津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

安國寺蔵「土岐系圖」から

2012-04-25 10:58:23 | 歴史

熊本の古刹「安國寺」に「土岐系圖」が残されている。随分以前許可をいただき写真撮影したものを所持している。
全文の紹介は現況出来る状況にはない。(安國寺の許可を必要とする)

安國寺にはこのほかに「明智系図」「喜多村系図」が残されており、「土岐系図」と共に明智氏にかかわる三つの系図がそろっている。
開山梵徹和尚が明智氏だとされることから、一族三宅家などから収められたものであるらしい。

この「土岐系圖」によると、明智光秀は土岐系山岸氏の山岸信周の四男だとされる。母が明智光隆の姉である。

    山岸信周       嫡男・山岸総領
                     進士美作守晴舎      嫡男・進士主女首輝舎
                                      一 ・進士作左衛門貞連
                                      一 ・進士六郎大夫貞則
                                      一 ・安田作兵衛国継
                 二男・山岸勘解由信舎
                 三男・進士九郎三郎賢光
                 四男・明智光秀
                     以下 略 

三つの系図共に登場するのが、光秀の子・僧玄琳である。この玄琳の項に次のように記されている。          

▲ 晴光 本名光舎
    童名山岸熊太郎 或ハ山熊太郎共云 明智作十
    郎 又 揖斐作之進共云 後改山岸勘解由 又後
    大■付ト成テ桂軒宗山共云 晩年出家シ法名
    玄琳僧都ト云 或ハ玄琳和尚共云 京都妙心寺
    塔頭ニ住ス

    弘治三年九月五日生於濃州可児郡伊河山岸ノ館或不破郡
    多羅ニ於テ生ル共云々母ハ於牧ノ方也父光秀ハ流浪ノ身
    也信周子多クアリ嫡子進士美作守晴舎ト云部屋住ニテ将軍
    家ニ直勤ス 次男岸勘解由信舎ト云 三男進士九郎三郎賢
    光ト云ウ 四男乃チ明智光秀也 以下ノ子略之 右各母ハ明智光
    隆ノ姉也 又信周ノ嫡子進士晴舎是ヲ山岸ノ総領トス 始終在洛
    セリ 数子アリ嫡子ヲ進士主女首輝舎ト云 次男を進士作左衛門貞
    連ト云 三ツ同六郎大夫貞則ト云 四ハ養子ト成テ安田作兵衛国
    継ト云ナリ 右各母ハ伊勢兵庫頭貞教女也 然ルニ晴舎嫡子主女首
    輝舎ハ総領職ト成テ而モ弘治元年二月濃州大野郡揖斐城主揖
    斐周防守光親ノ女ヲ娶リテ妻トス 其名桂女ト云無程生一子普賢
    共云ウ 曾テ光秀ノ妻牧ノ方ハ夫ノ留守中山岸ノ家ニ寓居ス
    常ニ輝光ノ妻桂女ト同舎ニ暮シテ其中互ニ和順也 而ル所牧ノ方ハ晴光
    ヲ生シテ后假初ニ病ニ臥シ故ニ乳汁止テ更ニ不出小児ヲ育スル事不能時
    ニ桂女ハ其以前ニ一子普賢丸ヲ生シテ幸ニ乳汁アリ因テ是ヲ晴光
    ニ分與ヘテ以撫育ス 牧ノ方ハ其御沢ヲ深ク悦ヒ漸ク快方ニ趣ク折節
    桂女ノ子普賢丸又病付永禄元年戌午三月五日年二歳而早世ス 因テ輝
    舎桂女夫婦共愛子ヲ失ヒ大ニ愁歎シ心中更ニ不楽因茲祖父信周ノ命
    とテ牧ノ方ニ談シテ晴光ヲ請受テ以テ輝舎ノ猶子トナサシメ桂女ノ乳ヲ用
    テ養育サセ右夫妻ノ為ニ実子ト称シテ是ヲ成長サセ遂ニ山岸ノ家
    嫡ニ相立畢永禄八年五月十九日進士晴舎輝舎父子於京都討
    死ノ後ハ晴光ハ曽祖父信周ニ養育セラレ濃州大野郡桂ノ山林ニ
    蟄居シ乱ヲ嫌ヒ常ニ風月ノ情ニ心ヲ寄セ安■ノ逸ヲ楽 畢光
    秀子共数多有トイへ共天正十年六月大乱ニ遇テ一人モ不残死亡ス
    然処唯■晴光一人幸而其乱ヲ避ケ死ヲ遁シ■子孫長久ノ基ヲ因
    茲明智山岸両家共ニ此晴光一人ヲ以テ嫡傳ト令ムル者也 実父日
    向守山崎ノ軍破レテ落命ノ砌ハ濃州ニ在テ是ヲ聞順死セント欲ス
    ル処曽祖父信周入道ノ諌ニ因テ死ヲ止リ暫ク閑居而曽祖父ニ仕リ
    文禄二年五月信周死去後直ニ出家ヲ遂テ法名ヲ玄琳ト号シ賀茂
    郡伊深村ノ正■寺ニ入ル 其後上京而下立賣ノ妙心寺ノ塔頭ニ住シ
    一門ノ人々ヘ菩提ヲ吊ヒ畢寛永八年六月十三日亡父日向守及ヒ
    其外天正十年ニ戦死ノ人々五十回忌ニ付追福ノ為於妙心寺自ラ大
    法事ヲ執行シ右努畢テ而后同月十五日遂ニ大往生ヲ致畢行年
    七十五歳

