津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■竹原家の祖

2017-05-08 07:23:41 | 歴史

一昨日の「流鏑馬」(松寿庵先生・第235講で紹介された竹原家について触れてみたい。

竹原家は阿蘇氏の庶流である。阿蘇神社の西2キロほどに竹原という集落があり、この地を出自としたのだろう。
今でも阿蘇地域には竹原姓の方が見受けられる。

細川家家臣・竹原家の祖・竹原市蔵(後・少左衛門、墨斎玄可)は幼少期、阿蘇家の大宮司職をめぐる内紛により主・阿蘇惟賢に付、父と共に薩摩に逃れ島津氏に仕えた。
阿蘇を出でて心ならずも薩摩に赴いた竹原氏が、嶋津氏の許を訪れていた幽齋公に出会ったことが運命的であり、又細川家の移封により豊前へ肥後へと古里へ近づけた。

 家祖・市蔵について綿考輯録は次のように記している。
  藤孝君、文禄四年(1595)六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、(中略)御逗留の中、(島津)龍伯・義
  弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日連歌御興行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其
  意に応し竹原市蔵とて九歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に叶ひ頻に御所望にて被召連、御帰洛被成候
又別に
  幽齋君丹後へ被召連、慶長元年(1596)正月御児小性被召出、知行百石被下、後に庄左衛門と改候、三齋君百五十石の御加増被下、御伽
  に被仰付候、能書なるを以、幽齋君御代筆被仰付、書礼の事、故実をも御伝へ被成、呼松斎へ御相伝の御取次并写本等も仕り、一色一遊
  齋へも仕付方の弟子に被仰付候、三齋君よりも御口授等被遊、御両君御卒去以後も猶稽古不相止、隠居名を墨斎玄可と云

隠居名の墨斎玄可は薩摩で仕えた旧主・阿蘇惟賢の黒斎玄与に因んだものではないだろうか。
黒斎玄与は、薩摩の坊津に配流されていた近衛信輔が京都に帰るにあたって随伴しているが、その折の事を「玄与日記」として残している。

     (1)庄左衛門・墨斎玄可 (2)少左衛門  (3)         (4)      (5)         (6)
         市蔵惟成---金左衛門---+---少(庄)左衛門)---甚十郎惟秋---市蔵惟重(惟清)---勘十郎
                     分家・初代
                   +---清太夫惟永 

六代勘十郎は細川重賢の用人を勤め、堀平太左衛門を重賢に推挙、この人物が大奉行・家老となり「宝暦の改革」を成し遂げた。
影の立役者である。そのご子孫が現在、武田流流鏑馬の家元として活躍されている。 

コメント
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