津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

神田新銀町

2012-06-21 08:41:40 | 地図散歩

最近「かわらばん物語」という本を手に入れ、いろいろ調べていたら嘉永三年敵討ち事件が起きている。

この敵討ち事件は瓦版として出回って江戸庶民の口の端にも上ったのであろう、「文鳳堂雑纂」という書物の「巻百十四 雑記部」に「神田新銀町敵討一件」として掲載されている。編者は文鳳堂山城屋忠兵衛と号する江戸の書肆である

                       http://www.yushodo.co.jp/micro/kensaku/bunpodo/meisai.html

さて瓦版には次のようにある。
                        嘉永三戌年十月十八日明六ツ時比
                        神田新銀丁代地八丁ほり細川様御中やしき
                         塀下ニ而敵討の次第 

事件は八丁堀の細川邸塀下でおきたらしいが、ここで注目したいのは八丁堀の屋敷が新銀町の代地であるとされるところである。
新銀町にあった屋敷を代地である八丁堀に移し、新銀町は町屋として整備されたということであろうか。
初めて知ることで、まさか瓦版から教えられるとは思いもよらなかった。
新銀町は「しんしろがね」と読むらしいが、こちらは1935年に司町2丁目、多町2丁目と町名が変更されている。(もともと隣町に司町・多町があったらしい)
あの有名な「阿部定」が生まれ育った町である。 

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肥後入国と江戸屋敷の焼亡

2012-06-21 08:40:53 | 歴史

【忠興譜】
(寛永)九年壬申十一月四日三齋屢故将軍ニ忠節ヲ盡シ且忠利常々ノ忠志恩賞トシテ肥後國ヲ忠利ニ給ル 右ニ就キ三齋モ召サレテ委曲台諭アリ 事ハ忠利譜ニ詳ナリ

【忠利譜】
(寛永九年)十二月六日小倉ヲ發ス 僅カニ三十年ノ所領ナリシニ父母ヲ慕フ如ク遠ク駕ヲ送リテ哭キ叫フ者モ多カリシ 七日監物は先キ二發して熊本着翌日登城石川主殿頭へ謁シ要害ノ錠鍵等大番所二テ受取其夜ハ大番所ヲ堅メ其外處々番所ハ物頭足軽ヲ率ヒ警固ス 八日小倉ニハ小笠原右近大夫着ニ付佐渡ヨリ城ヲ引渡シ諸事無滞相済 
城米一萬千四百八拾七石八斗餘引譲ル
九日夜深ク山鹿ヲ立ツ 城番ノ面々ハ前以テ追手ノ門外ニ出迎フ 忠利下乗シ此所ニテ城受渡シノ挨拶等相済先ノ足軽頭下知シテ火縄ノ火ヲ消サシメ大手ニ進入ル時忠利門ノ蹴放ヲ戴ク 是頂戴ノ義ナリ 夫ヨリ入城祝ヒノ規式厳重ニテ主殿頭ヲ初メ城番ノ面々ニ腰物時服等引出物有リ 孰レモ即日出立セリ 同日八代城ハ有吉頼母佐・小笠原備前・志水伯耆ヲ以テ受取セ相済城内道具ノ帳等モ受取リヌ 十八日熊本城本丸二於テ家中ノ面々禄千石已上ハ太刀折紙其以下ハ銭百疋宛ニテ一禮ヲ述フ 何レモヘ盃ヲ與フ 其後國中諸寺諸山ノ僧侶諸社ノ神職市中農家ノ長マテモ拝禮ニ出ル 十六日三齋鶴崎ヲ發シ廿日熊本城ニ至ル 忠利途中マテ出迎ヒ本丸ニテ饗應シ左文字ノ腰物ヲ呈セリ 八ツ時分三齋出立忠利川尻マテ之ヲ送ル 廿二日三齋八代着 廿五日辰刻入城規式有リ忠利入國後翌正月マテハ先代ノ通心得へキ旨申付タリ