 

世に「土岐系図」と呼ばれるものがあるがその詳細を知らない。いろいろ議論されている明智氏だが、熊本安國寺の三つの系図を詳細に検討する必要があるのではないかと思っている。
写真の映りが余りよくなかったので読み下しもままならずにいたが、某氏の請いにより再び解読作業に入った。未だ50%と云ったところである。
 

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5・3~6・3 わくわく江津湖フェスタ

2012-04-24 15:25:54 | 熊本

 私の幼い頃の遊び場江津湖で、「わくわく江津湖フェスタ」が開催されます。
ボート遊びや魚釣りなど楽しみながら、参加されては如何でしょうか・・・・ 

           http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/Content/Web/Upload/file/Bun_64711_21image2.pdf      

           http://www.manyou-kumamoto.jp/users/eventnews/818_linkfile1_120416055010.pdf

江津湖はこんなに素晴らしいところです。
           http://kappabori.blog40.fc2.com/blog-category-11.html

                   http://kappabori.blog40.fc2.com/blog-entry-393.html  4/25追記

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無礼討ちとその顛末

2012-04-24 12:30:38 | 史料
「久武兄弟御長柄之者討果候事」と題された無礼討ちの記録がある。宮村典太編著「吹奇与勢」所収の「(草野)潜渓先生書簡」である。

         明和三年七月十日之夜五ツ時分、坪井報恩寺観音参群
         集之中ニ、竹部出屋敷居住する久武武助嫡子権之助十五
         才、次男金吾十三才なるか参利子に、御長柄之者銀拵之
         脇差さしたる若者、観音堂之せく中ニ而、権之助ニ除
         ヨト云しを、権之助慮外ものト云けれハ、右之もの権之助を
         押付るを金吾か後江より若ものをさしけれハ、若者はつ
         と云て手を放ス處を権之助抜打ニ眉間を切、地蔵堂
         之前ニ倒れるをとゝめさしたり、久武も兼而貧窮故、子
         供之衣類もいやしく見へける故、若者あなとりたると聞
         ゆる由、然れは花好(華美?)をこのむハ驕りなれ共、士は士之
         相應之衣類もあるへき事也、服ハ身の章といへること能々
         心得へし、及不及由礼ならねハならぬる也、することを得
         すしてするも悪し、することを得てせさるも悪事なり
         人多く集る處二ハ同道なしニ不可往と云事、退は老人之翁也
         森崎小左衛門咄二、始権之助刀を抜処を若者柄を取たる故、不
         得止脇差を抜シテ又手ヲトメタルトキ、左之手にて脇差ニ而
         切付けれハ権之助がエリ二喰付ハナサス処を弟刀二て首をサシテハナス
         時二権之助起挙り切たるよし
        同に居る
         上田宇助組、久武兵助父子三人宇助宅ニ而頃日之儀始末宜敷
         段、御家老中より称美、兵助兼而家訓よろしく被存候由、申渡     

