津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

尾藤金左衛門家、三代の死

2009-01-23 15:06:16 | 歴史
「島原の陣--決戦の日・・23」では、壮烈な最後を遂げる尾藤金左衛門が登場している。
熊本の著名な作家某氏が、尾藤金左衛門を「尾藤金キャツ左衛門」と紹介した文章を読んだが、私はいまだその根拠を知らずにいる。名乗りを上げている最中に、鑓で突かれたというのである。綿考輯録を読むと、どうもこの話は胡散臭く思える。実証による文章を得意とされる氏にしてはいただけない話だ。

 金左衛門の父・尾藤甚右衛門知宣(一成)は讃岐十八万石の領主であったが、天正十五年改易となり、後秀吉により切腹させられている。綿考輯録は金左衛門は知宣の六男と記すが、二男とする資料もある。余談であるが、改易に際し代官を勤めていた加藤清正は、尾藤家の武具調度を秀吉から与えられ、その家紋である桔梗紋をも受け継ぎ、従来の蛇の目紋と合せて用いている。
        ja.wikipedia.org/wiki/尾藤知宣

 金左衛門は、福島正則・森美作守等に使えた後、寛永十二年七月細川忠利に召出され知行三千石、左着座、熊本城内に屋敷を与えられたが、一部に反対の意見があったとされる。その折の藩主忠利の、「尾藤か異心なき事ハ被知召由の御意有之候」ことを伝え聞き、大いに感激して「若し事あらハ此恩を奉らん」と決意していたという。このことが冒頭の果敢な彼の行動に繋がっている。

 さて、熊本縣史料・近世編第二「部分御舊記・御書附并御書部廿三」p241に次のような記事が有る。
      寛永十二年
      尾藤金左衛門子甚丞舟破損仕夫婦子共船中之人不残相果候由
      無是非儀候 金左衛門ニハ数馬殿家則相渡米なとをも奉行共よ
      り渡候由得其意候叓
        十二月三日               忠利

 金左衛門が忠利に召し出されて後、嫡子甚丞夫婦を呼び寄せているが、その船旅に於いて遭難して亡くなっている。尾藤家三代の死はそれぞれ悲しく迫ってくる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・25

2009-01-23 11:40:41 | 歴史
備前隼人も石手を被る、家来も死傷の者多く有之候、隊下の御番頭松野右京・嶋又左衛門組々を下知し、磡に着て働輩多く手負も有之、又左衛門は進て討死を遂、組衆ニ而遠坂関内・住江茂左衛門・福田助十郎・加々山市大夫等同所にて討死いたし候、小笠原采女・佐々庄左衛門等も屏下に着て創を被り候、高原茂兵衛ハ尾筋より本丸升形のきわに着、敵壱人突伏候処もゝに鉄炮疵を被り引取候、清田石見も頻りにすゝミ候に、石垣の根にて脇乳の上を鉄炮にて打れ倒れけるを、家士池田孫大夫扶起し小屋に引取むとせしを、御旗本につれ行候へとて、清田石見手負候而只今引取候と高らかに名乗、其外諸手の人数集まりたる所ニ而は右のことく呼ハり通り候間、石見か手負たる事知たるもの多かりしと也、組衆にては岩越惣右衛門を初、小坂半之允 討死、跡支配小坂新八仕候 ・松岡久左衛門・八木田小右衛門等鉄炮に中て死し、手負数多有之、自分者も数人手負候と也、町熊之助 丹羽亀之允与 は石垣之根にて胸板を突れ脇へそれたるを、不透其鑓にすかり引奪むとしけれハ賊大勢にて引を、熊之助か小性五右衛門同く鑓に取付しはらく引合候、熊之助道具落しに手をかけつよく引ける故、終に奪取候へハ、諸人も是を感し、忠利君も御賞美被成候、賊はしきりに矢石を発し、小性五右衛門もつらをうたれ候

清成八十郎も蓮池の脇よりはやく石垣に着候に、敵強く防き手負討死多く、惣勢両度まて石垣下を甘け候にも八十郎ハ残り居、味方四五人追々ニ着、一同に犬走に上り塀を越候を鑓数にて突落し、立あがる間もなき程石を打候ニ付、八十郎か鑓の柄・立物も打折候、暫くして起上り塀に乗上る所を又鑓数ニ而数ヶ所の手疵に候得とも、石垣下に見合せ、息を入罷在候、弟十五郎 十五歳、後ニ吉之允と改 は御児小姓二而御側に居候ひしか、先ニ御ゆるしを請て直膚にてすゝミ来り、兄弟一所に居候処、浪人奥田藤左衛門来り、八十郎ハ深手と見へたり、被引取候へといへとも不承引、家来森九右衛門も働石手を負候也、中根半之允・上津浦太兵衛・財津少助・丹羽友之允等一所ニ而相働く、木村次左衛門ハ御先手に被遣候ニ、小笠原備前海手の塀下ニ着居たる所に参り、御意之趣申渡、直ニ進んて明石源左衛門・成田四郎兵衛・小野権兵衛等一所ニ浜手の塀手ニ着、次左衛門手負候ニ付備前見て手負の様子見届候、先引取候へといへとも、直ニ乗込んといたし候か石に当り、まひさしを額に打込れ、重手にて正気を失ひ臥候処、家来森庄三郎と申者肩にかけ除申候に、其者も石にて打倒され、余のものゝ肩にかゝり引取候、竹原少大夫 永良長兵衛与 ・下村五兵衛・続平右衛門・都甲太兵衛なとも海手東南之角わき石垣に着候内に、十六七ほとの御小姓猩々緋の羽折を着、衆に抽て来候間、平右衛門・五兵衛見て同勢も多く不参に、若年ニ而扨々見事成ふりと再三感し、鉄炮・石火矢なとも間もなく参候間、かふとをかたむけ候へと度々申候、右若者ハ浅井三郎四郎なり、塀越に鑓を合せ相働く、此所ハ石垣の高サ三尺はかり、石垣きわより塀迄の犬走ひろさ五六尺程有之候由、平右衛門石垣に三度上り鑓を入る、右面々之外同所犬走に着て働くハ、野田小三郎 右京与 ・弓削太郎右衛門・佐田彦兵衛・広瀬杢之助 又左衛門与 ・小林半三郎 九郎右衛門与 ・長良孫大夫 谷与 ・曽根権三郎 津田与 ・樹下太右衛門 丹羽与 ・久武千助 道家与 ・蒲田源大夫 道家与 ・竹内次郎大夫 宇右衛門与 ・佐分利千蔵 津田与 ・牧文四郎 吉弘加左衛門与 ・秋吉茂左衛門 横目 ・松見長右衛門 横目 ・古庄次左衛門 薪奉行 ・沢村弥平次等也、河尻御船手郡喜兵衛・武井七郎右衛門・河村久大夫等ハ本丸追手口にて討死いたし候、瀬崎伊右衛門・嫡子次郎四郎両人共ニ石垣の上下度々鑓ニ而掛合、次郎四郎鑓を合せたる敵引取候ニ付、石垣に乗上る所を石ニ而打落され、具足かふと打ひしき候、佐田長三郎先二二丸にて小屋ニ居たる敵一両人突殺しすゝむて此所ニ来候ニ、塀の破れ口有之、殊ニ矢石烈敷石にうたれ候へとも其まゝ着こらへ、敵味方しらミ候節被仰付置候馬上筒神西金右衛門二詞をかけ打、塀越にハ鑓をも合せ候、入江八郎兵衛・瀬崎次郎四郎・戸田左門殿内大見又兵衛なと一所に働き候 此三人の証拠状今以佐田造酒助伝来候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・24