そんな中江戸においては忠利の上屋敷が火事にあい焼亡するという事件が起こっていた。寛永九年十二月廿九日のことである。
「熊本藩年表稿」は一行、同日付で「江戸上屋敷焼亡」と記している。「寛政重修諸家譜」によるとしているが、このことは忠興譜にも忠利譜にも記されていない。
寛永十年正月十日継飛脚によって情報がもたらされ、忠興にも伝えられた。「江戸火事之事絶言語候」とある。
正月十七日八代から熊本の忠利への書状(1033)では、自分の屋敷を使うことを了承している。

            其方下屋敷つかえ候は 我々下屋敷へ人を可被遣由尤ニ候 長屋ニ成共又玄関之次ニも
            一間御入候間それへ成共人を可有御置事 

波乱に満ちた細川氏による肥後国統治の始まりである。

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『草枕』の那美と辛亥革命

2012-06-20 19:22:29 | 書籍・読書
           『草枕』の那美と辛亥革命
 
                     白水社

 6・17 朝日新聞「書評」  出久根達郎氏 

夏目漱石著『草枕』冒頭の一節。「情に棹(さお)させば流される」「兎角(とかく)に人の世は住みにくい」。三十歳の画家が東京を逃れて、那古井(なこい)温泉の志保田(しほだ)家に宿泊する。そこに那美(なみ)という、「悟りと迷(まよい)が一軒の家(うち)に喧嘩(けんか)をしながらも同居して居る体(てい)」の娘がいる。風呂上がりで素っ裸の画家に、初対面の挨拶(あいさつ)と共に、背後に回って着物を着せてくれる。画家は、どぎまぎしてしまう。
 彼女は短刀を素早く抜き、素早く鞘(さや)に納めたりする。結婚に破れ実家に戻った那美は、奇抜な言動をする女である。彼女にはモデルがいる。
 熊本五高教授だった三十歳の漱石は同僚と小天(おあま)温泉に旅行し、前田家に泊まる。この前田家の次女卓(つな)が那美である。卓の妹が中国革命運動を支援した宮崎滔天(とうてん)夫人だったので、卓のことは早くから知られていた。『草枕』の研究書には必ず取りあげられている。
 しかし、その生涯は略歴風に紹介され、伝聞が多く、「本当の姿」が見えなかった。何しろ本人が書いた文章や手紙が、一切無い。本書は卓の素顔を明らかにすべく資料に当たり、子孫のかたがたの証言を得て、まとめられたもの。卓がめざしていた生き方、理想としていた仕事などが、推理小説のように解明されていく。卓は晩年『草枕』のモデル問題で、出版社を訴える。その真意は、何だったのか。宮本武蔵の真筆『五輪(ごりん)の書(しょ)』を所蔵していた金持ちの前田家。お嬢様の卓は三度破婚、上京し、のちに民主主義革命を起こす孫文や黄興(こうこう)ら中国人留学生の世話をする。時には彼らの母親に変装して、尾行を煙(けむ)に巻いた。
 親分肌でこせつかぬ卓の性格は、奇妙なことに漱石夫人とそっくりだった。晩年の漱石は卓と再会する。そして。『草枕』冒頭の「情に棹さす」の棹の字は文豪の隠語、と某高校生の感想文にあった。漱石は卓に木(気)があった。ために流された、と。面白い!

     

   

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巨匠が甦らせた「永青文庫 紋様コレクション」

2012-06-20 11:22:50 | 熊本

地元のデパート鶴屋百貨店が、創業60 周年の文化的事業として、「細川家700年の歴史資料を収蔵している永青文庫の作品を、新たな作品として今日に甦らせるプロジェクトが完成」したとして同百貨店で展覧会が催される。

                          創業60周年記念 特別企画 いま甦る細川家の至宝永青文庫紋様コレクション

                             http://www.livikuma.com/up_data/kiji/2012623_1.pdf
                             http://www.livikuma.com/up_data/kiji/2012623_2.pdf
                             http://www.livikuma.com/up_data/kiji/2012623_3.pdf 

現代の巨匠たちが、永青文庫の至宝からすばらしいモチーフと対峙して新たな作品を生み出している。一見に値するユニークな催しである。

                   追記6/21  http://kumanichi.com/osusume/odekake/kiji/20120621001.shtml

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浅野家との関わり

2012-06-19 16:05:16 | 歴史

 因島大橋が架かるあたりに布刈瀬戸がある。寛永七年末(カ)細川藩の米舟がこの布刈瀬戸で難破し、廣島藩の代官衆や庄屋衆の「事之外肝煎」で米を「不残取上候」と、感謝の意を忠利宛八年正月八日之書状(855)で記している。当時の廣島藩主は浅野長晟である。