久武家の家祖は、長曽我部元親の家老職を勤めた久武蔵之助親直である。加藤清正に随身し、加藤家没落後刻をへて細川家に仕えた。
此処に登場する権之助は後熊本を代表する俳人として名をなした久武綺石である。弟・金吾は200石堀田家の養嗣子となった。
先ごろ「手討達之扣」なる文書のなかに、この事件の顛末を知る一文を見つけた。
 
       明和六年七月
         上田夘助組
                             久武兵助嫡子
                                久武権之助
                             右同人二男
                                久武金吾 
         右両人儀一昨晩報恩寺於寺内寺本無右衛門
         支配之御長柄組新左衛門と申者■々通云慮
         外之躰難■通兄弟ニ而討果申候段相達申し候
         依之兄弟共ニ先相慎兵助儀心を付候様申聞
         置昨日右之趣御奉行所江罷出相達申し候処兵助
         并ニ子供慎居候ニ不及候段御奉行所より申来候事
             七月十二日
        
         上田夘助組久武兵助忰共此間於報恩寺御長柄
         之者討果候仕形年齢ニ者精悍敷儀共有之候
         畢竟平日教育宜敷故と被存候以後共ニ
         心を附教育可仕旨兵助可申聞旨御家老間於
         列座助右衛門殿被申聞候間私宅ニおゐて兵助
         江右之趣申渡候事
             七月 
 
 大変寛大な処分である。
この久武氏は我が家ともいささかの繋がりがあり、五代目室が久武氏である。六代目又之允の弟・清太郎がT家の養子となり嫡子・清四郎に嫁いだのが堀田家を継いだ金吾の娘・為である。そのT家は母の実家であり「お為様」は母の大伯母となり、私は二重にDNAを受け継いでいる。金吾殿の血が私にも流れている。 
 
 久武綺石(権之助)に次のような句がある。何を忘れるなと言っているのか・・・ 事件のことか・・・・

                  此こゝろわすれな人はわすれ雪       
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加藤家御改易之節之事(四)

2012-04-24 05:57:18 | 歴史

寛永九年
  六月十五日之御状継飛脚ニ而被送下同十六日子之刻ニ拝見
一、早々御報可申候処此方よりハ急申儀無御座候付而申入度
  叓共承候間御報差延只今申入候
一、熊本之躰本部新左衛門と申もの妻子を連熊本へ籠候由
  其外不残居城へはいり候由それハ左様ニ可有御座候先渡
  候へと肥後方より被申越迄ハ左様ニなく候て不叶儀ニ候事
一、道筋も番を置むさと人を不入申由是ハ前廉より左様ニ
   御座候と承候キ 此方よりも切々人を遣多分日々ニ此中ハ帰
   申候 肥後かたより状さへ参候ハゝ渡可申とて其心得仕由申
   来候 又若き者共跡先もなき儀申者もあいにハ御座候へと
   もそれハつまり申ましく候 猶又籠城之躰聞候ハゝ可被仰
   越候事
一、上使衆六月廿日比江戸を被立候由稲丹・内左馬ハ三千 
   宛人数召連被参候 大方ハ小倉へ何も参著可被申由ニ候若
   其元へ御通候共道筋馬之飼已下万つかへさる様ニ御尤ニ
   候不及申候へとも
一、我等なとも熊本つかへ候ハゝ人を召つれ参候と申来
  候 多分豊後通可参候間得御意と満足仕候事
一、とかくニ何ニよらす肥後者番をきつく仕事か替り候事
  候ハゝ必可被仰越候其元へ申入可然儀候ハゝ可申入候事
一、御分領道筋此度者御用しけく候ハん間継飛脚いく筋も
  被仰付可然候事
一、上使之衆不残小倉へ可被参候間是ニ而其元之事も可有
  御相談候間御使者を被付置それニ飛脚を段々ニ御付置尤
  存候 大方七月十二三日比至小倉著船と存候 其前廉より人可
  被成御付置候事 
一、夕部筑前之儀沙(汰)承候 年寄共と此申出入御座候処弥申分    この部分は黒田家中における「栗山大膳」事件に係る記述である。
  つのり栗山大膳屋敷ニハ傍輩も籠り黒田殿より人多ニ而番
  付候取沙汰仕候 如何成候ハン事ニ而候哉と申沙汰ニ候
  節々加様之儀も申候得とも只偽多候而少完ハ違申候
一、貴様御領之内へ参候共家陳迄ハ成間敷儀ニ候左候ハゝ
  可為野陳候所より其刻可申入候間竹木被調候様ニ被仰
  付可被下候 御法度にも竹木みかたの地ニ而むさと伐事成
  不申間かい申様ニ被成候而可被下候恐惶謹言
        六月十八日
             中 内膳様
                   御報
    尚/\上使之衆豊後通リニ定候ハゝ早々可被仰越候此
    方よりも無油断可申入候已上 