2009-01-22 17:51:29 | 歴史
右の外名ある者とも大石に中るを興長憤り、国友式右衛門・中根市左衛門・谷忠兵衛を初、家来橋本角右衛門・下津半助等の足軽頭に下知し、修練の者共に打せ候へ共、塀の上の賊にあたらす、橋本すすミ出、此賊をハ我等打落すへきそとて、細川手の鉄炮頭橋本角右衛門定勝と云者城上の賊を唯今打落候と高声に呼り、廿余間にして発けるに、彼賊か胸板に中り、大石をさし上なから打落されけれは、城外一同に感之、台使も御称美有之となり、興長父子いさミすゝみ、諸士も勢ひに乗て相働く、熊谷忠右衛門も起上り、屏の手に付てかせき候ニ、直鑓をきり折れ、十文字を取てたゝかひ候、熊谷か差物金の筋角の弐尺はかりなるか、夕陽にかゝやき敵味方共によく見へ、城中よりも鑓長刀等しけく突出し候を切はらひ打ひらきせり合、鑓の鎌にて敵の頭をも突切候ニ、又石にうたれ犬走より落る時、山田新九郎手に附たる浪人感詞をかけけるに、はやく参り挊かれよと云中、其者石にうたれ蹈とめかねて熊谷か若党八右衛門に取付候を、弱き仁かなと云て引立る所ニ、また大石来て打殺され候、其時松山兵右衛門来り詞を交す、城よりハ篷に火を付て投出候に、熊谷か笠印の角紙燃上り候を松山是をもミ消シ、同所に人もなき故後証にたのむへしと云、熊谷聞ていはれさる証拠を求むよりよく挊候へと云て、同しく犬走に居るに、賊松山か鑓を切折る、松山刀に手をかけ弓矢八幡鑓をきり折たと云、忠右衛門か家来八右衛門聞て鑓切折れたるか手柄ならハ、忠右衛門も一本の鑓ハ切折候と云を、熊谷何を度法もなき事とてしかり付る、扨城中より突出す鑓を松山幸と奪むとするに、八右衛門も取付て引合候を、熊谷見て引折候へと云内に、城中より大勢にて急に引故、松山掌に創を得候、馬場三郎左衛門殿の手に附たる浪人山口新兵衛 後ニ沢村宇右衛門に仕へ、山口彦助と云、其子も彦助と云 、山口三大夫追々に来り、栗生市郎左衛門も鑓弐本もたせ来り、一本ハ御用に立んと云、松山喜ひ其鑓にて相働く、熊谷か若党八右衛門狭間の内を窺ひける所を、鑓にて額を二ツ突切れ眼に血入てくるしミ候、壱人の若党与右衛門も浅手負候へ共狭間に刀を突入、鍔にて塞き、主人を働かせ候、鑓かつき来たる僕も犬走に着むとせし時、鉄炮にて眉間を打れ死す、松山が僕も付来候か、高紐のはつれたるをかけさせる時鉄炮に中り死す、忠右衛門又々石にうたれ、此度ハつよく痛ミ歩行不叶候間、弐人の若党を近つけ、もはや我等ハ物の用に立かたし、両人共に退候へと云、八右衛門申候ハ、主を捨て何方へ退候へきとて、肩にかけ引退候間、御旗本にて肩より下平伏仕るを、忠利君手負たるかと被仰候、熊谷敬て創を被り歩行不叶、是まてハ引取候、御側無勢に相見へ候間詰候ハんと言上候へ共、一刻もはやく小屋にまいり保養仕れと被仰候、八右衛門まかり出、忠右衛門儀かたのことく相働、二本の鑓一本ハ切折れ候と申上候、熊谷にらミ付憚りを不存推参ものとつよく叱り候、忠利君ハ猶も御機嫌よく、働の体見届たり、急キ小屋ニつれかへれと被仰候

原田十次郎ハ以之外相煩歩行難成候得共、城乗にはつれ候事をいきとをり、弟十兵衛 十六歳 か肩にかゝり御本陳より参候ニ付、漸此砌此所に至り松山か犬走に上り居りたるを見付、彼所に上り候へと申候ニ付、十兵衛兄を犬走りに押上其身も一所に居候処、内より十次郎を鑓にて突を松山其鑓を取、十次郎と二人にて引合候得とも足たまりあしく、内ハ大勢故鑓をはなし候、松山兵左衛門并ばび六左衛門と云者此所二而手を負、上田久兵衛・矢野勘右衛門なと追々来り鑓にてからち合、久兵衛は鑓切折られ候へ共、原田兄弟一所に在て相働候、村上市右衛門 此比ハ才十郎ト云、嶋又左衛門与 ・柏木庄九郎 右京与 ・小林半大夫 松野与 ・住江四郎兵衛 嶋与 四人ハ柵木の奉行被仰付置候処、既二落城と見へ候へハ、柵木の御用も有之間敷、又始末相勤候様ニとも不被仰付候間、本丸ニ掛り可働と申談、四人共二西の方塀ニ付挊候ニ何れも手負、中にも市右衛門か持たる鑓を城内よりなた長刀ニ而切折、大石ニ而被打落、絶入いたし候得共、漸二正気付候由、北里次郎左衛門 沢村宇右衛門与 塀際二着候処、一揆大勢出向、城外を見る所を次郎左衛門寸鑓を以七八人突落、雑人ゆへ首を不取、然処切支丹共十人計抱石を以一度に投打、次郎左衛門か冑の天辺にあたり候得共、塀を乗入へきと仕を、沢村宇右衛門見て其手疵ニ而何事をいたし候哉、退候へ、御両殿様御耳に立可申と頻に申候ニ付引取候時、忠利君御覧被成候而、次郎左衛門と御詞を被為掛候、寺本久太郎直運 後改次豊 も二の丸よりハ御先に進ミ、岩壁を攀て可乗入所を窺候に、敵犬走に出入する破口有ニ筵を壱枚釣置たる所有、其所には壱人も着たる者無之間こゝより乗入むとすれ共、唯壱人にて賊は大勢也、筵を隔鑓を合する内に、大木織部兼久 此時ハ四郎兼久と云 同所に来りて相働く、松井新太郎ハ先に尾藤と共に石垣より落たる時指物竿折れ、印付三尺はかり有しを副頭田原清兵衛を頼さし、大木織部か側ニ乗上り敵に打折れたる竹を捨るを御見届候へと云、織部答て、其方唯今の働見届たり、但おれたる竹を空しく捨んよりハ、石垣ニ納め置候はでと云、正元実もと思ふ内に亦石に打たれ冑の立物をも打破しかハ、是をも取て織部に告、差物竹と一ツに石垣ニ押入置候