長晟は豊臣秀吉室・高台院の義弟、浅野長吉の二男である。長兄は幸長(五大老の一人)・紀伊和歌山城主であったが継嗣がなく、次弟・長晟がこれを継ぎのち福島正則の改易を受けて廣島藩主となった。三弟・長重は真岡2万石を領したが、祖父長政の隠居料として与えられていた常陸真壁5万石を相続した。(真岡は返上する。)赤穂藩の浅野家はこの長重の直系である。

細川家との姻戚関係はこの時期には見受けられないが、大変親しい間柄であり長重(采女)との書簡のやり取りが頻繁であったことを伺わせている。
寛永九年六月六日の忠利の長重宛書状(1581)は大変長いものだが、ここでは三齋が浅野長重の数奇屋造りに協力している様が記されている。

    津川辰珍=斯波義銀二男
 
   一、四郎右衛門ニすきやの繪圖之事 則申渡候 此便急便故 無其儀候事
   一、三齋御すきやの儀ニ精を出申候由 三齋を御せめ候てハ煩せ候と存候  


三齋の寛永九年八月五日書状(982)では長重の病が重篤であることに驚いている。

   浅采女殿煩以外ニ而候 大略可被果と見え申候 異見申候へ共其跡もつき不申候 大事之煩と未被心得候
   只當座之蟲にて候間薬にておしこみ候は頓而本復可仕と被存候間 左様之煩にてハ無之と土方(雄高)な
   と同道仕参候而申候へ共こくうなる事ニ精を被盡候 笑止千萬にて候 見申たる所ハ二三日之内ニつまられ
   候様ニ見え申候へ共未かゝりて被居候 今ハ驢庵(半井)之薬にて候 先日之比食被給候ヘハ腹はり候由被
   申候間萬病圓参可然由申候ヘハ萬病圓取ニ給候間十粒十五粒つゝ両度遣候處 のみたり不申由被申候間
   つよき薬にて一度ニ多クハのまぬ物にて候由 様/\懇ニ書付遣候ヘハ 尾張大納言(徳川義直・正室浅野
   幸長女春姫)殿へ被申 多ク取寄一日ニ百十四五粒廿粒程ものまれ候間 沙汰之限にて候由申遣候へ共
   もはや跡にて役ニ立不申候 其上たくさんニのまれ候へ共聞(利)不申ニ付其後は無服用候 是程ニ物之合
   點不参候 にか/\敷儀候 今ハ座敷を杖をつきあるかれ候へ共 はやころはれ候と見え申様ニ御座候 や
   せられ候事身なりなとハ板ニ而作り候人形のことくうすく御入候 十之物八ツ九ツも本復有間敷と にか/\
   敷存迄ニ候 此上も養性候事無理ニも異見可申と存候事

非常に絶望的な状態であるが、三齋のこの心配振りが二人の交誼を表している。心配は翌日の書状でも同様である。
寛永九年八月六日書状(983)

   先書ニ申候浅采女殿煩 彌おもりはか/\敷躰ニ候 今ハせつちんへも手をひかれ候而やう/\被参候 食
   事ハ一日ニおりへ(織部)盃ニ一ツ程かゆをやう/\のみ被入候 養性之儀土杢(土方雄高)と談合申 丹五
   郎左殿(丹羽長重)迄申候而御年寄衆へも申 今ハ物ニかまハれぬ様ニして養性させ申候へ共 其せんもな
   く近日可被相果と存候
 「自筆」
   采女殿俄ニ煩悪成 もはやれうけんもなきていにて候 笑止ニ可被存候 已上

寛永九年九月八日書状(988)では浅野長重の死去が語られている。
   采女殿はや死去ニ候 絶言語迄候事

そして九月十一日書状(990)では思いがけない情報が書かれている。
   采女殿之儀ハ不申候 但馬殿(浅野長晟)九月三日ニ又中風発 口なとゆかみ候由候 二度目ニ候間気遣
   成儀候 已上