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加藤家御改易之節之事(三)

2012-04-23 08:04:14 | 歴史

   為御上使御下候由満足不過之候 下関通を肥後へ御越候由
   御用御座候而之儀にて御座候哉小倉より肥後へ御出候ヘハ
   四拾壱里御座候而八丁坂・秋月なとゝ申ハ大山多御座候
   又坂なき道を一通御座候 又豊後鶴さきより御出候ヘハ道能
   御座候而熊本へ廿六里御座候 其上夏河にて乗能御座候ニ
   何とて中國路を被成御出候哉と存候 又御帰之時分ハ又國
   をも御覧候ため又ハ北風吹申候故中國路を御上候而尤存
   候 いか成御談合候哉
一、小倉より肥後へ二道御座候絵図仕懸御目候 御覧候而道
   を御定候而可被下候御人数つかへ不申様ニ万事を可申付
   候 我等國之内ハ少にて候間何にても不苦候 筑後・筑前此
   儀をはや被存候ヘハ万事勝手能御座候間早々可被仰越候
一、存之外小荷駄すくなき所にて御座候間俄此儀まて御不
   自由たるへきと迷惑仕候間つかへ候得ハ如何候条下ノ関
   より半分ハ筑前わか松より下々御あげ被成半分ハ我等國之内
   へ御上被成候ヘハはか参へく候 御自身/\ハ御談合彼是
   のため小倉へ被成御出候様ニ御尤候 筑前わか松と小倉
   ハ半里半ほと間御座候 ミなとにて御座候
一、各様豊後つるさきへ御出候ハゝ我等國端より近御座候間
   人数ハ差置我等斗罷出以面可申入候事
一、何方通御越候哉急度被仰越候ハゝ可忝候 尚口上ニ申
   入候事
一、をよそ御人数・馬数可被仰越候さき/\の國へ可申遣
   候事
一、大坂へ御着候ハゝ先召馬我馬舟にてさきへ可被遣候 舟
   より其まゝ乗候ても不苦候 いつも関東へ其通ニ仕候事
一、舟御心安召候様ニと目録を以進之候 参物以下ハ舟ニ入
   不申候御用之事も候ハゝ此着ニ可被仰付候
一、肥後より左右申来候先書ニ申入候若き者共のかたまり候
   儀またやふれ惣様今ハ酒ニゑいたる様ニ仕居申まてにて候
   左様可有之儀与存候 替儀候ハゝ是より又可申入候用之状
   ニ御座候わけの見へ候様にと以他筆如是候 恐惶謹言
    六月十六日 
          稲葉丹後様
                人々御中 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   六月十五日之御状同十六日辰之刻ニ拝見仕候
一、肥後之様子静ニ御座候而掃除なと申付由門番抔も人を
   へらし申由加様ニ可有御座儀候間若替儀候ハゝ可被仰越
一、夜前為 上意御触状参候我等も若人之入儀候時ハ 上
   使衆如御差図可罷出由御座候事
一、筑前へも又肥前へも此段被仰遣由ニ候
一、内藤左馬・稲丹州・石河主殿なと被参候由此衆小倉へ
   御出候ハん儀大方相済申由若替儀候ハゝ可被仰越由候小
   倉にてハ何も御逗留候ハんと存候内左馬舟成かね中國路
   をくがを被参由候 其元ヘハ猶以可参候へとも御下候衆御
   番之様子書付進之候
一、何も六月廿日ニ江戸御立候由左候ハゝ七月中比小倉へ
   可為御著候事
一、肥後之様子弥右之分ニ御座候ハゝ其段今一度被仰越候
   而可被下候恐惶謹言
    六月十六日
          森  伊豆様
          本郷庄三郎様
                 御報
    尚々被入御念早々忝存候何時も御連判にて可被下候
    已上
    内左馬人数三千
             如此申来候
    稲丹人数三千 

