島原の乱の勃発については、将棋を指していた三卿家老・米田監物是季が、島原の方向に大炮の音を聞きつけて変事に気づいたと語られている。
かって私が、熊本城二の丸にあった米田邸の絵図を手に入れ、これを基にして現在城下模型ができ、熊本城内に展示してある。
御城や花畑邸以外はほとんど侍屋敷の平面図がない中、唯一米田邸だけは往時の有りようを見ることが出来るのは、資料提供者として誇りに思う。
どの部屋で将棋を指していたのだろうと考えるのも面白い。
熊本城調査研究センター提供
八代に於いても、中路宗悦という老人が同様の音を聞きつけたと記録されている。
米田監物を慮ってか、これは間違いだとか、伝写の誤りだとかする一書も存在するとされる。こういう大事さえ、上司を慮らねばならぬとは、いささか筋違いであろう。
十月廿六日嶋原城ヲ攻候節之大筒之音を中路宗悦初而聞付、此音ハ常ならす、隣国ニ城攻有之なるへし、何も武具之用意せよ、誰々ニも知せよなと申候を、老耄の所為か何事を申候哉とて、聢(しかと)取合者もなく大方ニあしらひける処ニ、八代之商船嶋原ニ参居候か、廿七日之晩急き致帰帆、一揆之様子申候、それより追々委細之儀相聞江、其時ニ宗悦老功之程をいつれも致感心候
『一色義有誅伐の砌義有家老日置主殿逃出候を中路市之允討留候』(綿考輯録・巻九)
この中路市之允が後の宗悦である。
丹後以来【周防 初・市之允・次郎左衛門 後・宗悦】 馬廻組二番組 二百石(於豊前小倉御侍帳)とある。島原の乱に於いては、八代に於いて留守居を勤めた。