九月十四日書状(991)ではその訃報がもたらされていることが判る。
   八月廿一日之書状一昨日参着令披見候 采女殿之儀はや度々申候 同日之同時ニ 浅野但馬殿死去之由
   注進ニ候 加様之仕合も在之物候哉 絶言語迄ニ候

十四日の書状で判るとおり、浅野長晟・長重兄弟が寛永九年九月三日の同じ日に亡くなったのである。将に言語に絶することであった。

この時期細川家は肥後熊本への転封が言い渡され多忙を極めている時期である。
この後浅野氏に関わる書状は見当たらない。しかしながら赤穂事件での不思議な縁につながっていく。
又、細川齊護室益姫は廣島藩・浅野(松平)齊賢女である。 

  浅野長政  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF

  浅野幸長  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7
  浅野長晟  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%99%9F  
  浅野長重  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E9%87%8D

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いやな予感

2012-06-19 11:33:04 | 徒然

 一両日「熊本藩年表稿」にはまり込んでいる。時間の経過をわすれPCの画面を眺めていたら、どうやら目を悪くしたようだ。調子が悪くて仕方がない。
内容というと知らないことが多すぎるし、目からうろこの情報がたくさんあり、示されている出典から詳細を勉強しようと思っている。
大変なご苦労があってのことは十分に察せられるが、今後新たな情報を書き加えて公開できるようなシステム作りが必要ではないのだろうか。

又、私は細川フアンとして、幽齋公以来細川家の肥後入国までを「年表稿」として別に作れないかと考えている。
なんだか、この作業に導きこまれるのではないかといやな予感がしている。というより気持ちがそっちを向いてしまい、気もそぞろといった感じである。
例えばあと十年元気でいたらどこまでやれるだろうかとか、考え出したら夜も寝られない。 

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武蔵と柳生新陰流

2012-06-18 19:01:54 | 書籍・読書

 

         武蔵と柳生新陰流 (集英社新書)
 
                    集英社

  宮本武蔵なる人物は細川家とは切っても切れない関係があるが、一方柳生家とのかかわりも深く、わざわざ頼み込んで弟子を家臣として
召しだしている。やっとうの方はまったくの門外漢なのだが、何が書いてあるかと若干の興味がわいた次第である。 

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熊本藩年表稿

2012-06-17 18:22:38 | 書籍・読書

 例えば古書籍店でこの本が運よくあって、購入しようと思えば23,000~25,000円が相場である。(日本の古本屋に三件登録されているが・・・)
ところが最近、インターネットにUPされているという話を聞いた。そしてこれを拡大プリントアウトして所持しておられるという。
「うそー」と思わず声を上げてしまった。

実は今日は熊本史談会の例会があり、其の仲間からの情報である。
帰宅早々「熊本藩年表稿」と打ち込むと・・・・「熊本大学学術レポジトリー」にあった。
        http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/15049/4/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E8%97%A9%E5%B9%B4%E8%A1%A8%E7%A8%BFr2.pdf

なんとも有難いことではある。何度か購入しようと思ったが・・・・なにせ高い。年金生活者としてはなんとも難しい。
其のうちにと思いながら、ほかの本に予算が回り、どうやらこれは実現しそうにないなーと思っていた矢先のビッグニュースだった。
いつこれがUPされたのか承知しないが・・・・・・・・・嬉しい。関係者の皆様に敬意を表したい。

そして毎日PCでページを追いながらすごすことになるのではないかと思っている。 

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肥後人・大空武左衛門

2012-06-16 19:19:57 | 熊本

最近手に入れた「かわら版物語」に、肥後人・大空武右衛門が紹介されていた。
文政十年藩侯にお供をして江戸に上った折のものである。
大変めずらしがられてこのような瓦版や、渡辺崋山による絵など多くのものが残されている。
このような人物の存在を知っていただこうと思い取り上げてみた。 

                  日本一の巨人力士 大空武左衛門 - YouTube

                  大空武左衛門肖像 / 渡辺花山 [画]

                  http://yamato48.mys-web.net/buzaemon.html

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「御船手渡し場跡」を国史跡に 文化審議会答申

2012-06-16 11:57:16 | 新聞

 

