津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■雑感・先祖附

2022-10-11 17:48:20 | 先祖附
 
■先祖附の内容

 永青文庫が収蔵する「先祖附」は、正徳四年(1724)四月に命が下されて作成に至っている。綱利最晩年の事である。(11月死去)大概の書き出しは「先祖何某」とか「私曽祖父何某」......
 

 一年前こんな記事を書いているが、今回遭遇したK家一族3家の内の二男家の先祖附では新発見があった。
大概は嫡家が遠祖以来の事を詳しく書き、兄弟家、分家などはそれに倣うという事が殆どである。
処がK家の場合は二男家の先祖附に詳細が書かれていて、嫡家である祖母の実家の先祖附を補強することが出来た。
どうやらこれは、初代に男子がなく藩主の命により外孫に継承されたことが理由ではないかと考えられる。
私の推測だが、初代は案外二男家に3名の男子があったから、誰かを養子にしようと考えていたかもしれないと想像していたのだが、藩主の命があればこれに従うほかない。


 一年前の上記記事の様に、「先祖附」がまとめられるのは正徳四年の頃であるから、4代目くらいになっている。そうすると分家筋などとの交流が疎かになっていると、遠祖の情報などを知らないで時を経たのではないかと思われる。
そしてその時間の経過は、兄弟や分家などの環境を越えて、それぞれの能力でその家の繁栄がみられたり、あるいは没落したりという現象が見えてくる。
私の「新・肥後細川藩侍帳」では、一族5~6家あるお宅などは、初代の兄弟順に記載するようにしているが、同じ苗字でも同族かどうかが先祖附ではよく判らない場合もあり、「家紋」などをチェックしてみると同族だったりして侍帳の記載順番の入れ替えなどの作業をしなければならないケースがある。
なかなか完成形にたどり着けないでいる。

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■顕光院と娘・勇姫

2022-10-11 11:52:11 | 徒然

   熊本県立図書館1階の一番奥まった南西の角の庭に面した部屋は、かってここに細川家のお屋敷があったおりには、細川齊護室の顕光院の居室跡に位置している。
床にはその間取りが表してある。
顕光院は安藝広島藩(426,000石)の松平(浅野)安藝守齊賢の女・益姫である。江戸藩邸に生まれ19歳で細川齊護に嫁いだ。
その実の娘が松平春嶽(慶永)に嫁いだ勇姫(いさひめ)である。慶永は田安家の出身だが、この婚姻については「慶永の生家である田安家老女から、慶永の叔母であり勇姫の祖母にあたる第9代熊本藩主・細川斉樹の正室・蓮性院附きの老女に対して内談があった。」とウイキペディアは解説している。
蓮性院は一橋家の徳川治済女・紀姫だが、蓮性院が松平慶永の叔母になるというのが良く理解できない。
一橋治済は将軍・家斉の実父である。蓮性院は家斉の妹だから、細川斉樹は将軍家斉とは義兄弟である。
一方、慶永は養子だが、越前松平家の先代藩主は一橋治済の24男だから、血のつながりはないが蓮性院は義理の叔母となる。(多分このことであろう)
紆余曲折があって勇姫は越前松平家に嫁いだ。

 江戸に生まれた浅野益姫は細川家に嫁ぎ、その娘細川勇姫は松平越前家に嫁いだが、それぞれは江戸城周辺の至近距離に屋敷がある。細川家・松平越前家は大名小路のなかにあり、道三橋をわたると数百メートルと離れていない。
浅野家は井伊家の隣である。それぞれ大名夫人は江戸に在って交流はあったであろう。

 幕末に至り参勤交代が緩和され、大名夫人の江戸住まいが解放されると、それぞれの夫人たちは国元へ帰国することになる。
顕光院は義娘(故・細川慶前室)鳳臺院と共に、陸路長い道中を経て、それぞれが初めてお国入りした。
顕光院はその途次、広島の浅野家にも立ち寄っているが、その接待は確かなものではなかったらしく、国境から御国入りすると、細川家の歓迎ぶりは大変なもので、御供の女中衆などは歓声を上げたと、接待役を勤めた郡代・中村庄右衛門はその記録「恕斎日録」に記している。
顕光院は二の丸の御屋敷に入られたらしい。その跡を追うように細川斉樹室の蓮性院も帰国、こちらは花畑邸に入られた。
その後、江津湖河畔(現・熊本県立図書館)の御屋敷に入られた。顕光院の晩年、病の知らせが越前松平家に入ると、娘の勇姫は汽船に乘り、こちらも初めて熊本の地に入り、江戸を離れて久しく母顕光院を見舞われた。
顕光院には三人の女子が生まれたが二人は夭折しており、勇姫は末の姫で思い入れも如何許りかと思われる。
そして顕光院は夫を失い、娘とも遠く離れ、生まれた東京や故郷広島からもはなれた異郷ともいえる熊本の地で、明治8年7月20日亡くなられた。
勇姫の熊本入りは、今生の別れのお見舞いであった。



