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一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)
著者:アーネスト・サトウ
風雲急をつげる幕末・維新の政情の中で、生麦事件等の血腥い事件や条約勅許問題等の困難な紛争を身をもって体験したイギリスの青年外交官アーネスト・サトウ(1843‐1929)の回想録。二度まで実戦に参加して砲煙弾雨の中をくぐり、また攘夷の白刃にねらわれて危うく難をまぬかれたサトウの体験記は、歴史の地膚をじかに感じさせる維新史の貴重な史料。
【城郭ヲ廃スル議】
我城郭ヲ廃スル議アリ其意ニ以為ラク城郭ハ国ノ固メ殊更當藩ハ舊来ノ名城ニテ上下人身ノ依頼スル処之ヲ廃スルハ實二不忍事ナレ共時勢ノ變革天下ノ大體ニ依テ實地ノ運ナキ事能ハス乃チ上書シテ朝旨ヲ請フテ曰臣護久謹テ按スルニ兵制一變火器長而専ラニセシヨリ昔時ノ金城湯地今己ニ無用ノ贅物ニ属セリ 之ニ加フルニ各地ノ城樓アルハ應仁以来強族割據織田氏安土ノ築キアルニ始リ諸豪相倣ヒ務テ壘壁ヲ高フス即戦国野餘物ナリ 今ヤ王化洪流三治一致ノ際乱世ノ遺趾猶方隅ニ棊峙スルハ四海一家ノ宏謨ニ障礙アルニ近シ 熊本城ハ加藤清正ノ築ク所宏壮西陲ノ雄ト穪ス 臣カ家祖先以来頼テ以テ藩屏タリ豈啻甘棠ノ念ノミナラン哉然リト雖共維新ノ秋ニ膺リ建國ノ形跡ヲ存シ却テ管内固陋ノ民族ヲ養ヒ以テ邊土ノ舊習ヲ一洗スヘカラス 願クハ天下ノ大體ニ依熊本城ヲ廃隳シ以テ臣民一心ノ徴ヲ致シ以テ省キ實備ヲ尽サン 伏シテ乞フ遂ニ明断ヲ垂レヨト此窺書九月辨官ニ呈ス 不日シテ許可ヲ賜ル 十月四日乃チ一藩中ニ布告ス且又藩士松井新次郎ナル者ハ先祖以来秩禄三萬石ヲ丗襲シテ八代城代タリ是ヨリ先キ新次郎朝旨奉戴シテ下城セン事ヲ乞フ仍テ八代城モ廃シ新次郎住所ヲ熊本ニ移サシム
藩士一般家禄之制度ヲ定ムルヤ是ヨリ先華族家禄ハ従前ノ支配地現石十分ノ一ヲ賜フヘキ旨朝令アリ 九月五日護久上言シテ曰斯ノ如ク過分ノ金穀内家ノ私用ニ充ツルハ實ニ恐懼ノ至ナリ之ニ因テ十分ノ一半ヲ内家用途ニ充テ残リ一半ハ管内窮民撫恤ノ用ニ供シ恐ナカラ聖主覆戴ノ仁意ヲ奉シ臣民苦楽ヲ共ニスルノ志ヲ表セント請ケレハ乃チ許可ヲ賜ル 此後明治五年四月ニ至リ窮民撫恤等ノ費用ハ大蔵省ノ蒙ル処ト云ヲ以テ自費ハ免セラレ十分ノ一全ク内家ノ用途ニ賜ル 於是家禄制度藩士ニ令スル其一二曰禄制改革ハ藩廰ニテ評議ヲ凝シ猶朝廷ヘモ窺奉リ適宜酌量所謂損上益下ノ意ニ基キ増減ニ及フ 是純ラ朝旨ヲ遵奉シ上下心カラ戮セ憂樂ヲ同シ以テ富強ノ策ヲ立テ皇国ヲ維持セント欲テナリ 闔藩ノ士族篤ク此意ヲ體認シ天下ノ大勢ヲ辨へ事理ノ所在ヲ審ニシ各職分ヲ尽シテ勉励スヘシ 其二ニ曰知事ノ家禄ハ現石二十分ノ一ヲ以テ相定ム 其三ニ曰藩士ノ禄上ハ三萬石ヲ千百十七俵ト定メ下ハ二人扶持已下足軽叚ノモノヲ二十五俵ト定メ其間大凡二十一等ニ分テ従前知行所及ヒ抱持ノ百姓ハ一切開放チ家禄皆廩米ヲ以テ之ヲ給ス 細目ハ之ヲ略 其四ニ曰子弟ニ別禄ヲ給セシハ父兄ニ合併ス 一家ニ軽重ノ別アルハ重キ二就ク 其五ニ曰父戦死及ヒ其身戦功等ニ就テノ増石且別禄祭粢料等ハ 是ハ子弟ノ戦功ニテ別禄或ハ戦死ニ就テ年々其家ニ祭粢料ヲ給スルノ類ナリ 先減スル事ナシ
藩内一般ノ戸籍ヲ正フスルヤ先フ熊本郭内ヲ十區ニ分チ毎區族長一員ヲ置キ區中ノ士民寺社共是ヨリ管轄 後南北ニ區トシテ族長ヲ戸長ト改ム 八代・宇土・高瀬ニモ族ヲ置後廃止シ其所ノ郡政大族ヨリ管轄 又在中居住ノ士族卒及ヒ寺社ノ類ハ其所々ノ大属管轄トス
九月長崎縣管轄肥後五ケ荘熊本藩管轄ノ命アリ
同月末家細川従五位利永・細川従五位行真東京住居被仰付元高十分ノ一ヲ以テ家禄トシ下シ賜リ自今熊本藩貫属被仰付元家来ノ輩モ同前貫族被仰付
雑事稜々改革スルヤ従来藩士ニ給與スル所ノ年頭門松及ヒ乗馬飼料増奉公人根給ハ向後渡スへからサル旨ヲ令シ且農啇ニテモ荷鞍ヲ置キ口取ナシニ乗馬苦シカラス一条 陸口津口諸品出入運上ニ及ハス且従前ノ問屋株ハ廃止ス一条 農家ノ家作衣類両具等舊制ヲ廃シ實用ヲ主トスヘシ一条 他所モノ假人數入ハ生所ヨリノ手形ナク共所柄ノ存寄次第苦シカラス一条 農家ノモノ商法ヲ以テ家産ヲ開ク事苦シカラス一条 衣服ハ公私ノ別ナク四季共寒温ニ應シ勝手ニ着用苦シカラス一条 官名国名等俗穪ニ用ヒタルモノハ悉ク改ムヘシ一条 軍功又ハ抜群ノ功績アル外年功ニ因テノ昇進加禄ハ差止一条 孝貞ノ者近隣ノ申立ニ因テ賞美ハ廃止格別関へアルモノハ臨時ニ褒美スヘシ一条 士族ニテモ農工商ト縁組勝手次第タルへシ一条 士族タリ共農工商ノ業ヲ営ム事苦シカラス但職業ニ就テ不筋アラハ庶人ノ律ヲ以テ論スヘシ一条 病院ヲ興シ洋人ヲ雇テ教師トス一条 洋學校ヲ興シ是又洋人ヲ傭テ教師トス
