津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■銀台遺事をよむ「萩原堤修復工事」-2

2022-10-16 10:01:27 | 先祖附

          右崩れ先 高二百間 横百間程築(突)上り是又崩れ落
          球广川突埋之候間 洪水却而逆流し水かさ三四十間程
          磧上小山抔ハ山上を水打越候程の水勢半時餘も右之 
          通にて程なく右突埋候所を洗い切押落候水勢一同
          に川下に溢れ候故 塘上道はゞ十五間餘横張四十間
          程有之候塘筋 悉崩れ申候 右は先祖越中守入国以後
          終(遂)に無之損にて別而水先之村々亡所におよひ溺死
          の者も多有之候旨注進仕候ニ付申上候 以上
            宝暦五年八月五日

      漸々水は落けれとも渺々たる曠原となりて又もや雨降り
      水かさ増らハ八代一郡の者ハ皆魚の餌に成ぬべくとぞ覚ける
      されば此堤速に築かずんば有べからず迚老臣評議す 扨此
          ゆうばがわ
      川は木綿柴(葉)川迚世に聞へたる大川なるか しかも球广の
      高山より落て流れの急なること矢を射るが如く 萩原の
      堤は其的になぞられけれは 是を築留ん事又なき大事
      なり 先主加藤肥後守忠廣の時 加藤右馬允正方迚文
      武兼備の老臣心力を盡して築立けり 今の世にハ正方程
      のものあるへくもなし いかがせんと案じ煩ひたるに稲津弥右衛門
      頼勝
迚郡目付たりける者進ミ出て 其正方とてもよも

      鬼神にては候まじ同じ人ならんにハ それがしたらん程の
     (事何条得せぬ事の候べき哉と云・・・)

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■横島山と干拓

2022-10-16 06:54:54 | 徒然

 今では玉名市に併合されたかっての横島町、天水町方面から唐人川をわたると右手に横島山(外平山とも)が見え、左は全くの高低差がない一面の干拓地である。
通り抜けて新大浜橋から、かっての岱明町に仕事で随分通った。

数日前から八代の干拓についていろいろ資料を見る中、高島や白島が熊本低山の三本指に入る事を書いたが、横島はまさに横島山がもともとあった位で一面の海で、干拓で出来た土地と言って過言ではない。
横島山も八代の低山同様往古は海の中の孤島だった。横島干拓・今昔・・1
ここは55.5mの標高があるから、熊本低山のランクではベストテンからは外れている。

9年前、横島干拓事業組合にご連絡して、いろんな資料やCDなどをお贈りいただいたことを思い出して、一生懸命探しているがどこに御隠れか姿が見えない。横島干拓関係資料
仕方なくWEBで検索してみると、玉名市教育委員会が発行する「玉名市の干拓遺産」という立派な資料があった。
私は、横島の干拓は昭和42年に完成した大掛かりな国営干拓以外の大方は、細川家三卿家老の有吉家が行ってきたものとばかり思っていた。
ところが大開という干拓には、細川内膳家が関わっていたことを思い出すとともに、或ることに合点がいった。
それは、恕斎日録の編者・中村庄右衛門が玉名郡代の時代の記録に、内膳家が関わった干拓地が台風で決壊、潮入りの被害を受けてその負担金の事でもめ、庄右衛門が尽力したことが記されていたことであった。
         ■文久三年「恕斎日録」(20)

多額の資金を負担し、多くの農地が完成したがこの土地の扱いはどうなったのだろうか。
幕末の不穏な情勢が伺える中、藩の貴重な蔵入地になったのではなかろうか。
これを確認しなければならないが、行方不明の資料を探し出さなければならない。

コメント (1)
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