新太郎か家来も手負討死多く候へ共ひるます、組足軽に下知して敵を打落させ少も攻口を甘(くつろ)けす、同所ニ而働く面々志水新之允・大木織部・寺本久太郎・保科肥後守殿の使者山田九大夫 一ニ木下右衛門大夫殿の使者共有 ・水野家の士三好次郎九郎・興長か内二而松井采女・同半右衛門・田原清兵衛・同角十郎等也、大木織部は鑓疵を被り候間、御旗本より度々御使来り引取へき旨なれ共、其時分少うしろに疵を被り候間、此分にては引取間敷由相報しさゝへ居たりしに、重而御使来り是非伴ふてかへり候、志水新之允嫡子吉之允 十四歳 父と一所に犬走に着、家来いつれも粉骨をつくし手負討死有之候、小笠原備前父子も塀下ニ而下知をくはへ、民部隼人先に進ミ石垣を上り候処、城中より磑を落したるに中り、民部数十間の谷底にまろひ悶絶せしを、家士芥川杢左衛門冑の鉢に蓮池の水を入来り 一ニ渋手拭に浸しと有 面を淋候へハ、少息出しか共存命不定に見へけるを、杢左衛門介抱仕、鑓持土左衛門と申者肩にかけ本陳にかへる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大失態

2009-01-22 08:59:58 | 徒然
 昨日のブログ「漢字のお稽古」にコメントをいただいた。「綿輯録と綿輯録はどちらが正しいですか」とのお尋ねである・・・。「もしや・・」と思って確認すると、「綿輯録」とタイピングしている。

 当然のことながら「用語/用例登録」をしており、これが原因であることは容易に想像できる。あわてて確認すると、なんと両方が登録されていた。「綿輯録」の登録を削除した。これからが問題である。現在1,478件のブログを書き残しているが、昨晩から全てをチェックしようと取り掛かった。果たして何日掛かることか。自業自得の大失態である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漢字のお稽古

2009-01-21 18:17:23 | 徒然
 最近のTVを見ていると、お笑いとクイズ番組が随分巾を利かせている。漢字を書かせたり読ませたり・・・と云うのもあるようだ。かって麻生首相が何度か漢字を読み間違えた。昨日の国会では民主党の石井一氏が、漢字を並べたパネルを持ち出して攻め立てていたが、いささか大人気ない気もする。

     ・就中     なかんずく
     ・唯々諾々  いいだくだく
     ・揶揄     やゆ
     ・畢竟     ひっきょう
     ・叱咤激励  しったげきれい
     ・中興の祖  ちゅうこうのそ
     ・窶し     やつし
     ・朝令暮改  ちょうれいぼかい
     ・愚弄     ぐろう
     ・合従連衡  がっしょうれんこう
     ・乾坤一擲  けんこんいってき
     ・面目躍如  めんもくやくじょ

「就中=なかんずく」「畢竟=ひっきょう」など、日常では使わない言葉だが、古文書の世界を旅する我々には当たり前の言葉である。麻生さんも「漫画ばかり読んでいるからだ」と言われると、漫画愛好家にはカチンと来ることだろう。ちなみに漫画家のやくみつる氏は漢字もめっぽう強い。

「漢字のお稽古」は古文を読むに限る。綿考輯録を読んでいたら「聞以為」という言葉が出てきた。「おもへらく」と読むのだそうな。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・23

2009-01-21 13:45:33 | 歴史
楯岡孫一郎 志水組 ・谷主膳 後ニ本丸ニ入 ・西郡要人助等石ニ打れ鉄炮に中り創を被る程なれは、其組の輩きひしく働き、数多手負、弓削喜右衛門・野瀬吉右衛門等討死いたし候、仲光小内膳 十八歳後半助 石垣を登て乗入むとするを、内より鑓長刀にて打払ひ、石にて肩をも打れ候へ共、物ともせさるを、幕府の細井喜三郎正信殿同所に被働候而、小内膳か若輩にして働クを感し、小刀を賜り、以後の証拠たるへき由被申候、小内膳謝之、互に城内に入、尚又支証と成候はんと約し、相働き石垣を乗候処、所々に創を被り殊に右の膝を鑓にて突かせたるか甚痛、苦ミ候故、忠利君より召れて御旗本に参り候

横井牛右衛門時次 御詰衆 石垣下又犬走ニ而働く所に、松平石見守殿使者安藤半助同所にて働、わたかミの間に石打ちこまれたるを横井取出し遣し、互に後証たるへき旨約之、紀州公の御使者田屋五郎左衛門とも詞を交し、塀を狭間越に鑓を合働候へ共、竟に石にて打落され候 両人共証状有 、小笠原壱岐守殿の使者前場与次右衛門・木下右衛門大夫殿の使者滝五郎左衛門・毛利市三郎殿 後ニ伊勢守佐伯の城主 の使者国屋才兵衛此三人は当手に属し、いつれも軍功有之候、河喜多八助 西郡与石手負、後に瀬兵衛 、柳瀬茂左衛門 道家左近右衛門与 ・小笠原備前家来高橋金左衛門等一所に着て相働、藪図書か手に附きたる浪人大西弥左衛門高儀性名書たる大差物にて進ミかゝり、犬走にて荒木茂左衛門一所に在て鑓を合、賊を突て鑓を突折、猶進むて屏を越んとせし時、石に打れ鉄炮にも中りしかハ、石垣下に落たりしを、家来久三郎と云もの創を被りなから弥左衛門を脊負、沢村宇右衛門か小屋まて引取候