明治四年辛未二月我藩兵一大隊依召常備一大隊東京へ發セシム此折柄浮浪ノ徒及山口脱藩ノ輩九州各所ニ潜伏シテ出没暴行ニ及ヒ屡御沙汰ノ旨有ルト雖共各藩更ニ捜索ヲ得ス於是巡察使四條隆謌ヲ日田縣へ遣サレ我熊本藩ノ一大隊モ同所へ出張諸事巡察使ノ指揮ニ随ヒ進退シ管内取締向其他手配厳重ニ行届ク可キ旨令アリ 此時既ニ藩兵ヲ募ラス轉シテ直ニ日田へ出艦セシム總兵八百有餘人ナリ 大隊長沼田小一郎左半大隊長ハ尾藤閑吾右半大隊長ハ神谷矢柄ナリ 且又熊本藩参事太田黒惟信藩務ノ事件ニテ上京シアリケルヲ更ニ巡察使ノ参謀タルへキ特命ヲ被リ巡察使ニ従テ東京發艦日田縣到着ス 我右半大隊ハ本営ヲ守リ左半大隊ハ別府ヲ守ル 廿四日久留米へ進軍高良山受取ルヘキ巡察使ノ命アリ神谷矢柄一中隊引率シテ赴キ之ヲ久留米藩ヨリ受取退テ府中へ宿営ス 次テ沼田小一郎モ残リノ一中隊ヲ帥ヒテ府中ニ来リ神谷カ兵ト合併ス 且又別府ノ尾藤閑吾半大隊ハ日田へ轉営セリ 斯クテ浮浪巨魁ノ山口藩大樂源太郎ハ久留米へ潜伏シケルヲ久留米藩士ノ内ニテ私ニ誘殺シ源太郎與黨ノ久留米藩士水野渓雲齋古松閑二等ハ巡察使二捕ハレ糺弾ノ末東京へ護送セラレ九州表事平キシカハ我一大隊ハ隆謌ヨリ解兵ノ令アリ都テ熊本へ帰陣ス
是ヨリ先各藩知事在京割合ノ朝令アリ 護久今年四月ヨリ七月迄ノ割合ノ処期限ニ先チ上京ノ命ヲ奉シ二月十六日熊本ヲ發シ同廿五日東京到着ス
■(一字欠)月護久藩知事辞表ヲ上ル其文曰臣護久謹而案ルニ各所ノ民心擾乱シ輦轂ノ下姦賊暴行スルハ朝憲ノ立サル朝意ノ貫サルニ在リト雖共畢竟朝官及地方官等未タ其人ヲ得サルニ由レリ 今日ノ御政體神袛太政ノ二官ヲ置カレ祭政二途二別レ六省ヲ建ラレ御政体區別ニ相成リ官員煩冗政事多門然シテ朝官其人ヲ得ス朝憲モ従テ相立ス 各藩知事ニ至テハ多クハ門閥ヲ用ヒラレ材其職ニ當ラス故ニ大小参事其數過テ人其責ニ任セス 府縣ノ政事ハ藩治ノ標準ニモ相成へキ二却テ安民ノ實相立ス 恭惟ルニ聖躬敬神ノ御聖徳ヲ以テ大殿ニ臨御愛民明倫ノ御政教ヲ敷セラレ大臣納言参議ノ三職玉座ノ下ニ列シ聖旨ヲ奉シテ萬機ノ故ヲ施行セハ別ニ二官六省ヲ置レス共御政體簡厳ニシテ人材ヲ得易ク参議ノ職天下ノ賢ヲ擇シ各長スル所二随テ六省ノ政事ヲ管轄セシメ又別ニ顧問ノ大臣ヲ置聖徳ヲ輔翼セハ下府藩縣ニ至テモ自ラ人材ヲ得姦賊日ヲ斯シテ捜索スヘシ 臣等不肖門閥ニ依テ妄リニ知事ノ職ヲ汚ス當職ヲ免セラレ退テ士族ニ帰シ屹ト賢才ヲ御抜擢在セラレン事ヲ希望ス
【廃藩置県】
七月十四日藩ヲ廃シ縣ヲ置ルゝニ御確定大中小藩ノ知事本官ヲ免セラレ因テ護久知事職免セラレ且同日護久及名古屋徳島鳥取四藩ノ知事ニ詔アリテ曰朕惟フニ方今内外多事ノ秋ニ際シ断然其措置ヲ得天下億兆ヲシテ其方向ヲ定メシムルニ非スンハ能ク宇内各國ト並立シ以テ我国威ヲ皇張センヤ 是朕カ霄肝憂慮スル所ナリ 曩ニ汝等建議スル所互ニ異同アリト雖共之ヲ要スルニ深ク従前ノ弊害ヲ鑑ミ遠ク将来ノ猷■ヲ畫ス 是我等カ衷誠ノ發ス所朕之ヲ嘉シ将ニ施設スル所アラントス 汝等更ニ能ク朕カ意ヲ體シ各其所見ヲ謁セヨ
八月十五日護久海軍少将勅任同廿三日陸軍少将轉任尋テ十月七日依願本官免セラル
十一月廿七日護久実弟長岡従四位護美海外實地ノ化學研窮トシテ自費ヲ以テ歐米各国へ渡航セン事ヲ請フ 十二月五日許可ヲ賜リ翌明治五年正月二十日護美横濱發航米國ニ赴ケリ
(完了)
とくに韶邦譜-護久譜に於いては、何度もタイピングの手を休め原稿を読み返し、時には関係資料を読んだりしながら勉強をするといった感じでの作業と成りました。
「徳川の爪の端」を自認していた細川家が、一変して勤皇へと変わっていく幕末期のエネルギーをまざまざと感じ、韶邦・護久・護美三兄弟の見事な連携が細川家を支えたことに理解を深めました。そんな中この時代を生きた人たちが、どういう思いで激動時代を乗り越えたのか、新たな課題を与えられたような気がします。
あと一回で終了なのですが、なかなか作業が進みません。
3/9よりこれに掛かりっきりできたから、ちょっと目先を替えようと思っている。
過日お訪ねした安國寺の資料の読み解きや、正保四年の某資料、又全く未公開の某家資料などが跡につかえていて、どれから取り掛かろうかと頭を悩ましている。
また旧陪臣代数及原禄根帳目録(譜代家来名附)を個人名別でupする作業も未完だし、無禄士族基本帳のupもまだ出来ずにいる。
そんな中私のサイトのお粗末さに、入院で暇をもてあましている長男が手を貸してくれて、現在改修作業を行ってくれている。若干の意見は出したが構成など全て任せた。どのような形になるのか楽しみにしている。これをきっかけに我が家の歴史などに、少し興味を持ってくれたことが嬉しい。
ブログのネタがなくなって、「本日休業」の看板が下がるかもしれない。
(明治三年)七月十七日令ヲ下シテ租税ヲ正フス 近十年當藩にて上米口采抔ト唱テ正税ノ外ニ納メシムル若干ナリ 初ハ由テ起ル子細モアリケレ共年ヲ遂ヒ種々ノ弊害ヲ生シ遂ニハ其趣意全ク陵夷シテ浪リニ百姓ノ膏油ヲ絞ルニ至ル 斯テハ今般御一新ノ聖意ニ戻ラント評議相決シ管内ノ村々へ周ク示シテ曰護久忝クモ藩知事ノ重任ヲ蒙リ朝廷ノ御趣意ヲ奉シ父ノ志ヲ継テ管内ノ四民凍■(食ニ妥)ノ患ナク各其所ヲ得セシメン事ヲ庶幾ス 就中農民ハ暑寒風雨を不厭辛労シテ貢を納メ夫役ヲ勤メ老若病者ト雖共暖ニ衣セ快ク養フ事ヲ得サル所以ノモノハ全ク年貢賦役ノ苛キ故ナリト余深ク耻チ深ク恐ルゝ所ナリ 茲ヲ以テ何卒困苦ヲ解シメント思へ共直チニ本免ヲ寛ニスル事能ハス 依之従来ノ上米口米會所及ヒ村出米銭ノ雑税ヲ許シ又一歩半米ハ凶年損毛ノ為ニ備シト雖共向後納ルニ不及是迄ノ受免ヲ假リノ定免ト心得彌農業ヲ勉励して老幼ヲ養育シ餘リ有ルカ如キハ親類部伍ノ困難ヲ救助シテ互二人タルノ道ヲ盡スヘシ