                        +----細川立之----立政==立芬
        |   ‖    (斉護
        |   ‖
        |老中・土井利厚女・福(栄昌院)
一橋家     
  徳川治済---+-----徳川家斉--+
                                                    
        +------蓮性院            *(顕光院の子ではない)
        |   ‖                   +----慶前 室・鳳臺院
     細川齊茲-----+----斎樹=====斉護        |   
                       |   ‖-------+----慶順(韶邦)
          浅野斉賢ーーーー顕光院    
                     +----勇姫
               家斉22男      ‖
  松平越前家   斉承====斉善====慶永(春嶽)     

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■狩野是斎のコネクション

2022-10-11 07:16:42 | 先祖附

    昨日は狩野家の狩野俊太上申書の読み下しにチャレンジしてみた。
祖母の実家・狩野源内家の「先祖附」には見受けられない記述が「狩野俊助家」の先祖附に見られ、夫々の家の当時の奉公に対する苦労ぶりが確認できた。
初代甚斎と弟・平左衛門は日向縣(延岡)の城主・高橋右近大夫、息・左京進に仕え甚斎は家老職を勤めたらしいが、高橋家が改易になると、甚斎は親交があったと思われる柳生但馬守・宗矩の許に引き取られている。
但馬守と細川忠利は大変懇意の間柄であり、その推挙があって細川家に仕えた。
甚斎は忠利の側近であったようで、そのことを示すいろいろな資料が存在する。
甚斎には男子がなかったようで、松山家に嫁いだ娘の嫡男をもって狩野家を継がしめたのは忠利の意向であったことも、資料が残されている。
一方、弟平左衛門については、高橋家改易のあとは、筑後の田中吉政に仕えたが、吉政の逝去後は田中家は御取つぶしになる。
又の浪人暮らしとなった平左衛門は、但馬守の口添えにより細川家に仕官、三人の息子もそれぞれに仕官するに及んだ。
甚斎の柳生但馬守とのコネクションが、狩野源内家・俊太家・庄馬家の仕官の道を拓いていた。

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 (家祖上総介嫡男)
    狩野是斎
と申者高橋家より浪人仕居候惣躰柳生但馬守様御懇意筋

 目有之候付是斎儀は但馬守様御引取被爲置候
 妙解院様御在江戸之砌但馬守様より御直ニ是斎儀被成御頼候処即刻可被召抱旨被遊
 御意御懇情ニ被仰付昼夜御側ニ被召仕御奉公申上候処豊前御帰着之上於小倉弐拾人扶持
 并御合力米現米百石被為拝領候 然処
 妙解院様被遊 御意候は兄弟共有之由但馬守様御物語ニ而被爲
 聞召上候由委敷可申上旨被遊 御意候付弟平左衛門と申もの高橋家より浪人仕
   候後田中家江奉公仕候処筑後守殿御逝去之砌又之浪人仕候訳并男子三人之者共之儀具ニ申上候処
   加賀山主馬江被仰付早速可被召抱旨被仰出右平左衛門并嫡子仁右衛門江先浪人分ニ被為
   拝領旨被遊   御意御扶持方弐拾人扶持被為拝領候 右平左衛門父子被召抱候節弟共は追々可被召出旨被遊
   御意候 其後二男小源太と申者被召出御扶持方御合力米被為拝領候 吉田御屋敷御番被 仰付候

   平左衛門儀は心はせ抔度々有之由被為聞召上沢村大学江吟味可仕旨被 仰付候ニ付
   委細之様子具ニ被承届言上仕候処御懇情之被爲添   御言葉候 右平左衛門當御國江御供仕御奉公
   相勤候内寛永十年九月朔日於阿蘇郡之内御知行五百石被為拝領外様御弓弐拾張被遊
   御頭長岡右馬助組被召加候 其節被為頂戴候御書出今以所持仕居申候 其後三男四兵衛
   猶又被 召出御知行百五拾石被為拝領八代御城附被 仰付候

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