松井新太郎足軽を下知してしきりに鉄炮をうたせ、自身も石垣に取付一番乗の名乗、志水新之允・尾藤金左衛門等声々に詈(ののし)り登る、沢彦右衛門も 庄兵衛子 続て働を金左衛門見て、我々は討死せんも難計、家来浅川喜平次と申者証拠ニ立候へと申付候 喜平次其外数通之証拠状今ニ所持 、城中の矢石甚く、殊に千束荒兵部と名乗大の男の強力屏の上に現れ、十人持程の石を軽々と差上続け打に投かくる、味方大に損し開き靡く事前後三度也、是をも不厭新之允・金左衛門・熊谷忠右衛門等等進て石垣を上り、志水か家士一両人つゝく中に、赤尾五大夫鍬を以石をうけはり防くを、熊谷見事也と誉けれハ、出来申御覧候へと云て働く、熊谷一番に犬走に着、志水は鉄炮に中り候へ共浅手なれハ尚進て采拝をふり後軍をまねき、尾藤も同時に犬走に着ける時、件の大石ニふれて冑の鉢をしたゝかうたせ、朽葉色の大吹貫を指なから、屏下よりひしと押詰たる味方の頭上をこし、廿余間下なる谷底に落る、其余勢松井新太郎か差物に中り同しく落る、熊谷が家来驚き金左衛門様御討死と云を忠右衛門叱り付、狭間越にさり合に是も石に中り犬走より転ひ落ル、尾藤はやかて起上り大勢の味方を押分々々又石垣を上り、犬走に着とひとしく塀をこへんと腕木に取付所、屏越に突出す鑓を喉に受留、猶も其鑓にすかりてせり合候か、急所の深手耐かたく終に死を遂る、家人浅川弥平次かけ来り急にたすけ起し候へ共、甲斐なく死骸をいたき、沢村宇右衛門に創口を見せ、馬場三郎左衛門殿ニも披露して本営にかへり候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・22

2009-01-20 21:40:51 | 歴史
入江伝右衛門はやくすゝむて水の手升形に着候処、左門殿御内安井半之助・出雲浪人奥村角之允一同に着、其次に紀州之士久村金右衛門・其子百助も来り、以上五人共ニ敵と鑓を合相働、あたり二三十間か程ニハ一人も其時付者無之、十四五間程下に大なるがけ有之ニ味方大勢居候を呼候処、足軽一人はやく来、鉄炮にあたり死し、其後大勢着候也

坂井七郎右衛門もはやく本丸塀下に着候を、屏の上より長刀二而鑓を切折候、其時高見権右衛門石垣下に居候ニ、詞をかはし、鑓を捨刀を抜、塀に乗上候処、鑓にてかぶとのはつれより肩を突、鑓共に忽落されけれとも、鑓をぬき、其鑓を持乗上り、右の敵を仕留候、然れ共深手ニ而働難成、家来に介られ退キ申候、越生儀兵衛は部屋住ながら津田三十郎組に被加、芦北御郡筒十挺御あつけ被成候を下知し、石垣に着てうたせ、関安之允も 後平左衛門、孫左衛門弟 無足ニ而居候へ共、御郡筒十挺引廻候様被仰付、松野左馬助組ニ而罷越候か、早々本丸海手の角に着、塀の内に大勢居たる敵ニわたり合鑓付候処、石ニ而かふとの鉢を打破、左の腕ニ鑓手を負、鉄炮にも中り、数ヶ所疵を被り候、金守形右衛門 松山権兵衛組 ハ浪士石橋久兵衛と共に海手の隅より四五間西の犬走に着て、鑓を城中に打込けるか、鉄炮に中り創を被る、宇野弥二兵衛敵壱人仕留、石垣をのほる時手を負、津田三十郎も組を下知し石垣に着て相働く、加藤左兵衛か嫡子加藤庄大夫・二男権助両人共に津田組ニ而罷越、庄大夫ハ御郡筒十挺御預被成、組之者召連、海手犬走に乗上り鉄炮打せ、権助ハ石垣下ニ而鑓を合せ手を負申候、小崎次郎左衛門・高橋太郎左衛門・松野縫殿・吉弘四郎大夫・上野悪助景信等同磡に付て力戦し、縫殿ハ塀越に敵を突伏る、星野庄助・上野善兵衛等も同所ニ挊候か、水の手口にて星野は鉄炮二あたり死す、坂崎内膳・丹羽亀之允・大木織部等を先として御児小姓二至迄、御免しを受て先手に加り候、御旗本ニも矢玉しけく来候間、御側を守候面々御矢表に立て、手負死を遂る者も有之候、中ニも生駒治左衛門為勝 御扶持方被下置、御懇之者浪人分也 鉄炮に中り御采拝の下に倒れ候を、太タ(はなはだ)御愛憐にて急に扶ヶ起し本営に返され候、野田喜三郎も御楯に参候と也

忠利君御歩使を以楯板を馬場三郎左衛門の前に立候へと被仰付候、依之御物奉行藤掛蔵人・山本三蔵支配の鷹匠手々に是を運候へとも、馬場殿ハ我前に付るに不及、屏下に付へき旨被申候間、屏下壱間はかりニ付て、立石助兵衛・佐分利半左衛門等相詰て鉄炮打せ候、大嶋彦左衛門組足軽を下知し、石垣の上なる敵を打せ候内、額を鉄炮に打れなから屏下に上り、足軽を下知いたし、尚又長谷川仁左衛門・清田又右衛門なと一所に来候得共、手疵強クいたミ堪かたく、白木貞右衛門一同に引取候、岩佐彦作 藪図書組 鉄炮胸にあたり 翌年死候 、其子源五も弐ヶ所手負候へともふりよく働候、此外磡をつたひ石垣を登り、屏下ニ着て乗入んとすれとも、蓮池の上ハ殊に石壁そばだち、竹木の切かぶ刃のことく進退自由ならす、其外の所も賊徒かさより強く防き、大木・大石・礱磨・鍋・釜其外色々の物を落し、煎砂・熱湯・糞土をかけ、篷の類に火をつけ投出し、それをのかれて塀越に働く面々をハ鑓長刀にて突落し、必死に成て防候間、石垣より打落され岸を下りニ、蓮池の際迄討死手負い若干にて、多くハ退屈して見へける処、光利君御馬を被乗出、此城いか程堅固なりとも土民の防術何程の事をか仕出すへき、寄手ハ一騎当千の英雄也、うしろにハ忠利君を初御目付及ひ上使衆相さゝへて見分あり、何もすゝむて高名を顕し候へとの御下知によりて、又一きわいさミを増し、各励て相働き候、長岡佐渡ハ最初本城攻かゝり候時、立允主の寄口よりも左に押廻り、池尻口の上よりよせ、竟に海手東之隅石垣の敷より九間三尺程ニせり詰、寄之ハ猶も石垣近く坂半ニ在、有吉頼母ハ本城西北の岸下蓮池のの頭三十余間ニ備へ、立允主ハ初より其中分の升形ニ着、何れも士卒犬走に逼る、志水新之允ハ石垣下ニ着て隊下をすゝめ手の者を下知し、其組平野治部左衛門・中根市左衛門父子足軽を下知し能鉄炮を打せ 市左衛門三丸・二丸小屋々々に居候敵をしたへ、火をかけさせ返り候、平兵衛所々にて働き候 組の足軽数多手負、高田角左衛門は出丸石垣下ニ而両股を被打貫、右の腕を石ニ而被打候へ共、出丸の下壱間程之石垣を上り、御鉄炮打せ候、二男九郎次も左之腕を鉄炮にてうたれ、組の足軽三人討死、八人手負、家来も五人手負候、角左衛門行歩不叶、手もこわり候へ共、居りなから下知を加江候由 後城ニ乗込、夜更候而組之者共船板にのせ、小屋に引取候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・21