                御船手渡し場跡」を国史跡に 文化審議会答申 
                           http://kumanichi.com/news/local/main/20120615007.shtml

                                                               

       http://www.kumamoto-kougei.jp/index.php/kawashiri-kura/menu-kura-kura

       http://www.qsr.mlit.go.jp/n-shiryo/kenkyu/03/15.pdf  
       http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/history/shokai/tsushi/kinse/2/2.html
       御船手渡し場と熊本民謡「ポンポコニャ」

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益城町S邸そのた見学会

2012-06-15 16:41:07 | 徒然

  六月八日の入梅以来、ようやく梅雨らしい雨に見舞われた。
午前10:30ころから、有志十二名にて益城町砥川にある旧郷士・S家のお宅を拝見する。
幕末期の建築だろうと思われ、もともとは3間間口の建物であったらしいが、谷樋をとって同様3間間口の建物を増築、のちには六間間口を大屋根にされたらしい。いかにも庄屋クラスの農家を思わせる建物であるが、士分であれば三千石以上の家といった感じである。

古いお家柄らしくすぐ近所にはS家の氏神である砥川神社(旧・阿蘇十二宮神社)がある。こちらは台風で被害を受けたらしくお社が全面改築されていたが、確かな仕事の立派なお社である。境内には系図では伺えないという阿蘇家某氏の元亀時代の逆修碑が残されていた。(拓本で詳細を拝見)

お昼を済ませて益城町津守地区にある、徳富蘇峰・蘆花兄弟の生母等四姉妹の「四賢婦人記念館」を訪ねる。
四人の女性がこの地で生まれたので、其のかたがたを顕彰しているが、一族一党が明治の新時代にそれぞれ名を残した。

熊本市の東部にあるこの町は、一時期熊本市との合併問題でゆれたがこれを拒み、行政単位が小さいがゆえ郷土に対する思いも深く町の誇りとして顕彰し続けられていることを実感する。同町の郷土史家・松野国策先生の貴重な解説をいただきながら、三時間半ばかりの有意義な時間をすごした。
 

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忠興が得た加藤家改易の情報(了)

2012-06-15 16:06:40 | 史料

 寛永九年六月十四日書状(969)
           (前略)
    一 肥後國いかにも静ニ存之由 左様ニ可在儀ニ候 下々気遣仕由是又無餘儀事
                 (略)

 寛永九年六月十五日書状(970)
           (前略)
    一 加肥後被上候跡 五月卅日時分より國中ニ宿をもかさす人を不通 隈本ニも横目多候て城中へ他國之者も不入
      又白河之渡口をも城下一所ニ仕 人を改候由 彌對 公儀慮外成仕立ニ候 當地之仕合次第にて萬濟申事ニ候
      候を 不謂用心おかしき儀ニ候 但 其地を被出候時之分別と 爰元へ被参候而之分別と替たる物と存候事
                 (略)

 寛永九年六月廿三日書状(974)
           (前略)
    一 熊本之者共之書立被越候へ共不参候 留主居共之内申合肥後果候共なかしものニ成候共 隈本ニて果可申と
      申合候由 町沙汰ニ申之由候 此地ニも専其沙汰ニ候 肥後守より城渡上候へと被申 留主居へ之状判形にて遣
      候は相渡可申儀ニ候を 虚空成事申候事必定ニ候は いな時節と存候 五日十日にても抱候は以来迄見苦儀と
      存候事
    一 國替之沙汰色々様々申候之内ニ 肥後ヘハ其方被参候と申事 大方定り候様ニ此中ハ申候 千萬ニ一左様ニ候
      は其方大大名ニなられ候ハん事ハ珎重候 但肥後ハ舟付悪キ國にて候 我等ハ望無之身上ニて候間 何とそ心
      安彌逼塞之躰望にて候 内々可被得其意候 國替雑説ニ候ヘハ無申所候事
                 (略)
                  

                             ただいま書き込み中

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なんといっても万太郎

2012-06-14 15:15:13 | 書籍・読書

                     

相当くたびれてはいるが「日本の古本屋」で探し当てた、私の取って置きの万太郎に関する二冊である。

なんといっても私が一番好きな俳人なのだが、万太郎は小説家・劇作家であり、俳句を本職としていないところが良い。
どうも俳句を生業としている人の句は、上手だとは思うが今一面白みにかけるような気がする。
万太郎の句にはそこはかとした余韻が漂い、これこそが万太郎の真骨頂のように思える。

