松本壽三郎先生の「肥後細川家侍帳(一)」の「御侍帳并軽輩末々共ニ」を見ると、「無役ニ出し被置知行」として十九人の人たちに壱万五千五百余石が給されている事が記されている。主なものは次のとおりである。
五千石余 妙解院殿忠利公御前様奥ノ知行
三千石 休無様
二千石余 萬 三齋様御姫様烏丸大納言藤原光賢卿北ノ方
千石 坊 (立允)
千石 こぼ 三齋様御息女・長岡佐渡守興長室
この侍帳は限りを寛永九年十二月九日としているが(いわゆる小倉時代)、この時期とて細川家は手元不如意で、寛永五年二月には大阪の塩屋藤兵衛の女房なる人物が貸し金の取立てにわざわざ小倉に乗り込んだりしている。(福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(一)p384) 忠利は妹萬に借金を申し込んでいるし、三齋とて同様でその死去後萬はお金は返済しなくても良いといっている。
京都での派手好みベスト3というものがあって、なんといっても一位は東福門院(秀忠娘和子)でこの着物道楽は並みの事ではなかったようだ。
後水尾上皇とは仲もよく長寿を保たれたが、この浪費癖は幕府に対してのあてつけとも思える。
後の二人の中に烏丸大納言廉中・萬の名前が登場するから驚きである。(熊倉功夫著・後水尾天皇)
烏丸家の俸禄は千石に満たない。萬がもたらす二千石が烏丸家にとっては誠にありがたい収入であることは云うまでもないが、その有り余る財産がこのような使われ方をされている事を知ると、納得がいかない。細川家中は手元不如意で喘いでいる。