2009-01-20 12:21:17 | 歴史
水野喜左衛門 道家与 ・寺嶋弥源太 主水与、中小姓 ・牧牛之助 道家与 ・永井安大夫 ・高見九兵衛 ・吉弘一郎左衛門・堀江勘兵衛・斉藤忠三郎 権佐子 ・笠喜左衛門 吉弘与 ・吉弘加左衛門・金守五左衛門 沢村宇右衛門与 ・国友茂(儀)兵衛 道家与 ・丹羽友助 丹羽与 ・大洞伝四郎 道家与 ・磯谷半四郎 筑紫与 ・大槻才三郎 津田与 ・西沢伝兵衛 藪与 ・井関左源太 ・村井十三郎 有吉舎人与 ・磯谷七郎右衛門 藪与 ・天草十大夫 筑紫与 ・宮部加右衛門 藪与 ・平松十三郎 頼母佐手ニ付 ・宮部権十郎 藪与 ・釘本半左衛門 ・財津少作 丹羽与 ・久野次郎吉 岩越与、次郎左衛門子 ・山田権十郎 永良長兵衛与 ・荒川三大夫 岩越与 ・津田山三郎 宇右衛門与 ・松浦弥一右衛門 丹羽与 ・山本小左衛門 筑紫与 ・牧助左衛門 国友太郎助名代 ・岩崎四郎大夫 筑紫与 ・重松伝兵衛 藪与 ・三宅勘三郎 沢村与 ・永瀬長三郎 道家与 ・財津三助 惣兵衛子、中小姓 ・郡与茂丞 岩越与 ・益田孫大夫 丹羽与 ・駒井左太郎 吉弘加左衛門与 ・魚住孫四郎 ・寺本少三郎 志賀左門与、家記ニ岩越惣右衛門与 ・河崎作之允・永屋少五郎 七郎左衛門二男 ・加来甚兵衛 吉弘与、次郎大夫子 ・真野善(吉)十郎 同、明官子 ・飯田勘五郎 筑紫与 ・門池杢兵衛 吉弘与、次郎兵衛子 ・山崎加平太 永良長兵衛与 ・福田甚大夫 沢村与 ・山内勘助 志賀与 ・川崎作左衛門 同与、作之允子 ・岩越九十郎 惣右衛門子 ・鈴江清右衛門 津田与 ・益田小兵衛 ・速川伊八郎 吉弘与 ・速川半四郎・平野八十郎 岩越与 ・大石惣十郎 吉弘与、与四右衛門子 ・住江八右衛門 志賀与 ・中路三郎四郎 志賀与 ・堀田九平次吉弘与、甚右衛門子 ・堀田左五大夫 同、所兵衛子 ・八木田少九郎 ・酒巻小膳 沢村与 ・入江少五郎 中小姓 ・弓削茂左衛門 舎人与 ・河勾義(藤)右衛門 ・森部権大夫 ・河崎三郎大夫 ・坂根少九郎 吉弘与 ・神山安左衛門 作事奉行 ・三浦伊兵衛  ・江藤八左衛門 金掘 ・陳山久兵衛 矢細工 ・本田三郎右衛門 塩奉行 古庄三之允 浪人 ・伊藤太郎左衛門 寺内五兵衛与 ・北村伝兵衛 ・竹下十左衛門 ・山本権兵衛 ・的場猪之助 平三郎子 ・大塚仁右衛門 藪与 ・安東山三郎 吉弘与、弥次右衛門子 ・松本山三郎 同、彦之進子 ・清田伝吉 同、五右衛門子 ・岩崎五郎助 ・田中大助 同、又助子 ・寺嶋主水 道家与 ・寺井十次郎 岩越与 ・山浦十左衛門 明石源左衛門与 ・難波善左衛門 ・井田小兵衛 寺内与 ・八並少助 ・本庄勘兵衛 津田与 ・郡安左衛門 ・村川作左衛門 杣奉行 ・大塚七郎左衛門 阿蘇郡一領一匹、西郡要人助組ニ加り来り候 等いつれも本丸石垣に着て働く、続猪兵衛 掃部嫡子也、掃部ハ庄助事也 は石垣を乗候得とも手疵を負、両三度御使被下候而引取候、小田原武兵衛・平井杢之允等よく働て手疵を被る、城中の防いよ/\はげしく手負死を致すもの多く候へとも、少も攻口を不退、乗越々々攻近ク、忠利君内外の様子を御見計被成、御近習の士卒も先手に加り力を合せ候へと御下知にて、新に鬨の声を発し御すゝみ被成、二ノ丸浜手に御陳を被移、上使衆も其跡に在て城乗の体を御覧あり、依之自他の先手衆各勢気を増、犬走に着て働者多し、中ニも阿部権十郎・其弟五大夫蓮池の上より屏を切破いらんと、兄弟共に暫く鑓にて突合、河喜多等か働く所ににて同くかせき候処、権十郎ハ石にうたれて本営に帰る、朝山斎ハ海手の角石垣を上り、上村理右衛門も同所より上り候処、石ニ而被打落、朝山も疵を被り候、藪熊之允・寺尾求馬も犬走に着、屏を隔鑓を合けるに、藪ハ両手に鑓創を被り、寺尾ハ石にうたれ疵を得る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・20

