ニ無用之贅物
                ニ属セリ。如之今日各地ノ城郭アリハ、応仁以来強属割拠、織田氏安土ノ築キアルニ始リ、
                諸豪相倣イ務テ塁壁ヲ高スルニ由ル。即戦国ノ余物也。今也王化洪流三治一治ノ際、乱世ノ
                遺址猶方隅ニ棊峙スルハ四海一家ノ宏謨ニ障礙アルニ近シ。熊本城ハ加藤清正ノ築ク所、宏
                壮西陲ノ雄ト称ス。臣カ家祖以来倚テ以テ藩屏アリ。豈甘棠ノ念無ラン哉。然リト云トモ維
                新ノ秋ニ膺リ、建国ノ形跡ヲ存シ却テ管内固陋ノ民俗ヲ養ヒ、以テ辺土ノ旧習ヲ一洗ス可ラ
                ス。願クハ天下ノ大体ニ依テ熊本城ヲ廃隳シ、以テ臣民一心ノ微ヲ致シ且以テ無用ヲ省キ実
                備ヲ尽サン。伏乞速ニ明断ヲ垂レヨ。護久誠惶頓首敬白。
                   明治三年
                     庚午九月五日             熊本藩知事
                        辨官
                         御中
                 御付札
                  聞届候事
                     

しかしながら熊本城は破却を免れている。ある識者はこの願出はある種のパフォーマンスであるとされる。
先にご紹介した ■高麗門護札ノ事 で触れた、高麗門をはじめとする各門の破却を以て、その誠意を見せたのであろう。
熊本における実学党新政権はまことにあっけなく短命に終わった。この政権が長く続いていれば、熊本城の運命も違った形になったかもしれない。

                      

コメント
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