兵制ヲ改革ス 先是藩ノ兵員ハ石高ニ應シ朝廷ヨリ定額の布令アリ依之今迄ノ兵制ハ断然解崩シ先ツ常備一大隊編成成次テ豫備一大隊編成猶追テ補備一大隊ヲ編成シテ常備豫備補備ノ三兵トシ給報各差アリ 斯クテ常備隊ノ兵員ニ闕アレハ豫備隊ノ兵員ヨリ抜選シテ之ニ充テ豫備隊ノ兵員ニ闕アレハ補備隊ノ兵員ヨリ抜選シテ之ニ充ツ補備隊ニハ始末生兵ヲ入レテ習練セシム 且大砲三大隊ヲ編成ス一隊に大砲二挺砲手之ニ應ス 斯テ七月十九日隊長ニ示シテ曰皇国兵員選定ノ始ナレハ隊下ノ指揮抑揚殊更専要ナリ 若平素ノ交際ヨリ将帥ノ威厳ヲ損して紀律立スンハ何ヲ以テ戦ニ臨ミ勝事ヲ制センヤ依之向後死生與奪ノ権愈以テ隊長ニ付與ス 夫隊下ノ指揮ハスヘテ軍律ニ因リ號令厳明威恩並ヒ立ン殊ヲ要ス謹テ朝旨ヲ奉體シ私ノ愛憎ニ因テ公法ヲ害セス大義ヲ明二シテ隊下ノ方向ヲ一新セシメ不日ニ精兵タラン事ヲ希フ 各等今一層奮發勉励スヘシ 又隊下ニ示シテ曰兵士ハ皇国治乱ノ係ル處其注意最肝要ナリ今般更ニ隊長中へ指揮ヲ委任セリ 隊士等違背スヘカラス若兼テノ交際ニ泥ミ軍伍ノ禮ヲ辨セス隊長ヲ敬セスシテ或ハ私論ヲ蓄へ指揮ニ應セサルカ如キハ朝旨ニ背クモノナレハ朝廷ニ對シ怒スヘカラス必軍律ニ處セシムへシ 孰モ此旨趣ヲ體シ隊長ヲ尊信スル事父母ノ如クシテ隊伍互ニ相親ミ平素名分大義ヲ明カニシテ質素廉直ヲ守リ事變ニ臨ミ方向ヲ愆ラス忠義奮發不日精兵タラン事ヲ庶幾ス 今一層励精興起スヘシ
皇政一新百事公道ヲ以テ御處置中士ノ教養且刑典等大ニ改正シ玉フ由聞へアルニ依リテ其大旨ヲ窺取九月九日藩内ニ告戒ム 其略ニ曰根元士ハ才徳二ツナカラ農工商三民ノ上ニ出ルヲ以テ其位ヲ與ヘラルゝト雖共因襲ノ久シキ其任ニ穪ハサル者アルヘシ 夫等ノ類ハ自ラ不能ヲ知リ退テ農工商ニ帰スル外コレナク且又士族ニ等級ナク總テ同科ノ處分ニ■(宀ニ之)リタレハ若シ懦弱驕暴ノ所業ニテ士ノ職ヲ■(欫カ)クカ如帰罪状ハ病乱ニ托シ禁錮届出ル共糺明ヲ遂ケ士族ヲ■(礻ニ虎)キ軽重ニ因テ笞徒死罪トモ的决所断スヘキトノ御趣意ナリ 然レハ藩内ニ於テ従来ノ教養甚其當ヲ得サルニ因リ向後先ツ教養ノ筋ヨリ一變シ咎無へキ所業ハ上下ノ別な区凡テ刑典ニ依リ處決シ人ヲ殺スモノハ死罪勿論ナリ 闔藩ノ士族断然舊習ヲ脱シ聊モ三民ニ長タル職前ヲ汚サス治績ヲ助ケン事ヲ庶幾ス 萬一士庶ノ別ヲ挟ミ不埒ノ振捌アルモノハ是非ニ及ハス罪ノ軽重ニ應シ朝旨ヲ以テ相當ノ所置ニ及フヘシ此旨兼テ注意スヘシト布告セリ
是ヨリ先岡次郎太郎ト云藩士八月十五日藩社祭禮群集ノ場ニテ同藩士ノ僕ヨリ種ゝノ雑言不埒ノ仕形ヲ受テ止ヲ得ス討果シケル事アリ 根元藩内ノ士風往昔ヨリ専ラ武勇ヲ吟味シ萬一下民ノ陵辱ニ逢ヒ其處分ニ怯退ノ名ヲ蒙ルトキハ公私共ニ容サゝル習ヒアリテ自レ一藩ノ士ノ眼目トセリ 次郎太郎モ十七歳ノ少年ニテ斯ノ如キ擧動アリシカトモ是迄ノ藩法ヲ以テスレハ重譴ヲ下スヘキ事ニハ非ス 然レ共今般之御趣意ニ依レハ厳刑遁レ難ク尤右ノ一条ハ前文布告ノ以前ニ属セシ事ナレハ今断然厳刑ニ處スルカ如キハ所謂不教シテ殺スニ至リ知事ノ職掌二於相済ミ難ク畢竟従来ノ教養當ヲ得サル處ヨリ醸シ出シタル事ナレハ幾重ニモ護久ヲ譴責セラレテ次郎太郎一命ハ寛典ニ就ラレ度トノ趣朝裁ヲ乞ケレハ十一月次郎太郎三年禁錮ノ刑ニ處セラレヌ
藤孝--忠興--忠利--光尚--綱利--宣紀--宗孝--重賢--治年--齊茲--齊樹--齊護--韶邦--護久・・護成・・護立・・護貞・・護熙・・護光
細川護久譜
従四位源護久ハ越中趣齊護カ三男ナリ 幼名義之助後澄之助ト改メ護久ト名乗ル 兄韶邦五男ヲ生ム皆夭す 故ニ慶應二年八月護久ヲ養テ嗣トス 同三年八月従四位下侍従ニ叙任セラレテ右京大夫喜廷ト改ム 明治元年二月又護久ニ復ス
明治三年庚午四月韶邦名代トシテ出京ニ十七日内殿ニ召サル 此日ハ主上吹上ニ臨御輔相初諸官員拝列護久モ其席ニ召サレ酒宴賜リ特ニ天酌ヲ忝フス 畢テ護久ニ調馬命セラレテ叡覧アリ其後五月八日依召参朝ノ處韶邦致仕願ノ如ク護久家督且熊本藩知事ノ命ヲ蒙ル 是ヨリ先キ護久文政三年九月弟護美ト共ニ上京専レ公武御一和大政御興張ノ事ヲ盡力翌元治元年四月化歸國慶應三年五月出京天幕ノ命ヲ奉シ勉勵ノ處眼疾ヲ發シ同年七月帰國明治元年正月出京此日ヨリ鳥羽伏見戦争起ル其末関東御征伐大阪行幸且護久議定職拝命稜々勤上同年閏四月帰國同二年二月上京参與職ニ任セラレ東京再幸御留守警衛ノ命ヲ蒙リ其後脚気病ヲ發シ願ニ依テ國元温泉入浴百日ノ休暇ヲ賜リ四月帰國ス此等ノ事件ヲ初凡護久部室住中ノ履歴詳ナルハ韶邦譜中ニアリ