2009-01-19 09:13:42 | 歴史
綿考輯録 巻四十七 「寛永十五年二月廿七日之内」

小笠原民部ハ唯一騎蓮池を乗渡、本丸大手口左の石垣塀下犬走に着、家来芥川杢左衛門一人付添参候、藤本勘助・河村伊右衛門ハ先に二の丸ニ乗込候時、本丸の方鉄炮煙うすまき響すさましきに、備前か旗おそれ行兼ける所に、備前家来安岡四郎大夫来て、某旗に付候へと備前申付たる由を演る故、安岡に旗をかつかせ、藤本早く本丸の犬走に着て、小笠原備前か旗をハ藤本勘助一番に付たるぞと名乗る、河村も頓而来て、又同音に備前旗を一番に着たるそと呼ハる所に、石にて旗竿を打折れ、絹も散々に破れ候、塀の上より長刀を以勘助か冑を二三度うて共きれす、勘助鑓にて突けるに、内より鑓の柄を切折、又屏の上にあかり、長刀二而藤本か冑をつく所を、河村透さす鑓取のへ彼賊を突落す、其時藤本ハつよく石手を被り候間、早く引取候へと河村再三申候へ共、退くましきとて堪へ居けるを堀又吉と云浪人河村と云合せ藤本を是非なく石垣より引下す、それまてハ正気しかとも、老体の深手なれハしはらく絶死せしを、家僕背負て本陳に帰り候、

民部を初、親備前長基・二男隼人長昌・三男采女長嘉もはやく本丸ニ着、隊下を下知し旗を目印ニすゝミ候、野瀬吉右衛門・上村甚五左衛門本丸大手の門口に着、甚五左衛門鑓を合壱人討取、其身も手負て引取、山添加兵衛ハ同出丸の石垣下にて鑓下に首を取、小田原九郎左衛門ハ始終御旗本ニ被召置候へとも、家来ともハ先に遣働申候、

浅野七左衛門 平野九郎右衛門与 ・続次大夫 坂崎清左衛門与 ・杉山瀬兵衛 志水伯耆与 ・木造兵助 平野与 ・津田六郎左衛門 同上 ・宗像七郎左衛門 後庄右衛門、坂崎与 ・蓑田小平次 松野与 ・蒲田九兵衛 加々山主馬組 ・加々山与左衛門 嶋与 ・伊藤権之允 同上 ・平野権之允 松野与 ・金津五郎助 嶋与 ・沢村六左衛門 同上 ・沢村市左衛門 一ニ沢田・同上 ・藤源大夫 谷主膳与 ・福田次郎右衛門 西郡与 ・津田勘右衛門 平野組 ・柏木弥次兵衛 加々山与 ・松浦三郎左衛門 平野与 ・弓削新太郎 谷与 ・坂崎清左衛門・堀五郎左衛門 坂崎清左衛門与 ・中山猪兵衛・岡十郎左衛門・米田勘左衛門・木戸六之允・竹原清大夫・六嶋少吉・堀七左衛門・伊良子喜左衛門・伊良子虎助・中山一郎太・古橋小左衛門・岡田兵助・沢村弥平次 谷与 ・神西長右衛門 平野与 ・牧猪助・門司助九郎・平野九兵衛・同九郎太郎・友成庄兵衛 松野与 ・児玉彦之進 谷与 ・木原平作 伊丹角助組 ・西村半兵衛 丹羽亀之允与 ・宮村左兵衛 松野左馬助与 ・熊谷孫兵衛 加々山主馬与 ・松野左馬助 後ニ八郎左衛門と云、石手負 ・朽木五右衛門 嶋与 ・金津又十郎 ・堀江半兵衛 ・菅村権之進 右京与 ・赤植左馬助 新参与 ・中津海権四郎 谷与 ・小崎四郎左衛門 平野与 ・熊谷三郎右衛門 加々山与 ・和田伝兵衛 平野与 ・一宮善大夫 西郡与 ・中津海三右衛門 谷与 ・磯田十郎右衛門 筑紫左近与、今度嶋与ニ入 ・荒木善兵衛 西郡与 ・明石所右衛門 坂崎与 ・上田太郎右衛門 加々山与 ・飯田何右衛門 松野与 ・本庄太兵衛 ・北村七右衛門 松野左馬組 ・北村平七 志水与 ・木村九兵衛 嶋組 ・白井太左衛門 坂崎組 ・明石十五郎 左馬与 ・不破忠右衛門 嶋与 ・村井半大夫 嶋与 ・中村左馬進 加々山与 ・田中理左衛門 ・蒲池清左衛門 ・横田勘左衛門 ・宗像加兵衛 ・北垣藤右衛門 ・不破太郎吉 ・高田十兵衛 ・高田兵蔵 ・佐分利喜四郎 右京与 ・魚住伝四郎 筑紫左近与 ・芳賀忠三郎 右京与 ・岡本源次 筑紫与 ・岡本四郎三郎 源次子 ・飯田次郎七・飯田源兵衛 何右衛門子 ・飯田安兵衛 同子 ・山田七郎兵衛 丹羽与 ・関小平太 加々山与 ・村井内蔵助 ・大塚七兵衛 右京与 ・的場勘平 沢村宇右衛門与 ・岡部庄之助 ・柘植源右衛門 丹羽与 ・立石玄寿 助兵衛与 ・野瀬角太夫 津田三十郎与 ・柳瀬牛助 ・猿木何右衛門 丹羽与 ・伊原十三郎 永良長兵衛与 ・上田久兵衛 有吉舎人与 ・財津少助 丹羽与、一ニ小助 ・牧長三郎 道家左近右衛門与 ・氏家志摩・南条左衛門尉・米田与七郎・丹羽亀之允・道家左近右衛門・生田又助 道家与 ・横山五郎大夫 ・遠坂次郎兵衛 岩越惣右衛門与 ・佐野藤兵衛 半左衛門与、中小姓 ・磯野左兵衛 丹羽与 ・永井左門 永良長兵衛与 ・小川安左衛門 岩越与 ・可児小七郎 ・佐野九左衛門 ・門川太郎九郎 同与 ・永田三郎右衛門 ・安富十右衛門 ・岩崎権平 丹羽与 ・津田左兵衛 岩越与 ・小山七郎右衛門吉弘加左衛門与 ・宗像長五郎 吉大夫弟、中小姓 ・窪田安之允 津田三十郎与 ・寺川三郎右衛門 西郡与 ・木野左兵衛 岩越与 ・金森兵左衛門 丹羽与 ・飯銅弥一郎 上右衛門子、中小姓 ・桜井五兵衛 筑紫与 ・三池源大夫 左馬允与 ・阿部権兵衛 注記省略 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤本吉太郎の先祖