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清正の伝説と実像を検証 生誕450年シンポ

2012-04-23 07:28:14 | 熊本

出席できず残念のきわみ・・・・・

http://kumanichi.com/news/local/main/20120422006.shtml

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家老・沢村宇右衛門宛書状二点

2012-04-22 11:36:41 | オークション

姫路城主 本多内記政勝書状

一筆啓達致せしめ候 / 御下り已後書状を以っても / 
申し入れず候六丸殿(細川綱利)いよいよ / 
御息災の由切々承り / 珍重に存じ候、然らば○外は / 
尤も荒木弥三兵衛所まで / の趣相届き申し候鶉 / 
の儀も阮西堂(沢村宇右衛門の兄 沢村阮与斎)より / 
御届け候是御精入れられ / 候段○存知候 / 
随ってその元へ下され候 / 御祝儀として忰共 / 
方へ御太刀・馬代並びに / 小袖御持参の由申し / 
越し候拙者においては / 満足せしめ候、猶後音の時を期し候、恐々謹言

九月廿一日   本多内記政勝 【花押】
沢村宇右衛門殿 御宿所

幕臣 兼松下総守書状

              兼松下総守
〆沢村宇右衛門殿 御報  正直

昨日は貴札殊に歳暮の / 御祝儀成られ真鴨一折、御意懸けられ / 忝く存じ奉り候、早々御報仕るべく候ところ / 罷り出で夜に入り帰宅ゆえ延引致し候 / 猶後喜の節期し候、恐惶謹言

 十二月廿八日   正直 【花押】

江戸前期 『 大目付 兼松下総守正直 書簡 』 肥後細川家宛

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加藤家御改易之節之事(ニ)

2012-04-22 10:00:24 | 歴史

六月三日之御奉書同十五日酉之刻至小倉参著致拝見候 今度
加藤肥後守息豊後守不届儀を書廻候ニ付而遂御穿鑿豊後ハ
飛騨國へ被成御預肥後守儀者近年諸事無作法其上於江戸生
候 子母共ニ御理も不申上國元へ遣候儀曲事ニ付國を被召上
庄内へ被遣候由乍恐御尤成儀共奉存候 就其為御仕置内藤左
馬助・石川主殿・稲葉丹後守・伊丹播磨守被差遣候 自然人
なと入申儀御座候ハゝ内々其心懸仕相待御上使之衆御差図
次第ニ可致之由奉得其意候恐々謹言
     六月十六日
           酒井雅楽頭殿
           土井大炊頭殿
           酒井讃岐守殿
           永井信濃守殿
           内藤伊賀守殿
           青山大蔵少輔殿
                    御報

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨十五日之御状十六日ニ参著拝見仕候 肥後八代之城御在番
木下右衛門大夫殿貴様へ被仰付熊本ヘハ伊藤修理殿・中川
内膳殿・嶋津右馬頭殿・秋月長州被参候由此方へも申来候
間従是其段申入候キ猶追々可得御意恐惶謹言
     六月十六日
           稲 民部殿
                 御報
   尚/\御上使衆當地へ直ニ御著候様此方へも申来候被
   斗時分爰元へ人を御付置候而御尤候 早打なとも切々可
   被指越候御用之儀候ハゝ相談仕可申入候口上なと可被
   申仁をも被差越可然候 御上使衆よりも其元へ切々御用
   之儀も可有之候間其御心得可有之候間其御心得御尤候
   已上

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

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熊本縣史料にみる加藤家御改易関連記事

2012-04-22 07:44:56 | 歴史

昨日ご紹介した 加藤家御改易之節之事 には含まれない、加藤家改易に関する記事が「熊本縣史料」に見える。
 

■寛永九年卯月廿七日書状から
         一、加藤肥後むすこ豊後守事此まへ左近右衛門かたより申遣
           由候 其後何共しれ不申候替儀候者左近右衛門ニ申付慥成
           もの下可申候 肥後守所へも切々註進之由候可被上哉 但被
           上間敷候哉此方にて積りにくゝ候 如何様其邊被立聞可然候

