右崩れ先 高二百間 横百間程築(突)上り是又崩れ落
球广川突埋之候間 洪水却而逆流し水かさ三四十間程
磧上小山抔ハ山上を水打越候程の水勢半時餘も右之
通にて程なく右突埋候所を洗い切押落候水勢一同
に川下に溢れ候故 塘上道はゞ十五間餘横張四十間
程有之候塘筋 悉崩れ申候 右は先祖越中守入国以後
終(遂)に無之損にて別而水先之村々亡所におよひ溺死
の者も多有之候旨注進仕候ニ付申上候 以上
宝暦五年八月五日
漸々水は落けれとも渺々たる曠原となりて又もや雨降り
水かさ増らハ八代一郡の者ハ皆魚の餌に成ぬべくとぞ覚ける
されば此堤速に築かずんば有べからず迚老臣評議す 扨此
ゆうばがわ
川は木綿柴(葉)川迚世に聞へたる大川なるか しかも球广の
高山より落て流れの急なること矢を射るが如く 萩原の
堤は其的になぞられけれは 是を築留ん事又なき大事
なり 先主加藤肥後守忠廣の時 加藤右馬允正方迚文
武兼備の老臣心力を盡して築立けり 今の世にハ正方程
のものあるへくもなし いかがせんと案じ煩ひたるに稲津弥右衛門
頼勝迚郡目付たりける者進ミ出て 其正方とてもよも
鬼神にては候まじ同じ人ならんにハ それがしたらん程の
(事何条得せぬ事の候べき哉と云・・・)