2009-01-18 15:34:50 | 歴史
 私の手元に平成14年6月2日の「熊本日日新聞」の切抜きが有る。一枚の写真が「県内最古級の肖像写真」として紹介されている。熊本藩士藤本吉太郎の明治四年の写真である。東京の浅草で撮影されたらしいが、既に頭はざんぎりで、軍服とおぼしきものを着て椅子に腰掛けている。右手に大刀を持ち、左手は扇子らしき物をもっているが・・・下駄履といういでたちである。その没年からすると、30歳といったところか。

「島原の乱--決戦の日」をご紹介している中で、綿考輯録にそのご先祖様の記載を発見した。その人・藤本勘助は当時七十三歳、小笠原備前の旗を本丸に一番乗りしてかかげ名乗りを上げたが石手を受け疵を被っている。
「藤本ハ加藤清正に仕へて朝鮮にて抜群の武功有事を松井康之聞及ひ、忠興君に執成、三百石にて被召出、今年七十三也、備前隊下にて嶋又左衛門組也・・・藤本手疵平癒して黄金・時服被為拝領候、嫡子九右衛門 筑紫与 ハ別禄百五十石被下置候、是も蓮池辺にて鉄炮に中り手疵平癒せす、帰陳の上死せし也、藤本伊左衛門ハ勘助か二男別禄也」 綿考輯録・忠利公・下p61)

 その伊(猪)左衛門の子孫が、吉太郎である。忠利死去に際し殉死した寺本八左衛門の介錯役を、同名猪左衛門が勤めているが二代目殿であろうか(まだ先祖附で確認していない)

 なお、藤本勘助が登場する「島原の乱--決戦の日・・20」は、人名が多く大変手間取っている。少々お待ちいただきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・・・・・・・・・?

2009-01-18 13:31:47 | 歴史
細川家家臣に、直江兼続の家臣であったという人が居られる。さて何方だったかと、昨日から頭をひねっているが思い出せない。情報の出所は何処だったかを、一生懸命考えているのだが・・・・・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本勘助の孫

2009-01-17 11:37:41 | 歴史
 一昨年の大河ドラマの主人公・山本勘助については、その存在すら否定された時期があった。多くの史料はないが、今では実在の人物であったとされる。綿孝輯録もその史料の一つに加えてもらいたいと思うのは、次の記述である。(綿考輯録・巻四十六 忠利公・下p58)

 「島原の乱--決戦の日・・19」の冒頭に、下村伝蔵なる人の奮戦ぶりか記されている。その事に付いて綿孝輯録は付記として、次のように書いている。

  「伝蔵か父ハ下村己安と申候而山本勘助か孫也、勘助河中嶋ニ討死いたし候時、嫡子・二男
   共ニ討死、三男ハ幼少ニ有之候しを、家女かくし置、後ニ下村安笑と申候、其子下村己安三
   斎君於豊後召出、御知行三百石被下、伝蔵も部屋住の時より百石拝領、八代江も被召連候、
   原城後百石御加増、後ニ伝右衛門と改申候、三斎君・立允主も御死去後、丹後守殿ニ相勤、
   其後御暇申候而熊本二而致病死、其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」

 「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳軽輩末々共ニ」によると、「三斉様御附中津ニ相詰候衆」の中に、「弐百石・下村巳(ママ)安、百石・下村傳蔵」が認められる。肥後入国後の消息としては、肥後讀史総覧に掲載されている「八代分領侍帳 正保二年十二月」に、「下村伝蔵・弐百石」とある。又、細川三齋が亡くなった後の丹羽亀之允による、八代衆の動向を記した文書(正保三年三月十六日付・八代侍衆知行高之覚--丹羽亀之允言上之覚・所収)によると、下村伝蔵については次の様にある。
「弐百石--下村傳蔵 右者松井右近子孫作ニ志うと(舅)ニ而御座候」

 ただこれだけの話なのだが、大変興味ふかい話では有る。ご子孫はいまだ南郷(阿蘇)においでなのだろうか。

 松井右近については、2008年09月10日のブログ「松井右近・女の縁邊」で紹介したが、その人物についてのみ再掲してみよう。

  【松井右近(入江右近)なる人がある。松井を名乗るが代々家老の松井家とは関係ない。
   忠興二男・興秋の生害(元和元年六月六日)にあたり、介錯役を務め行方知れずになった
   とされる。
  「初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲
   守禿童にして御つかひ候しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之
   時出雲守殿より異国者ニ而候可愛からせ給へと忠興君へ被仰進候者也」
   と綿考輯録は紹介している。関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。】
   なお、右近の子・松井孫作も三齋の死後八代を離れている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・19

2009-01-17 11:11:52 | 歴史
下村伝蔵ハ、三齋君より伊豆守殿へ被附置候而、立允主の御働を遥ニ見請、伊豆守殿江立允乗込申体ニ相見へ御覧被遊候様ニと申候へハ、其方ハ彼乗口ニ参度気色ニ見へ候、三齋老之御前ハ御請合有へく候間、急キ可参旨被仰候間、忝段申候而早速かけ付働候と也

村上吉之允・山田忠三郎・平野太郎四郎ハ兼約に任せ一様に打出先にすゝむ、何も美麗の若者、今日を晴と出立候間、殊にいちしるく見へ、敵弐人平野に突てかゝるを壱人突倒し、壱人ハ逃去る、村上ハ三人突伏る、山田も劣らす働き、共に本丸に着候、村上は立允主日比懇意の者也、例の大鈴の鑓印を鳴し来る故、早くも御聞取候而、村上にてハなきかと被尋、則御前に来り候、扨本丸海手の角と升形との中程二 海手の隅より廿四五間西ノ方 塀の少崩れたるにむしろをかけ置、其下の石垣亦少崩れて高さ三尺五六寸も可有かの所あり、河喜多九大夫是より乗込へきと思ひ、早く着て鑓にてせり合候内、自他の兵士彼是一所に着候へ共、其辺り七八間程は別而矢石はけしく手負多く、各場を明退き候、河喜多も差物・立物・草摺等迄打ひしかれ、鑓に長刀を斬込レ、召連者候三人ハ手負引取候へ共、猶もこらへ若党壱人付居候、其時寺本八左衛門・長谷川仁左衛門・清田又右衛門等組足軽を下知し来て、鉄炮をうたせ候ニ、城内よりも弓・鉄炮・石なと殊之外しけく打掛ケ、仁左衛門立物妙の字の頭を鉄炮ニ而打切、上帯も矢を立、指物絹三度打切、後ハ手拭を竿ニ付置候、如此烈しき場所に候処、山田新九郎も河喜多と同所に来り、平野太郎四郎も山田か右手に着て同く彼破れ口より入へきと志し、諸人ひけ共弐人ハ少もひかす、破れ口より鑓突こみなとして始終こらへ居候、永田十左衛門ハ石にて打落され、樽井左五右衛門も数度石ニうたれ、冑を打破、頂ニ中り絶入いたし候へ共、漸正気ニ成、村上吉之允・山田忠三郎其外追々来り候、
米田か手ニ付たる浪人波々伯部十三郎ハ升形のした磡に着居たる所に矢石に中り、冑の錣鉢付の板より打落され、鉢はかりを載て英貴・是長等かひかへ居たる水の手口に来り候へハ、偖々見事なる振舞といつれも賞美いたし候、大塚甚左衛門 当帰斎子 も此所之塀ニはやく着候処、石手重く負けるを家来開放して引取候、長谷部文左衛門は御楯の支配にて初ハ寺本八左衛門鉄炮側に楯板つかせ居候へ共、八左衛門も御先に被遣候ニ付、文左衛門も同くすゝミ、本丸の石垣ニ上る所を石にて打倒され、前後三度うたれ候へ共、屏の破れより鑓にて突合、松山兵左衛門・神西金右衛門等一所に居候処、御本陳楯板の御用有之由承り、驚き蓮池の上の御本陳に帰り、坂崎内膳・阿部主殿なと加り御楯つかせ候 手ニ付たる御鷹匠よく楯板の奉行仕候 、河井権之允も組の御鷹匠引廻し御楯の奉行よく仕り候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・18