■(寛永九年カ)八月三日
         一、加藤肥後守気違之事此中之内居人ニ勝たる傍輩あらひま
           して内之ものにも其分其上日々夜々酒もりよのつねなら
           ぬ義ニて御座候 此比誰そきつく異見を申候と聞へ申候 そ
           れ故きもをつふし少形儀なおし被申候故申やミ候由ニ御
           座候事 

■寛永十年五月六日書状から
         一、加藤肥後息豊後も死去之由せめての仕合ニ候事 

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加藤家御改易之節之事(一)

2012-04-21 17:52:47 | 歴史

熊本縣史料・近世偏第一 「部分御舊記-公用部四」に、「加藤家御改易之節之事」という一項があり、加藤家改易にかかわる一連の動きを細川家文書から知ることが出来る。「部分御舊記」の欠点は、時系列で記されていないことである。約15頁に及ぶ関連の記事を、日時をおってご紹介しようと思う。

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今度加藤肥後守事御國被召上候ニ付而家来之者とも立退
                       (脱アリ)
可申候 然彼家中之者於御分國其むより/\に宿をかし 
やすらひ候ても不苦候之間其御心得尤候 恐々謹言
   (寛永九年)               六月十三日         伊丹播磨守
                          康勝 判
                      水野日向守
                          勝成 判
                      稲葉丹後守
                          正勝 判
                      石川主殿頭
                              判
                      内藤左馬助
                              判
       細川越中守殿
             人々御中

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  態申入候
一、肥後熊本より唯今一人罷帰申候 町沙汰ニ而候へとも
  兎角慥なる儀を可承様ハ無御座候 其上加様之誠敷無
  之儀取分無之候へとも肥後親子をはしめ世になきうつけ
  をつくし申候間不知儀と存申入候
一、此書立之分折〃寄合申候ハ肥後被果候ヘハ勿論被流
  候而も同前ニ存候間わき/\ニハ無構候 此もの共熊本
  ニ而可相果と申候而切〃相談仕候由申来候 是ほと不聞
  儀ハ無之候間必定可為偽候 併貴様をはしめ左様ニ可在
  之事とハ思召ましき儀候条其心得無之但渡可申と迄思召
  候ハんと存候間万〃一此儀必定ニ候ハヽ御上使衆もやか
  て其元へ御出候ハん間御心心持ニ成可申と如此候
一、熊本兵粮高成百目ニ四石仕由ニ候 是ハしのひ/\ニ米
  を町のも買候躰も見へ申候 多買籠候とハ見へ不申候 米
  之高さハ常之一倍之由申候事
一、先肥後かたより渡候へとの状不参候内ハと角籠城之景気
  たるへく候と存候間先城を渡し候へとの御使はやく下申度
  候 其上を以彼所之躰見へきり可申と存候
一、万事を被仰付候衆豊後迄先早ク御下候ハヽ九州之者共
  共も参候て得御意度儀候 江戸まて言上不成儀多可有御
  座候事
一、豊後御横目衆へも如此申入候間必定ニ候ハヽ可為言上
  と存候事
一、弥必定と承候ハヽ貴様まても可申入候事
一、侍共ハ壱人も不残熊本ニ集候而居申候事
一、千ニ一右之気違もの共籠城可仕躰ニ候ハヽ田なとかりこ
  ませ不申候様ニ可被成儀と存候 万事加様之儀いかほと
  も可在之候間九州之者共参得御意候人御下候様ニ仕度
  儀候 はや肥後ニハ當年之米御座候所にて候事
一、侍共妻子知行/\ニ居候 籠城ニ成候ハヽ方々へ退可申
  候 是をもしめ申度候ヶ様之儀ハ千萬可在之候間書中ニ難
  述候 此状急候故本かい殿へ不申入候被遣可被下候 自筆
  にて可申入候へともわけ見へ申ましきとは以他筆如此候
  恐惶謹言
    未ノ刻
      六月十三日
            戸 左門殿          戸田左門氏銕 摂津尼崎城5万石→美濃大垣城10万石転封(寛永十二年)
                人々御中 

                           

 

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お安く読む オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」