 「久保田万太郎句集」は、文庫本の大きさで、1991年9月発行360首ほどを収めた句集である。
「俳句の天才・久保田万太郎」は小島政二郎が万太郎の俳句の世界に誘ってくれる解説がうれしい佳書である。
そのほか30年前に買った文庫本、戸坂康二の「久保田万太郎」もなどもありずいぶん読み込んだ。
ただただすばらしく、ため息が出る。

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細川刑部(興孝)宛て松平信綱書状

2012-06-13 18:43:50 | オークション

松平信綱 伊豆守 書状/掛軸 書画 古文書 江戸前期大名

松平信綱 伊豆守 書状/掛軸 書画 古文書 江戸前期大名

松平信綱は元和九年に従五位下伊豆守に叙位・任官した。
寛永十四年天草島原乱に於いて、総大将板倉重昌が戦死したため代りを務め一揆の制圧の功を立て、その後老中などを務め寛文二年在職のまま死去。
細川刑部家の当主は初代興孝が寛文四年に隠居しているから、信綱の没年と照らし合わせると、この刑部とは細川興孝であることが判る。
時代の特定に至るものがないが、非常に珍しい書状である。                                             津々堂

 

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忠興が得た加藤家改易の情報(四)

2012-06-13 09:32:16 | 史料

  寛永九年六月二日書状(963)
       肥後身上相果候儀 先書ニ具申候
    一 隈本為御番 内藤左馬殿(政長)・石川主殿(忠朝)被遣候由候 此外御横目心ニ御使番衆二三人被遣
      由候事
    一 國之仕置ニハ伊丹播磨殿(康勝)被遣由候事
    一 隈本繪圖被成御覧 口々之御番九州之内小身成城持衆ニ被仰付由候 九州國持衆ニは肥後之儀一切
      不被仰付由候 尚松野織部・道家左近右衛門より可申候

  寛永九年六月三日書状(964)
             (前略)
    一 加肥後身上果候様子はや具ニ申進之候間可為参著候 配所へ被参ニ下人共走はて 鑓を持せて被参
      候事も不成候を鐡炮之者之内五人 此度之事ニ候間何方迄も供可申と申 其内一人やりを持而参候由
      候 かヽる奇特成ものは御入候哉と催感涙事ニ候事
             (以下略)

  寛永九年六月八日書状(966) 
             (前略)
    一 肥後へ當地より御譜代衆歴々被遣候 其上ニ水野日向殿(勝成)なとも被遣由候 様子は若隈本之留主
      居何かと申 城不相渡候は其時之御用と聞申候 自然左様ニ候は其方なとも人數召連被出候様ニと御
      意之由候 肥後守當地ニ而被成御果候は留主居とも愚意申事も可在之候哉 肥後守命を被助堪忍分迄
      被遣 豊後(光廣)をも飛騨國へ無■(己ニ大)儀被遣候 其上肥後守所より早々城を明御奉行衆へ相渡可
      申旨 留主居方へ右馬允(加藤正方)・下川(又左衛門)なとを以申遣候由候間 此上ニ留主居愚意可申
      わけ無之と存候へ共 右之分ニ被仰出候ハ何とそ子細も御入候哉と存候 左様ニ候而若其方人數召連
      被参儀候は中津之者共 留主居之外不残召連可被立事
             (以下略)

  寛永九年六月十四日書状(968)
             (前略)
    一 加藤右馬允(正方)・下川又左衛門ニ肥後守(忠廣)書状を持せ隈本留主居加藤平左衛門所へ 御奉行
      衆御著次第隈本之城渡上候へと申遣由候 それニ御年寄衆より状御添而参之由候 如此ニ候間平左衛
      門卒度も■儀可申わけにて無之と存候へ共 若留守居愚意申候時之ためと思召 其方を始九州衆人數召
      連彼地へ参候用意仕候へとの御諚候哉 但是ハうハかハの被成仰左馬にて 別之わけも御入候哉 不思
      議ニ存候 大隅殿(島津家久)ヘハ右之仰出無之由候事 

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