津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

浅野家との関わり

2012-06-19 16:05:16 | 歴史

 因島大橋が架かるあたりに布刈瀬戸がある。寛永七年末(カ)細川藩の米舟がこの布刈瀬戸で難破し、廣島藩の代官衆や庄屋衆の「事之外肝煎」で米を「不残取上候」と、感謝の意を忠利宛八年正月八日之書状(855)で記している。当時の廣島藩主は浅野長晟である。

長晟は豊臣秀吉室・高台院の義弟、浅野長吉の二男である。長兄は幸長(五大老の一人)・紀伊和歌山城主であったが継嗣がなく、次弟・長晟がこれを継ぎのち福島正則の改易を受けて廣島藩主となった。三弟・長重は真岡2万石を領したが、祖父長政の隠居料として与えられていた常陸真壁5万石を相続した。(真岡は返上する。)赤穂藩の浅野家はこの長重の直系である。

細川家との姻戚関係はこの時期には見受けられないが、大変親しい間柄であり長重(采女)との書簡のやり取りが頻繁であったことを伺わせている。
寛永九年六月六日の忠利の長重宛書状(1581)は大変長いものだが、ここでは三齋が浅野長重の数奇屋造りに協力している様が記されている。

    津川辰珍=斯波義銀二男
 
   一、四郎右衛門ニすきやの繪圖之事 則申渡候 此便急便故 無其儀候事
   一、三齋御すきやの儀ニ精を出申候由 三齋を御せめ候てハ煩せ候と存候  


三齋の寛永九年八月五日書状(982)では長重の病が重篤であることに驚いている。

   浅采女殿煩以外ニ而候 大略可被果と見え申候 異見申候へ共其跡もつき不申候 大事之煩と未被心得候
   只當座之蟲にて候間薬にておしこみ候は頓而本復可仕と被存候間 左様之煩にてハ無之と土方(雄高)な
   と同道仕参候而申候へ共こくうなる事ニ精を被盡候 笑止千萬にて候 見申たる所ハ二三日之内ニつまられ
   候様ニ見え申候へ共未かゝりて被居候 今ハ驢庵(半井)之薬にて候 先日之比食被給候ヘハ腹はり候由被
   申候間萬病圓参可然由申候ヘハ萬病圓取ニ給候間十粒十五粒つゝ両度遣候處 のみたり不申由被申候間
   つよき薬にて一度ニ多クハのまぬ物にて候由 様/\懇ニ書付遣候ヘハ 尾張大納言(徳川義直・正室浅野
   幸長女春姫)殿へ被申 多ク取寄一日ニ百十四五粒廿粒程ものまれ候間 沙汰之限にて候由申遣候へ共
   もはや跡にて役ニ立不申候 其上たくさんニのまれ候へ共聞(利)不申ニ付其後は無服用候 是程ニ物之合
   點不参候 にか/\敷儀候 今ハ座敷を杖をつきあるかれ候へ共 はやころはれ候と見え申様ニ御座候 や
   せられ候事身なりなとハ板ニ而作り候人形のことくうすく御入候 十之物八ツ九ツも本復有間敷と にか/\
   敷存迄ニ候 此上も養性候事無理ニも異見可申と存候事

非常に絶望的な状態であるが、三齋のこの心配振りが二人の交誼を表している。心配は翌日の書状でも同様である。
寛永九年八月六日書状(983)

   先書ニ申候浅采女殿煩 彌おもりはか/\敷躰ニ候 今ハせつちんへも手をひかれ候而やう/\被参候 食
   事ハ一日ニおりへ(織部)盃ニ一ツ程かゆをやう/\のみ被入候 養性之儀土杢(土方雄高)と談合申 丹五
   郎左殿(丹羽長重)迄申候而御年寄衆へも申 今ハ物ニかまハれぬ様ニして養性させ申候へ共 其せんもな
   く近日可被相果と存候
 「自筆」
   采女殿俄ニ煩悪成 もはやれうけんもなきていにて候 笑止ニ可被存候 已上

寛永九年九月八日書状(988)では浅野長重の死去が語られている。
   采女殿はや死去ニ候 絶言語迄候事

そして九月十一日書状(990)では思いがけない情報が書かれている。
   采女殿之儀ハ不申候 但馬殿(浅野長晟)九月三日ニ又中風発 口なとゆかみ候由候 二度目ニ候間気遣
   成儀候 已上

九月十四日書状(991)ではその訃報がもたらされていることが判る。
   八月廿一日之書状一昨日参着令披見候 采女殿之儀はや度々申候 同日之同時ニ 浅野但馬殿死去之由
   注進ニ候 加様之仕合も在之物候哉 絶言語迄ニ候

十四日の書状で判るとおり、浅野長晟・長重兄弟が寛永九年九月三日の同じ日に亡くなったのである。将に言語に絶することであった。

この時期細川家は肥後熊本への転封が言い渡され多忙を極めている時期である。
この後浅野氏に関わる書状は見当たらない。しかしながら赤穂事件での不思議な縁につながっていく。
又、細川齊護室益姫は廣島藩・浅野(松平)齊賢女である。 

  浅野長政  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF

  浅野幸長  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7
  浅野長晟  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%99%9F  
  浅野長重  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E9%87%8D

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いやな予感

2012-06-19 11:33:04 | 徒然

 一両日「熊本藩年表稿」にはまり込んでいる。時間の経過をわすれPCの画面を眺めていたら、どうやら目を悪くしたようだ。調子が悪くて仕方がない。
内容というと知らないことが多すぎるし、目からうろこの情報がたくさんあり、示されている出典から詳細を勉強しようと思っている。
大変なご苦労があってのことは十分に察せられるが、今後新たな情報を書き加えて公開できるようなシステム作りが必要ではないのだろうか。

又、私は細川フアンとして、幽齋公以来細川家の肥後入国までを「年表稿」として別に作れないかと考えている。
なんだか、この作業に導きこまれるのではないかといやな予感がしている。というより気持ちがそっちを向いてしまい、気もそぞろといった感じである。
例えばあと十年元気でいたらどこまでやれるだろうかとか、考え出したら夜も寝られない。 

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