2012-04-21 09:29:20 | 書籍・読書

オランダ風説書 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E9%A2%A8%E8%AA%AC%E6%9B%B8については、WEB版稀覯書展示会において http://www.kufs.ac.jp/toshokan/50/ansei.htm 等が紹介されているが、まだ近しく読んでいない。
「お安く読む」精神で新書版で読んでみようと思う。 

オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」 (中公新書)

           松方冬子-2010

             中央公論新社

著者を同じくして、『オランダ風説書と近世日本』 東京大学出版会、2007年がある。

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惣庄屋・江上文書

2012-04-20 12:35:31 | オークション

惣庄屋 江上文庫 肥後の歴史 【古文書】29 

 随分沢山の量である。熊本県北・南関町の惣庄屋江上家の文書らしい。
料理研究家のはしりのような人物・江上トミ氏の実家である。 http://sekisyoukan.jp/egamitomi.html
出来うれば地元に残しておきたい史料である。過去にも沢山の史料がオークションにかけられ散逸した。 

        

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細川子爵家・反故/一括

2012-04-19 16:49:24 | オークション

【細川子爵家・反故/一括】古文書 書簡 古本 熊本 掛軸 掛け軸   ただいま1,000円 あと二日

これはどうやら宇土細川家にかかわるもののようですね。これだけまとまって出てくると、お宝が眠っているかもしれません。

コメント (2)
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熊本城内地震之間

2012-04-19 11:17:25 | 歴史

地震之間(屋)については過去何度もコメントした。唯一(?)残されている「彦根城地震之間」については、次のような報告書がある。
             http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/10504/1/ji0184009.pdf
このことからすると、地震之間とはこの当時の耐震建築(?)と考えるのが妥当なのだろう。

 しかしながら、細川家に於けるガラシャ夫人生害の際についての状況について「関原集」は次のように記している。 
「大坂玉造ニ越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置、何時も大地震或火事ニ而も外へハ不出、地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置・・・」
「四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置・・」という記述は、ガラシャ夫人に殉死した河喜多氏の資料によると、部屋の四方の鴨居に火薬を仕掛けて火を放ったとあるから、内容的には同様のもので信頼性の高い話ではないかと理解している。
このように「関原集」の記すところによると、地震に対応した建築物以外の意味合いが伺われる。

 豊前入国後の忠利代、小倉城内に「地震の間」の建設にかかわる記述が、福岡県史「小倉細川藩」で伺うことが出来る。同様の目的をもっての事であったのだろうか。

 熊本でも藩主の居館「花畑邸」に於いて「地震之間」の存在を知ることが出来る間取図が残されている。
そして最近「熊本縣史料」の中に、忠利が地震之間の建設を思い立ったことをうかがわせる史料を見つけた。家臣杉山藤兵衛宛の書状の一部である。

                    熊本城本丸家多候故矢蔵ニ無構中の家をのけ我々不下前ニ
                    地震屋を一ツ立候へと申付候家之儀ニ候得とも爰元御年寄衆
                    へ其段御物語申候留守之普請候間其元御両人も何事かと思
                    召候ハん間此由をも申入候其心得可仕候事

 この時期になると、藩主の正室は江戸藩邸にある。戦国期のガラシャ夫人の時代とは異なり、地震之間の用途も其の名の如く地震に対応した建物と考えるべきなのだろうか。 

              

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御恵贈御礼「戦国細川一族ー細川忠興と長岡与五郎興秋」 

2012-04-18 11:32:15 | 徒然

 知友近世史家・佐藤誠氏から「戦国細川一族ー細川忠興と長岡与五郎興秋」を御恵贈いただいた。この本については先にブログでコメントした事がある。

              2011-11-16 18:35:29 

私も一冊所持しているのだが、すっかりくたびれはて何とか二冊目を持ちたいと思って「日本の古本屋」やオークションに注意をしてきた。同書をお持ちの佐藤様がブログをご覧になって、「差し上げましょうか」とのご連絡をいただいた。その際はこれは頂戴するわけには参らず丁寧にお断りを申し上げた。ところが前触れもなく本日突然この本が送られてきてびっくりしてしまった。お気持ちが有り難く喜んで収めさせていただいた。

カバーがばらばら状態の手持ちの本は、朱線やら書き込みやらで賑やかである。
そしてまた書き込みが増えることは間違いない。感謝感謝である。 

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