津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

益城町S邸そのた見学会

2012-06-15 16:41:07 | 徒然

  六月八日の入梅以来、ようやく梅雨らしい雨に見舞われた。
午前10:30ころから、有志十二名にて益城町砥川にある旧郷士・S家のお宅を拝見する。
幕末期の建築だろうと思われ、もともとは3間間口の建物であったらしいが、谷樋をとって同様3間間口の建物を増築、のちには六間間口を大屋根にされたらしい。いかにも庄屋クラスの農家を思わせる建物であるが、士分であれば三千石以上の家といった感じである。

古いお家柄らしくすぐ近所にはS家の氏神である砥川神社(旧・阿蘇十二宮神社)がある。こちらは台風で被害を受けたらしくお社が全面改築されていたが、確かな仕事の立派なお社である。境内には系図では伺えないという阿蘇家某氏の元亀時代の逆修碑が残されていた。(拓本で詳細を拝見)

お昼を済ませて益城町津守地区にある、徳富蘇峰・蘆花兄弟の生母等四姉妹の「四賢婦人記念館」を訪ねる。
四人の女性がこの地で生まれたので、其のかたがたを顕彰しているが、一族一党が明治の新時代にそれぞれ名を残した。

熊本市の東部にあるこの町は、一時期熊本市との合併問題でゆれたがこれを拒み、行政単位が小さいがゆえ郷土に対する思いも深く町の誇りとして顕彰し続けられていることを実感する。同町の郷土史家・松野国策先生の貴重な解説をいただきながら、三時間半ばかりの有意義な時間をすごした。
 

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忠興が得た加藤家改易の情報(了)

2012-06-15 16:06:40 | 史料

 寛永九年六月十四日書状(969)
           (前略)
    一 肥後國いかにも静ニ存之由 左様ニ可在儀ニ候 下々気遣仕由是又無餘儀事
                 (略)

 寛永九年六月十五日書状(970)
           (前略)
    一 加肥後被上候跡 五月卅日時分より國中ニ宿をもかさす人を不通 隈本ニも横目多候て城中へ他國之者も不入
      又白河之渡口をも城下一所ニ仕 人を改候由 彌對 公儀慮外成仕立ニ候 當地之仕合次第にて萬濟申事ニ候
      候を 不謂用心おかしき儀ニ候 但 其地を被出候時之分別と 爰元へ被参候而之分別と替たる物と存候事
                 (略)

 寛永九年六月廿三日書状(974)
           (前略)
    一 熊本之者共之書立被越候へ共不参候 留主居共之内申合肥後果候共なかしものニ成候共 隈本ニて果可申と
      申合候由 町沙汰ニ申之由候 此地ニも専其沙汰ニ候 肥後守より城渡上候へと被申 留主居へ之状判形にて遣
      候は相渡可申儀ニ候を 虚空成事申候事必定ニ候は いな時節と存候 五日十日にても抱候は以来迄見苦儀と
      存候事
    一 國替之沙汰色々様々申候之内ニ 肥後ヘハ其方被参候と申事 大方定り候様ニ此中ハ申候 千萬ニ一左様ニ候
      は其方大大名ニなられ候ハん事ハ珎重候 但肥後ハ舟付悪キ國にて候 我等ハ望無之身上ニて候間 何とそ心
      安彌逼塞之躰望にて候 内々可被得其意候 國替雑説ニ候ヘハ無申所候事
                 (略)
                  

                             ただいま書き込み中

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