五月護久今度知事ノ職ヲ蒙リタル上ハ一剋モ任國ニ赴キ改革ノ成功ヲ奏セント乞フ 即日許可ヲ賜リテ拾五日参朝天顔拝謁殊ニ藩政一新皇国ヲ興隆セヨトノ綸言ヲ蒙リ天盃ヲ賜リテ厚ク慰労シ玉フ 十六日東京ヲ發シテに十八日熊本到着直チニ父韶邦ニ見ヘテ天恩ノ辱キ次第具ニ陳説シ韶邦モ畏リテ太祝ニ堪ヘス 此上ハ一日モ早ク我平素ノ志ヲ継テ朝命欽奉断然藩政改革ニ取懸リ一新ノ實効ヲ奏スヘキヨシヲ諭ス 於是先改革順序ノ■略ヲ定ム
六月朔日三日両日ニ従四位長岡護美大賛辞降命ヲ初此外大小参事黙陟ノ命ヲ傳フ 是藩廰上院の役員具ル改革ニ手ヲ下スノ初ナリ
十一日十三日両日藩士等ヲ城中ニ呼日集メ申諭シテ曰今度致仕家督知事拝命綸言聖旨ノ件々斯ノ如ク朝命ヲ辱フスル上ハ父ノ忠志ヲ継述シテ一身ヲ■チ御趣意ヲ上下ニ貫徹セシメント欲ス 然ルニ一藩ノ士民孰カ王臣ニアラサル孰カ王命ニ背ン蓋卑下賎愚ノ徒深遠ノ朝旨ヲ窺ヒ知ラスシテ或ハ巷説ニ惑火或ハ私見ニ泥ミ方向ヲ誤ルモノ不少是全ク本心ニアラス皆見聞ノ愆リナリ 依之既往ノ事ハ悉ク我等父子ノ不届故ト自反シ以往更始一新凡百ノ事天意ヲ奉シ順序ヲ以テ改正スヘシ サレハ有職無職ノ別ナク一般ニ朝旨遵奉有職ノ徒ハ専ラ其職ヲ勉勵して事業ヲ起シ無職ノ徒ハ専ラ孝悌文武ニ身ヲ委子テ風俗ヲ維持シ一人モ皇国ニ忠ヲ盡サゝル者無ク一人モ王化ニ服セサル者ナク聖王ノ大道一藩ニ確立セン事ヲ注意スヘシ 此旨更ニ告諭ス就テハ反復熟慮シ若シ解セサル者ハ懇諭ニ及ヒ猶解セサル者ハ是乃チ王化ニ服セサル者ナリ 王化ニ服セサル者ハ此藩ニ在ルヘカラス 闔藩ノ士民奮起勉力忠誠を抽ツヘシ
六月十六日以来追々令ヲ下シテ公私ノ名分ヲ正ス 奉行所ハ 城中ニアリ 一藩正令ノ出ル所ナレハ以後熊本藩廰ト改メ称シテ玄関には菊桐ノ幕挑灯ヲ用ヒ知事私邸ヨリ登廰ノ節ハ城門外ニテ下乗一条 宣下ノ役員ハ廰中都テ別席藩士ノ座班ハ追テ改革スヘシ士族卒共に朝臣ノ心得勿論ナリ一条 年頭五節句ノ出仕ハ朝廷へノ御祝儀ト心得ヘシ一条 精勤ノ面々へ紋服ヲ與へシハ廃止一条 屋形前下乗ニ不及一条 知事親類等ノ凶事一藩鳴物停止ハ廃ス一条 鷹場建川等廃止ス一条 此類悉クハ記サス
六月十七日以来追々ニ國境ノ警備ヲ解ク鶴崎八代佐敷ノ三ヶ所主事或ハ晩頭初多分ノ役人廃止 且四方ノ津口番所等數十ヶ所廃止 上番下番トモ多人數免職自他ノ出入勝手次第タルへキ旨ヲ令ス
六月廿九日以来廃局廃職等左ノ如シ 重士大隊長初大砲隊長小銃隊長其外軍事主事廃止合テ十人免職 駕役茶道廃止合テ八人免職 郡宰十六人郡監二人其附属二百十五人共ニ免職 次テ軍政大属正権九人・郡政権少属三十八人新ニ設ク 工作司廃止司長以下百五十餘人免職 供頭使番廃止附属共二百餘人免職 武庫司廃止司長以下百十人免職 練兵場役々小吏共百二十餘人免職 學校改正助教訓導初師員及ヒ附属小吏共九十餘人免職 外ニ漢學洋學兵學ノ諸生百六十餘人居寮ヲ許ス 槍術居合長刀射術棒野太刀師範廃止合テ十三人免職 醫學館改正醫學提擧以下十餘人免職 修築司廃止司長以下二百餘人免職 厩牧司廃止馭以下三百餘人免職 犬追物廃止師範以下十餘人免職 鞠獄司改正司長以下十三人免職 次テ鞠獄大属一人・正権少属十一人更ニ設ク 所々横目上聞一人横目二十二人は位師 吟味役人八人勝手奉横目十二人精等司録事以下五人廃職 雑税司録事以下十一人免帳調役五人廃職監察附属共十餘人廃職
新政ノ初ヨリ藩廰ノ局々及ヒ役員ヲ改正ス 従来藩廰ニ辨務局・學校局・神事局・待客局・當務局・郡政局・市務局・僧籙局・邸宅局・會計局・工作修築局・軍備局・刑法局ノ十三局アリ 然ルニ辨務局ヲ庶務局ト改テ學校・神事・待客・當務四局ノ事務ヲ合併シ郡政局ヲ民政局ト改テ市務・僧籙・邸宅ヲ合併シ會計局ハ元廰外ニアリタルヲ廰内ニ引直シ工作修築局ノ事務ヲ合併シテ遂ニ庶務・民政・會計・軍備・刑法ノ五局トス 是ヨリ先キ會計局に會計主計ノ職アリ 辨務局ニ辨務長官及次官ノ職アリ三職共追々ニ廃止シテ五局新ニ大属一員又二員ヲ置キ録事書記ヲ某ノ少属某ノ史生ト改メ七月十八日従前ノ私邸を藩廰ト定メ知事参事ノ詰所ヨリ五局末々ニ至ルマテ僅ニ閾ヲ隔ルノミ一視ニ座列シテ百事下ヨリ決ヲ取ルモ上ヨリ旨ヲ令スルモ立処ニ辨シテ留滞ナカラシム 於是今マテノ吏員ヲ大ニ減シテ十分ノ一二トナシ且五局二示テ曰今度改革ニ就而は舊来ノ例格等に不拘専ラ朝廷ノ御趣意ニ基徽萬事簡易無造作ヲ主トシ一新之際目確然タラン事ヲ要ス 故ニ追々冗官ヲ廃シ人員ヲ減シヌレハ益繁劇當然ト雖共此砌銘々一層奮發涯分ヲ盡シ闕漏コレナキヤウ各職一致ニ勉勵スヘシ
七月三日藩士座班陪士ノ身分ヲ改正ス其略ニ曰一門名號及ヒ一等ヨリ九等マテノ等級ヲ發シ士族卒ノ二等ニ定メ且一門以下家中ノ陪臣モ目安ヲ立テ以テ本藩ノ士族卒ニ編入シ往々ハ人柄次第役員且兵隊ニモ抜擢スヘシ サテ又皇政一新天下ノ生霊均シク王民タル上ハ卒平民ヨリ士族ニ對シ無禮ノ事有リテモ討捨ハ難叶然レ共尊卑ノ別ハ自カラコレアル事故卒己下ヨリハ愈以禮譲ヲ守ルヘキ旨布令ス 此後又令ヲ下テ曰無役士族ニ等位コレナキ旨朝廷ヨリ仰出サレアリ依之集會等ノ節羽族籍ノ新舊年齢ノ長幼ニ因而交接其宜ニ適ヒ禮譲ヲ失ハサルヤウ注意スヘシ
七月九日家督相續文武修行ノ事ヲ改正ス 其略ニ曰新禄ノ 慶安前後ヲ以テ新舊ノ禄ヲ定メ世襲世減ノ制ヲ立ル事ハ重賢譜中ニ詳ナリ 跡目ハ宝暦以来其嗣子藝術の科目ヲ以テ引継ノ定メナリシカ■(氵ニ公)襲ノ久キ其幣ナキ事能ハス一身ヲ以テ徒ニ科目ヲ貪リ實致ノ材藝成就ノ場ニ至リ兼且旧禄ノ内ニハ問ニ無能無藝ト申ス程ノ者モコレアルヤウニ成行况ヤ即今藩政乃チ朝政トナリタル上ハ科目ノ規則ハ断然廃止文武何レニテモ實致ニ進ミタル面々ハ相傳ノ多少ニ拘ラス相續セシメ若又平素心懸薄キモノハ舊禄タリ共減スヘシ一條 文武ノ藝を嗜ムハ士族ノ當前ニテ誘掖勧奨ヲ相待へキ二アラスサレ共従前一際人心ヲ激励シ士風ヲ鼓舞スル為メ賞典ヲモ設ケ置ト雖共日ヲ遂ヒ年ヲ積リ今日ニ至リテハ毎年ノ常例トモ申スヘキ程ニテ格別補ヒニナラサル故以後右ノ賞典ハ廃止ス二條 以前ヨリ諸藝ノ師範ヲ立置キ専ラ教導ノ處時勢變轉ニ随テ兵制軍器モ革リタレハ諸藝モ右ニ應シ損益ナキ事能ハス 之ニ依テ武藝ハ剣術柔術泅術文藝ハ■(算カ)術音楽五藝ノ支藩マテ残シ 此五藝モ次テ廃ス 其餘ノ師範ハスへテ廃止三條 右ノ次第ナレハ銘々深ク勘考ヲ凝シ此後ハ各生質長スル所ノ藝術ニ身ヲ委子専ラ實用ヲ志シ徳器成就他日屹ト御用ニ相立ヤウ奮發砥励スヘシ四條
「岐阜県文化財図録 検索」に「加藤光正遺品膳部付 蒔絵五段重」というものがある。
pref.gifu.lg.jp/BUNKA/GPR017_001V04?ZAI_NO1=1&ZAI_NO2=332&ZAI_NO3=1
ここには次のようなコメントが添えられている。
【本品は加藤清正の所持品で孫光正誕生の折つかわしたもので、光正が飛騨に配流の際に持参したものである。五段重の模様には葡萄模様の蒔絵を施し、桔梗紋、桐紋、折墨紋が使用されている。桔梗は加藤家、桐は豊臣家、折墨は清正のみ使用の紋章である。清正所用の脇差にも三種の紋所が施されている。】
よくよく見ると墨が斜めに折れた文様が窺える。詳細なものを見てみたいと思っているが、清正の廟所がある本妙寺の宝物殿にでも出かければ拝見できるかもしれない。
どなたかこの「折墨紋」についてご存じないだろうか・・・(写真でも提供いただければ幸いです)
先日訪ねた安國寺には加藤忠広夫人崇法院(光正生母)が、父・蒲生秀行を偲んで建立した立派な供養塔がある。また往生院には同様の大きさの母・振姫の供養塔がある。加藤家没落の原因となった光正の行動はなんとも歯がゆい思いがする。信長・家康・清正・蒲生などの血を引く人だけに思いは一層深くなる。
蒲生氏郷
∥----秀行
信長-----冬姫 ∥
∥----崇法院
∥ ∥
徳川家康----振姫 ∥-------光正
∥
加藤清正-------------忠廣
加藤家の家紋は「蛇の目紋」がよく知られているが、桔梗紋についてはいわく因縁がある。5,500石の侍大将であった加藤清正は、天正16年大抜擢を受けて肥後熊本半国の領主となる。清正は先年改易した讃岐の尾藤家の旧家臣300人程を家臣としたが、秀吉はその尾藤家の武具や調度などを清正にあたえたという。桔梗紋は尾藤家の家紋でありこれがそのまま加藤家に受け継がれたのである。
蛇の目紋の軒瓦は見受けないのだが、熊本市教育委員会の「石垣保存・発掘調査報告書」(1999/3)等を見てもこれを見ることは出来ない。刻印として直経15㎜ほどの数種の蛇の目紋が確認できるだけである。何故だろうと素朴な疑問が残る。
実は史談会の会員T氏のお宅の庭から、多量の瓦が破砕された形で掘り出された。T氏が半年ほどこつこつと作業をされてきたが、一つ一つ水洗いをされ托本をとるという気長な活動を続けておられる。瓦の研究家や文化財関係者がたずねられる、貴重な活動である。
蛇足だが秀吉に殺された尾藤知宜(讃岐180,000石)の二男知則は寛永十二年忠利に仕え、同十五年の嶋原城攻めの時に壮絶な討死をしている。子孫二流が明治にいたった。「武家家伝」をみると、尾藤氏の家紋は桔梗紋ではなく「違い斧」とされる。細川家家臣尾藤家もまた「違い斧」を家紋とされている。
開催期日 2011年3月8日~5月8日 だそうな。
どうやら九州新幹線開通に合せての事らしいが、大変有難い事だ。あと9ヶ月半ほどのことである。
且外國交際ノ勅問ニ奉對ス伏惟近年説者輙スレハ唱フ開化文明ト又謂フ 四海兄弟一視同仁ト果シテ此言ノ如キトキハ汎濫漫漶二シテ差寄分限ノ正スヘキヲ知ラス 豈外誘ニ惑フノ説ニアラスヤ 然ルニ今聖問内外親疎ノ別アルヲ掲明シ玉ヒ自主獨立ノ國體ヲ立ントスルニ及フ 誠ニ天下蒼生ノ幸福神州ノ元気未タ地ニ墜ス頽日ヲ桑楡ニ回ス良機會ト挊喜雀躍ノ至リナリ 先般来屡愚衷ヲ献セシ如ク永ク獨立國野體裁ヲ保ント欲セハ大本ヲ固クシ大志ヲ立ルニ在リ 本立志定テ後始テ獨立國ノ名ヲ全フシ内外主客ノ分モ正シカルへク盟約ノ信義モ固カルヘシ 此志氣廟堂御確定ノ後群臣諸侯ヲ集メ誓言して謂ン国家ノ準的既ニ定ル 各方嚮ヲ爰ニ定メ上下同轍闔國一致して盡瘁鞠躬始終国家ニ殉スル志ヲ執ヲ以テ務トシテ各此盟誓ヲ永ク服■セヨト此ニ於テ感泣奉命セサル者無カルヘシ 此事終テ後廣ク天下ニ令シ公選ヲ以テ忠信智勇粗備リ國命ヲ辱メサル程ノ人物ヲ擧用シ外国人ニ應説セシム 昔シ冨弼契丹ニ使シ献納ノ字ヲ爭テ頗ル国體ヲ存ス 其後李税金軍ニ使シテ大ニ命ヲ辱シム 是應接其人ノ擇ハサルへカラス一證ナリ 其應接ノ次第ハ是迄ノ條約行ルヘキ條件トヲ酌量シ彼ニ大損ナク我ニ大害ナキ條約ヲ新定シ貿易通信長久ヲ保ン事ヲ談判ス 然ト雖共我々逋負等ノ曲事アリテ意ニ慊ラサレハ彼ニ信義修理徹底セス談判遂ケ難カラン因テ積年ノ逋債今般一切償返スルニ如ク金銀ハ皇國闔邦中匹夫工啇ニ至ルマテ身ニ應シ分ニ應シテ貢献セシムへシ 朝廷御確立ノ御趣意ニ感シ且ツ皇国浮沈ノ所係ナレハ誰カ異辞アラン臣カ領地ノ如キ版籍返上ノ上ハ私ニ處置シ難シト雖共若命令アラハ一藩ノ分ヲ尽シテ貢献スヘシ サテ又版籍返上ノ勅問ニ奉對ス 方今政令一ニ帰シタル上ハ制度名分ヲ正フシ藩主ノ名ヲ廃セラレ知藩事ニ被任トノ儀敬承ス 夫封縣郡縣ノ得失ヲ論セハ古今説者紛紜未タ適當スル所ヲ知ラス 臣愚ヲ以テ考ルニ封縣郡縣ノ果シテ得失アルニ非ス 之ヲ措施スル人如何ニ在ル耳其道ヲ得レハ殷周ノ天下モ數十世ヲ保チ一度人心ヲ失ハゝ秦ノ郡縣モ二世ニシテ滅フ 其後ハ全部縣ヲ用ユルモアリ郡縣中ニ封縣ノ意ヲ寓スルモアリ而シテ天下ヲ保ツ長短汚隆アルモノハ郡封ノ故ニ非ス政治ノ理不理ニアリ窃ニ思フ三百年来君臣上下ノ分定理テ諸侯ハ永ク王臣ノ義ヲ存シテ朝命ヲ奉戴シ藩士ハ常々陪隷ノ名ヲ甘シテ主命ニ奔走シ一旦賦役征伐ノ事興ル上下敢テ違命ナキ所以ナリ 朝廷ヨリ直チニ命ヲ下スヨリモ藩主ノ手ヲ経手令スレハ尊ハ益尊卑ハ益卑ク上下秩然始テ穆々ノ御威光モ相立ヘシ 然レハ則假令知藩事ノ名穪ヲ下し賜ルモ舊来君臣ノ名義ヲ廃セス 藩主陪臣ノ實ハ存シ置ルゝ方良策至計ナラン伏シテ望ラクハ府藩縣一轍ノ政令大綱ヲ立玉ヒ封縣郡縣参錯シテ互ニ相維持スルノ両利ヲ収メ諸道ニ於テ都督府ヲ建置シ在廷ノ大官ニ命シテ都督府トシ接近の一道之ヲ管轄シ朝令ヲ傳布シ下情ヲ通達ス 如此則チ本末軽重偏倚ナク政令齊整シテ政権咸ク朝廷へ御統一ニ相成ヘシ 且又既ニ圖籍返上スル藩々ニ至リテハ政事ノ治否用才ノ得失ヲ検査シ玉ヒ相當ノ御處分被為在度奉冀ナリ 又理財経済ノ道ニ昧シ只二三ノ肯緊ト思フ事ヲ概擧シテ御取捨ノ一端ニ供ス 夫用度豊阜ノ本節倹質素ニ基クハ臣カ贅陳ヲ待サレ共季丗薄俗ノ幣上下華靡奢侈ニ流レ今維新ノ初宜シク痛ク厳禁シ往古純朴ノ風ニ回スヘシ 萬一諸官諸侯華奢ノ行アルトキハ譴責アル可シ若シ弾正臺ヲ置ルゝニ於テハ右臺官監視シテ奢靡勿ラシメ又巡察使を諸國ニ差遣シテ藩主縣令ヲシテ奢靡ナカラシム 如此シテ上下勤倹ノ後財用餘裕アツテ一旦緩急ノ用ニ供ルニ至ラン 第一条悪金銀私鋳ヲ禁し贋金ヲ停止スルノ件謹テ考速ニ厳令ヲ下シ之ヲ犯ス者ハ罰典ニ處スへシ 而シテ不知不識人ノ欺罔ヲ受而悪金贋金ヲ所持スル者官之ヲ奪テ當然ナレ共處ニ之ヲ奪フトキハ下民困苦セン楮幣ヲ以テ替へ與テ可ナラン 第二条内外國債ノ事外国野逋債ハ天下ニ募理一切返済すヘ市内國之債ハ殖財ノ功相立マテハ三五年ノ間利息マテモ止ラレテ可ナラン 皇国は萬國ニ比スレハ封域狭小ニシ而財力モまた不敵外國ト共ニ借貸臝輸ノ利ヲ争フ共永ク接續シ難シ 只物品ノ有無ヲ貿易スルノ便計ニ如カス 第三条歳入歳出ノ事謹テ別紙出入ノ數額ヲ閲スルニ五官ノ入費及ヒ営繕旅用等の経費萬一過當無實ノ冗費モ測リ難シ宜ク弾正臺官ニ命セラレ検査監察セシメ弾糾規正シテ盡ク実ニ適ス可シ将タ正税外餘産ヲ興起シ諸費用ニ充テ猶國用不足アルトキハ不得止諸国より貢賦ヲ命スル外他策ナカラン歟附言風俗ヲ規正シ節倹ヲ誘導スルハ弾正臺ノ任ナリ 最モ任用其人ヲ慎マサル可ラス漢土ニテモ天子ノ意ニ出ス宰相等ノ私選ヲ以テ臺諫監官ヲ擧ルトキハ却テ宰臣ノ意ニ阿リ弊事アツテモ座視シテ敢テ論セス 此トキ朝忽チ紊レ乱亡ニ赴ク 今宜ク此幣ヲ殷鍳トシテ弾正一部ノ官員ヲ命スル 天意ト公選ノ二ツニ出テ議参タリ共典リ知ラサラシ無 然ルトキハ直臣拂士輩出シテ百幣ヲ矯メ節倹ヲ励ス 不日成功ヲ奏スルニ至ラン歟犯分献言シテ裁判赦ヲ乞フ
六月十七日韶邦朝廷ニ召サレ今般版籍奉還ノ義ニ付深ク時勢ヲ察セラレ廣ク公議ヲ採セラレ政令帰一ノ思召ヲ以テ言上ノ通被聞食ノ旨勅諚アリテ更ニ熊本藩知事ノ勅諚ヲ蒙ル 是日官武一途上下協同ノ思召ヲ以テ自今公卿諸侯ノ称廃セラレ改テ華族ト穪スヘキ旨且官位ハ是マテノ通リタルへキ勅命アリ
十九日戊辰ノ春兵ヲ東方ニ出シ各所戦争ヲ遂ケ神妙ニ思召サレ御慰労トシテ金二千両賜ル
韶邦藩知事ノ詔ヲ蒙リ藩政改革速ニ盡力スヘキトノ御趣意ヲ奉シ七月十七日東京ヲ發シ八月四日伊勢神宮ヲ拝シ十三日西京ニ到リ十五日同所ヲ發シ廿四日熊本ニ着ス 此時護美ハ西京ニ在リ 韶邦東京發足前奏シテ護美若シ暇ヲ賜リ共ニ改革ヲ策ラハ成功速ナルヘシ其跡桂御所ノ警衛ハ両末家ノ内上京セシメント乞ケレハ護美モ暇ヲ賜リ八月廿二日京師ヲ發シ廿九日熊本ニ着ス サテ護美発呈前去年東京在職中ノ労ヲ賞セラレ直垂一領鞍鐙ヲ賜春且又末家細川従五位利永上京桂御所御警衛ヲ勤ルノ處同年十一月免セラレ帰邑ス
二十八日北海道根室國ノ内目梨標津ノ二郡支配地トシ開拓スヘシトノ命アリ然處其後護久熊本藩知事在職中命じ四年三月九日管内士民撫育ヲ始メ一新ノ政事晝夜苦慮スル折柄蝦夷隔絶ノ地ヲ管轄スルカ如キハトテモ成功ヲ遂クヘカラス朝廷既二開拓使ヲ置レタル上ハコレニ一致ノ政教ヲ委任セラルゝ方開化ノ功績モ却テ速ナルヘシト乞ヒケレハ十二日許可ヲ賜リ右ノ支配ヲ免セラル
九月八日函館降服ノ徒預ケラレ藩内ニ禁錮し使役等勝手タルへキ旨命アリ其面々ニハ徳川ノ家臣山田八郎・浅田麟之助・井原弘蔵・幕内幡次郎・石寄益之助・田中銀次郎・小宮彦之条・蓮沼清三郎・青木由之助・浅井陽・海老原鍵三郎・杉浦多嘉吉・関弥太郎・守川善之助・小坂三十郎・中村兼太郎・亀谷丑太郎・武川勇次郎・久保常吉・伊久間市之助・土屋文次兵衛・小澤教治以上二十二人伊達ノ家臣小竹銃之助・小田邊其九次・大宮静橘以上三人ナリ 翌明治三年二月九日禁錮免セラルゝノ命アリ三月護送シテ両藩へ引渡ス
十月五日皇后宮東京行啓トシテ西京御出輿依之命ヲ奉シ我銃隊長大塚貞之允一小隊山田三郎八一小隊半隊長平山彦三郎・内藤信之允等各供奉シテ東京ニ赴カシム
【軍艦を献上す】
明治三年庚午三月韶邦兼テ英國へ嘱スル処ノ軍艦製造成就シテ長崎へ入港ス 依テ貢献ノ上表ニ曰海軍御興張ハ廟堂深遠ノ御指畫ト雖共未タ施行ノ場ニモ至リ兼玉ヒ韶邦僭越ヲ顧ス贅言シ奉ル抑我邦ハ大海還瀛ノ心ニ特立シ従前ノ通航海ニ疎ク水戦ニ拙シテ何ヲ恃ミ絶海萬里ノ風浪ヲ破テ神聖ノ御遣業ヲ擴充スル事ヲ得ン 宜ク速ニ公開水戦ヲ訓練シ巨艦大舶堂々トシテ要港ニ羅列シ一旦變起ルニ臨テ緩急機宜ニ應シ施設在ラセラルへシ 夫斯ノ如トキハ経略進取ノ大策得テ施スヘシ
皇威四裔ニ赫燿廟堂遠大ノ御志業モ始テ通暢スヘシ 然ト雖共費用莫大ナリ爭カ大蔵省用度ノミニテ一時御興張ニ至ルへケンヤ必海内ノ全力ヲ以テ資ケサル能ハス仍テコレラ府藩縣ニ分割兵賦ヲ徴シ其用ニ盈テハ數年ヲ出スシテ舩艦全備兵衆訓練スヘシ然レ共年ニ豊凶アリ地ニ肥瘠アリ況ヤ一咋春兵馬倥惚ノ餘昨年凶荒皆無ニ至ルノ地モアリ一ヲ執テ論スヘカラス 斯ノ如キハ宜シク参酌モアルヘシ 當藩ニ於テハ維新後何等ノ功績モナク誠ニ以テ恐悚ノ至ナリ仰願クハ此拙海軍御興張ノ一端ナリ共朝廷ノ御闕乏ヲ補ヒ奉リ将来藩任ノ職ヲ盡シ度志願ニ付今度天覧被仰出處ノ甲鐵艦英人ヨリ受得ノ後ハ上言ノ旨趣ヲ表シ献上奉ラント云々 斯ノ如ク奏シケレハ上表ノ趣御旨趣奉體シ神妙ノ事ニ付聞召届ラルゝノ旨朝命アリ
【韶邦致仕す-後継護久】
韶邦去夏藩知事ノ勅ヲ蒙リ帰藩即下ヨリ朝意ヲ奉シ職別兵制郡務市務座班或官俸ノ等級等多端改革スト雖共更ニ朝旨ノ蘊奥ヲ窺ヒ得サレハ十分ノ實効ヲ奏スル事能ハス頻リニ登京志アリト雖共所労アルヲ以テ果サス 止ヲ得巣委曲護久ニ付托シ名代トシテ四月下旬上京セシム 而シテ韶邦又謂ラク如此維新ノ時ニ膺リ只管疾病ニ罹リ而朝旨徹底ニ至ラサル事アラハ何ヲ以テカ知事ノ職ヲ盡サンヤト乃チ断然一決シ大参事米田虎之助ニ托シテ致仕ノ表ヲ上ル
五月八日護久依召参朝ノ處韶邦致仕願ノ如ク許可ヲ賜リ十三日位階正四位ニ叙セラルゝノ旨特命ヲ蒙ル
十月韶邦病気聊癒ルヲ以上テ今般致仕且位階昇進ノ天恩ヲ拝謝ノタメ十五日熊本ヲ發シ閏十月四日東京到着拾五日参朝其後暫ク滞京ノ内十一月廿五日華族東京住居ノ勅命アリ 依之直ニ濱町邸ニ住居明治四年三月今戸ニ於テ新邸ヲ営ミ六月十三日轉居す
(了)
昨日ご紹介した明智左馬之助流の三宅家の「明智系図」によると
幼名 「春子」 と書かれていた。「玉」へと改められた時期ははっきりしない。
護久西京ニ在テ脚気ノ病ヲ發シ國許温泉入治願ニ依テ百日ノ暇ヲ賜リ四月十二日京師ヲ發シ歸國京師ニハ重臣且兵隊ヲ留メテ守護ヲ命スト雖共尚安ンセス護美ヲシテ代テ上京セシム 護美五月十八日軍務官副知事免セラレ同日護久ニ代テ熊本ヲ發シ十四日西京到着次テ桂御所警衛命セラル
五月護美参與職免セラレ出仕ノ節麝香間衹候ノ思召旨ニテ直垂一領及ヒ鞍鐙ヲ賜ル
是月祭政一致皇道復興及ヒ蝦夷開拓ノ勅問アリ韶邦謹テ奉對シテ曰天祖以来固有ノ皇道ヲ復興スル聖慮アツテ其施為ノ方ヲ群下ニ諮詢シ玉フ 朝廷ノ言爰ニ及フ誠ニ社稷ノ大幸萬民ノ洪福何ヲ以テ之ニ加ン 臣■ク此の明詔ヲ讀テ抃躍ニ堪ス 士庶亦感泣奮勵スト聞ク是天下人心摩滅スヘカラス善ニ嚮フ影響ヨリ疾キ所以ナリ苟モ此明詔の盛意ヲ推擴セハ天下何ソ治ルニ足ラン 四夷何ソ御スルニ足ラン然モ竊惟古語云有始有終者其惟聖人乎又云莫不有始鮮能有終伏望 朝廷ノ此言始終不渝永世不朽能ク中興ノ鴻基ヲ建ラレ之ヲ千萬年ニ傳へ玉ン事ヲ夫往古皇道隆盛ニシテ徳化宏遠君臣上下ノ分定テ大義天下ニ昭々タリ其故他ナシ三器ノ訓ニ基キ上一邪ヲ容レス一姦ヲ蓄ヘス 清明純■ニシテ天下ヲ照臨ス 依之天下ノ朝廷ヲ仰貴フ事神明ノ如シ 迨應神天皇朝始テ漢土ノ経籍ヲ資用而天祖ノ彛訓ヲ助成シ人倫益修大義益明其後二至テ巫覡浮屠陋儒俗學ノ説アリテ大ニ正教ヲ乱ル徒是以降皇道漸廢人倫漸壊ル 加之近世ニ至テハ西洋耶蘓天主ノ邪教屡人心ヲ蠱惑ス 皇道ノ厄勝テ歎スヘケンヤ今也之ヲ更張セントス 實ニ千載ノ一時ナリ其功効ニ至テハ歳月ヲ積テ見ルヘシ 瞬息ノ期スヘキ二非ス 要之先ツ廟堂ノ清粛シ邪説ヲ斥遠シ洋風ヲ禁絶シ凡事祖宗ノ遣意ニ基キ再ヒ神聖ノ大道ヲ掲明シ猶鏡ノ塵ヲ掃ヒ垢ヲ去テ明光ノ遠ヲ照スカ如ク皇道ヲ明ニセントスルハ則他ノ方ナシ唯外誘左道ノ汚レヲ除ニ在リ然シテ祭政一致ノ理ヲ示ス是又朝廷先ンシテ之ヲ行玉フへシ 今其日良辰ヲ擇ヒ天祖大祖ノ神ヲ廟堂ニ亨シ新タニ際祀ノ盛典ヲ擧ケ此日ニ於テ群臣諸侯ヲ會シテ同心協力大ニ皇道ヲ興起シ外誘ヲ攘除スルヲ以テ神明ニ誓ヒ若シ此誓ヲ渝へ姦ヲ行ヒ非ヲ為ル共ハ則神明ノ罰アルヲ祝ス 是二於テ事天祀先反始報本ノ義始テ見ル施為ノ要件ノ如キハ一ニハ伊勢ノ神廟ヲ崇祀シ諸國ノ淫祠ヲ毀チテ遥拝所トシ人々ヲシテ神ヲ敬スルノ意ヲ知ラシム 二ニハ天下府藩縣ヲシテ大小學校ヲ建設シテ皇道ヲ講明シ倫理ヲ脩治須 三ニハ皇子親王ノ緇流桑門ニ入ル人ヲシテ盡ク還俗シ皇流ノ貴キ佛ニ侫セラルヲ示ス 四ニハ天下ノ佛寺漸ヲ以テ合併シ僧侶漸ヲ以沙汰シ人民ヲシテ遂ニ佛説ノ憑ムニ足サルヲ知ラシム 五ニハ兵隊ヲ除クノ外洋服ヲ着シ洋冠ヲ戴キ被髪脱剣スルモノ之ヲ禁シ技藝器械彼ノ所長ヲ取ル而己政教制度ニ至リテハ一切模倣セサルヲ示ス 如此ナレハ則本末粗定ル 積累不怠弥久不變は皇道ノ古ニ復ス遠キ二非ス 然ト雖共所謂神而明之在人又其人存其政擧ト云ヘル如クナラスメ苟モ官其人ヲ得サルトキハ事行レサル而己ナラス 宋ノ王欽若王安石カ古道ヲ復スルヲ口實トシテ奸ヲ呈スル如ク徒ニ害アツテ益ナシ 仰願クハ朝廷樞要ノ地ニハ皇道ノ真ニ可貴國体ノ實ニ可崇ヲ知リ功利外誘ニ迷溺セラル 大器ノ人ヲ用ヒ玉フトキハ皇道ノ振起為シ難カラス 皇道ノ深意施為布置ノ密ナルニ至リテハ下問日迫リ且臣カ浅漏敢テ識ル所二非尚再問ヲ賜ハゝ國論ヲ凝シ詳明献言スヘシ 又蝦夷地ヲ開拓教導スル方法謹テ惟ルニ臣西陬ニ生レ最モ東北ノ形勢ニ暗シ只地圖等ヲ以テ按スルニ蝦夷は本邦ノ北門宜シク鎖鑰ヲ厳ニシ經界ヲ廣メ皇化ヲ布ク可シ 一旦之ヲ外國ノ有トス所所謂唇晝歯寒ニ至ル 防澂杜漸ノ策ナカルへカラサルハ論ヲ待タス 然レトモ歯唇ノ患未タ人ヲ殺スニ至ラス 今腹心ノ患アリ之ヲ忽ニシテ薬石ヲ下サゝルトキハ忽身ヲ斃ス速ニ之ヲ救ハサル可ラス 其故何ソヤ抑外国人入港以来既ニ十六七年舊幕失措ヨリシテ猖獗日復一日其患今日ニ遣セリ 然ルニ今未タ貿易互市ノ規則立タス逋債ノ數累巨萬彼ノ富強愈大我ノ国威益墜今ニシテ逋債ヲ償ヒ國體ヲ張ラスンハ其極遂ニ国内ノ土地ヲ割テ謝スルニ至ラン外夷蝦夷ノ得失ニ比スレハ其軽重如何ンソヤ臣因テ窃ニ考先ツ内地ノ患ヲ救ハスンハ蝦夷地ノ開拓畫餅ニ属ス 宜シク速似逋債ヲ返スノ策ヲ講シ外国交際上彼此主客ノ分ヲ明ニシ互市通信ノ規律ヲ定メ是非ヲ計較シ我ノ非と曲トノ如キハ断然陳謝シ向来ノ條約ヲ新定シ永ク通信ヲ保ツ可ラシム 如此シテ始テ稍腹心ノ患を免ル 然ル後蝦夷開拓ニ手ヲ下ス何ソ晩カラン 若夫蝦夷ヲ開拓スルニハ先ツ險要ノ地ヲ澤ヒ帥府ヲ建置シ智勇恩威アル人ヲ督帥トシ四方ヲ率制経略シテ境界ヲ廣ム 且ツ本邦無籍ノ民及ヒ卑賤無産之者地ニ移住セシメ漸ゝ開墾シ人畜ヲ蕃殖シ又有罪ノ人アルトキハ時宜ニ因テ彼地ニ配徒數年ノ後ヲ待ハ或ハ版籍貢賦アルニ至ラン 詳細ノ事ハ彼地ヲ履歴スルモノヲ集メテ議セシメテ可ナリ
『歴史街道』平成七年三月号に掲載された桜田晋也氏の「明智光秀の新資料発見」を読み、ここ安國寺に三宅家(明智左馬之助系)から『明智系図』が納められていることを知った。ぜひとも拝見したいと念願していたが、今回その望みがかなえられいささか興奮しながらの数時間を過した。写真撮影などもお許しいただいたが、その公開についてはご相談申上げなければなならいと思っている。
安國寺について「肥後國誌」は次のように記す。
禅宗洞家越後轉輪寺末寺也寺領五十石清正侯ノ時建立之青龍山弘眞寺ト號ス忠廣侯ノ時住持間断ス忠利君小倉御在城ノ時彼地ニ於テ安國寺御建立明巖梵徹住持ス其後寛永九年當國御入城ノ日梵徹當國ニ来ル忠利君即チ梵徹ヲ弘眞寺ニ住セシム此僧豊前ヨリ持来レル大般若經六百巻ヲ即此寺ニ納メ國家安平ノ祈祷處トシ領五十石御寄附且當寺永々修覆等ノ儀被命之山寺ノ號ヲ改メ泰平山安國寺ト穪ス(以下略)
この開山梵徹が明智光秀の末子(ガラシャ夫人末弟)とされる。故を以て三宅家から『明智系図』が納められた。他にも「喜多村系 明智系図」が残されており、これについては意外な思いがした。
その他幽齋・三齋・忠利・光尚四代の「直々拝領」の画像等も拝見を許可された。
寺域には蒲生秀行供養塔を始め、肥後四戦役戦死者供養碑などがある。
家臣としては、沼田・朽木・續・溝口氏等や切支丹として有名な加賀山氏そのた多くのお墓があり、深く細川家とかかわりがあることをうかがわせている。忠利以降治年に至る藩主を祀る妙解寺(現・北岡自然公園)は道を挟んでお隣である。