「細川家文書 絵図・地図・指図編Ⅰ」 「細川家文書 中世編」 につづく永青文庫叢書第三弾 発売開始
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b99134.html
3代目忠利が家督継承した元和7年以降の発給文書・裁可文書と家臣団起請文261点を収録。行政システムの整序・確立過程を示す。
目次
内容説明
三代目忠利が父忠興より家督を継承し、豊前小倉城に入った元和7年以降の文書261点を厳選し収録する。発給文書・裁可文書や家臣団起請文など、細川家の組織・行政システムが、肥後熊本への国替えや当主の代替わりを経ながら整序・確立する過程を示す。一代限りの中世的主従関係ではなく、「御家」の永続が重要視される時代への変化を読み取る。
九曜紋
細川九曜紋(離れ九曜)
細川九曜紋(離れ九曜)の登場は、細川宗孝の殿中における不慮の事件(1747)以降のことであるとされている。しかしながらこの紋は以前から存在するものであり、この事件以後七つ紋にするとともに、正式にこの形の紋を細川家においては採用したということであろう。
「離れ九曜」というものは、いつのころから存在していたのだろうか。
永青文庫には寛永十五年(1638)の天草島原の乱の際、光尚が使用したとされる縦172㌢×横181㌢ の細川九曜を染め抜いた大馬験が残されている。
宗孝の事件から110年も以前のことである。
いろいろ調べると他にも時代を遡り証明できるものがあるのだろうが、今後の課題としたい。ご存知の方はご教示いただきたい。
江戸名所図繪を読んでいる。なかなか面白いし勉強にも成り、改めて関係サイトと照らし合わせたりしてみるとなかなk興味深い。
左手に藪に囲まれた加藤越中守の屋敷が見える。上部に見えるのが藪小路である。(巻一 p187)
広重 愛宕下藪小路
中央奥に赤く見えるのが愛宕山の入り口、加藤越中守の屋敷は右手藪の中であり、藪小路は背後に位置する。
左手に塀が見えるのは土方備中守の屋敷である。
あるサイトを見るとこの藪を「加藤家の祖である清正の朝鮮における虎退治に由来する」とするが、水口藩加藤家の祖は加藤嘉明でありまったく関係ない。そしてこれを引用しているサイトがちらほらある。削除を願いたいものである。
江戸名所図繪は次のように記す。(巻一 p189)
藪小路 愛宕の下通り、加藤侯の邸の北の通りを云。同所艮の隅裏門の傍に少しばかりの竹叢あり、故にしかいへり。
されど其由来詳ならず、傳説あれども證としがたし。
慶長より寛永の頃に至り細川三齋公此地に住せられ、その庭中の小池を三齋堀と號くといふ・
細川家の江戸上屋敷・龍の口邸のすぐ近くに「道三橋」があった。医師の曲直瀬道三(二代目玄朔)の屋敷があったことに由来するという。またこの橋は細川越中守から越中橋とも、又越中守の幼名から「彦次郎橋」とも呼んだと、サイト「東京都千代田区の歴史」は伝えている。
http://tokyochiyoda.blog.shinobi.jp/Entry/315/
この彦次郎が判らない。このような幼名を名乗った人を私は知らない。何かの間違いではないのか・・・・・
左手に見える階段が胸付雁木、300段の階段を登ると清正公の墓所・浄池廟に至る。
この絵図が書かれた時期、浄池廟がどのような形で存在していたのか定かではない。
左上部の赤く描かれているのが勅願道場本妙寺、その右が本妙寺本院である。左下の赤い表記の建物は現在の法皇閣、右手の赤い表記の建物は塔頭・雲晴院であろう。後年ここに神風連の小篠四兄弟が葬られることになる。
ほぼこの絵図の状態で現在に至っている。
絵図は泉岳寺
最近オークションで「日本図會全集」なる三冊の本を入手した。「江戸名所図繪」の巻一、二、四で昭和三年吉川弘文館発行の本である。
ちょっとした掘り出し物であった。まさに江戸の風情が各ページに満ち満ちている。神田神保町は遠いが、ときおりこのような掘り出し物に出会うと、オークションも捨てたものではない。これで数ヶ月読書を楽しむことが出来る。
皆さんはこんなものがあることご存知でしたか。永青文庫さんも最先端を走っておられますねー
私はまったく知りませんでしたが、去年の1月のことですから・・・・
「とんでもないことできる」永青文庫のiPadアプリに見る電子図録の未来
http://www.itmedia.co.jp/promobile/articles/1101/21/news105.html
http://itunes.apple.com/jp/app/id405913327?mt=8&ign-mpt=uo%3D4
iPad3 発売の(3/7?)噂もちらほらする昨今、このようアプリの進化形を見ると新しい iPad が欲しくなりますよね・・・・・・