2009-01-16 11:45:59 | 歴史
三齋君京都より被遣置候三浦新右衛門ハ、先時俄に城乗の様子を聞、早速与力を集め、足軽を揃て後れしと駆出、急候へ共、老体肥満して息絶し、立孝主に後れ三の丸の屏を踰見れ共、寄口違ひぬれハ目当るへき様もなし、然るに同手の足軽等数十人銘々の頭に離れ、衆軍に混雑せしを義辰見て、同僚毛利新五左衛門・神足少五郎等は如何と問、与力の士大塚杢左衛門答て我等役場より帰り見候に、本営より直に御打立候や小屋に見へ不申候間、是まてハ尋ね来り候へ共いまた見当り不申と云、扨ハ自身の働を心懸けると察し、よし/\いつれも少も騒かす、我立物黒漆の牛角を目当に従ひ来候へと云て、我組を合せ八十四挺の鉄炮を丸め、壱人も指揮に洩候ハゝ打捨へき旨申渡、二郭に入らんとするに、田渡りの沼渡るに耐さりしを、与力の士嘉悦源左衛門手を曳て二丸に乗入候、左候而自他の兵士充満たるを押分、旗差物の下をくヾりすゝミけるに、蓮池の辺りにて賊徒群て突かゝりけれバ軽卒少シ崩れ候を、与力の士庄林太兵衛鑓を振て、高声に庄林太兵衛を見知たるかと喚てかゝりしかハ、賊一同に逃げ入る、三浦足軽を立直し追手の流尾の下に至り組を汰見るに、何れも無恙相従、小頭五兵衛と小組の内壱人疵を被り候、此所は熊本の人数も多く大軍推合て猶予しける間、義辰流尾の中程より追手口東の尾崎ニ攀上り、人数を段々に繰上、尾筋に足軽を小連に配、賊を打落し候、其時武者三人来り、遖(アッパレ)なる武功何れの手の御鉄炮に候や、承る後証ニ立へし、我等か支証にも成玉ハるへしと云、義辰答て、鉄炮ハ細川立允か隊下にして、某は細川越中守内三浦新右衛門と申者也と云、三人聞て我々ハ松平伊豆守内 壱人ハ失念 笠井市之允・物集女、字ハ御同名なれハ互に忘るまし、慥に見届たる武功伊豆守江申聞すへしと云て相共にすゝミ、矢軍時を移す内に、物集女ハ疵を被候、三浦か与力の士河上助左衛門始終離れす力戦し、渡部権大夫組の小林加右衛門・江川十兵衛、熊谷新太郎組の梅田十太夫等何れも三浦に付て働き候

  後に惣軍攻口を甘(クツロ)ける時、三浦も鉄炮を集て立允主の備を尋ね、二の丸の方
  へ行に、芦田十郎左衛門・神足少五郎等に逢、其与力の士卒働たる趣をかたりて
  引渡、立允主ハ御本陳に御座候間、即尋参り候ニ、御帰の途にて参り逢、初て拝謁
  いたし候、其後立允主ハ式部寄之陳所ニ至、一所に御座候間、此時も鉄炮を揃へ相
  従ひ候、此日立孝主の鉄炮卅人ハ浜手の番なる故、毛利新五左衛門当番にて相詰、
  此鉄炮立允主出馬の時ハ本陳より随ひ来らす、後には 一ニ蓮池の辺よりと有 一ッに加り
  候、依之浜手の捨人数云、三浦か隊下に与力の士六騎・軽卒三十人有、其外頭に
  離れたる足軽を合て鉄炮八十四挺有しを引回し、壱人も分散せしめす、後に三齋君
  御賞美被成候、笠井市之允・庄林太兵衛等か証拠今以伝来せりと也、廿八日にも三
  浦・毛利・神足等一所に在て熊本の人数に代り合、鉄炮きひしく打せ候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 「生地武右衛門」

2009-01-16 09:07:21 | 歴史
 「島原の陣--決戦の日・・15」 あたりから、生地武右衛門なる人が登場する。松井家の家士である。「生地」なる苗字はどうやら「おんじ」と読むらしい。ウィキペディア(Wikipedia)や、武家家伝にも取り上げられている。その流れを汲む家であろう。

 武右衛門の実家は山本氏、生地家の養子となって生地武右衛門を名乗っている。島原の乱における武右衛門の活躍ぶりは、15話あたりを読んでいただくとするが、実はこの戦いで実兄(山本四郎大夫勝守)が戦死する。その為武右衛門は実家に帰り、山本源五左衛門となるのである。この人こそが、宮本武蔵の伝記「武公傳」に登場する「山本源五左衛門・土水」である。
     武公傳 www.geocities.jp/themusasi2de/bukou/b205.html
     松井家御給人先祖附の人々 www.shinshindoh.com/oie-3-1.html

 この源五左衛門の父、源左衛門・勝行の孫娘(源五左衛門女)が、細川家家臣上田忠左衛門に嫁した。この忠左衛門が我が玄祖父・上田久兵衛の祖であるから、私はいささかの山本家の血を受け継いでいることになる。

 ご子孫から、一部間違いがある旨ご連絡をいただき訂正いたしました。有難う御座いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする