津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

岩間何五郎正豊

2012-06-21 21:21:14 | オークション

                  (画像を削除致しました 6/23)

【巻物めくり】細川越中守家来? 在銘 視聴言動 まくり*江戸*8 

          私は別段ヤフーオークションの回し者ではないことを宣言しておかなければなりません。
          よほどのことがない限り応札もしませんし・・・・・
          真贋の程もわかりませんが、一応情報をお伝えしようと思います。

          武田信玄の長男・ 武田太郎義信の子、岩間六兵衛は、小笠原秀政女(徳川秀忠養女)千代姫が細川忠利に輿入れする際、
          小笠原家から隋伴細川家家臣となりましたが、この何五郎正豊は岩間六兵衛の三男(初代)の家筋の三代目に当る人です。

        3、主鈴・正豊(養子 実・浅山平太夫宗円三男 初・浅山何五郎)
            元禄二年児小姓・別禄五百石 両度加増新知五百石・加増八百石 
            都合千八百石 用人
            正徳元年親跡式拝領、都合二千八百石 家老脇 正徳六年五月江戸歿

            宝永五年閏正月(着座)~正徳二年七月 用人
            正徳二年七月(用人)~正徳六年五月(病死) 旅家老(家老脇トモ)
 

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神田新銀町

2012-06-21 08:41:40 | 地図散歩

最近「かわらばん物語」という本を手に入れ、いろいろ調べていたら嘉永三年敵討ち事件が起きている。

この敵討ち事件は瓦版として出回って江戸庶民の口の端にも上ったのであろう、「文鳳堂雑纂」という書物の「巻百十四 雑記部」に「神田新銀町敵討一件」として掲載されている。編者は文鳳堂山城屋忠兵衛と号する江戸の書肆である

                       http://www.yushodo.co.jp/micro/kensaku/bunpodo/meisai.html

さて瓦版には次のようにある。
                        嘉永三戌年十月十八日明六ツ時比
                        神田新銀丁代地八丁ほり細川様御中やしき
                         塀下ニ而敵討の次第 

事件は八丁堀の細川邸塀下でおきたらしいが、ここで注目したいのは八丁堀の屋敷が新銀町の代地であるとされるところである。
新銀町にあった屋敷を代地である八丁堀に移し、新銀町は町屋として整備されたということであろうか。
初めて知ることで、まさか瓦版から教えられるとは思いもよらなかった。
新銀町は「しんしろがね」と読むらしいが、こちらは1935年に司町2丁目、多町2丁目と町名が変更されている。(もともと隣町に司町・多町があったらしい)
あの有名な「阿部定」が生まれ育った町である。 

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肥後入国と江戸屋敷の焼亡

2012-06-21 08:40:53 | 歴史

【忠興譜】
(寛永)九年壬申十一月四日三齋屢故将軍ニ忠節ヲ盡シ且忠利常々ノ忠志恩賞トシテ肥後國ヲ忠利ニ給ル 右ニ就キ三齋モ召サレテ委曲台諭アリ 事ハ忠利譜ニ詳ナリ

【忠利譜】
(寛永九年)十二月六日小倉ヲ發ス 僅カニ三十年ノ所領ナリシニ父母ヲ慕フ如ク遠ク駕ヲ送リテ哭キ叫フ者モ多カリシ 七日監物は先キ二發して熊本着翌日登城石川主殿頭へ謁シ要害ノ錠鍵等大番所二テ受取其夜ハ大番所ヲ堅メ其外處々番所ハ物頭足軽ヲ率ヒ警固ス 八日小倉ニハ小笠原右近大夫着ニ付佐渡ヨリ城ヲ引渡シ諸事無滞相済 
城米一萬千四百八拾七石八斗餘引譲ル
九日夜深ク山鹿ヲ立ツ 城番ノ面々ハ前以テ追手ノ門外ニ出迎フ 忠利下乗シ此所ニテ城受渡シノ挨拶等相済先ノ足軽頭下知シテ火縄ノ火ヲ消サシメ大手ニ進入ル時忠利門ノ蹴放ヲ戴ク 是頂戴ノ義ナリ 夫ヨリ入城祝ヒノ規式厳重ニテ主殿頭ヲ初メ城番ノ面々ニ腰物時服等引出物有リ 孰レモ即日出立セリ 同日八代城ハ有吉頼母佐・小笠原備前・志水伯耆ヲ以テ受取セ相済城内道具ノ帳等モ受取リヌ 十八日熊本城本丸二於テ家中ノ面々禄千石已上ハ太刀折紙其以下ハ銭百疋宛ニテ一禮ヲ述フ 何レモヘ盃ヲ與フ 其後國中諸寺諸山ノ僧侶諸社ノ神職市中農家ノ長マテモ拝禮ニ出ル 十六日三齋鶴崎ヲ發シ廿日熊本城ニ至ル 忠利途中マテ出迎ヒ本丸ニテ饗應シ左文字ノ腰物ヲ呈セリ 八ツ時分三齋出立忠利川尻マテ之ヲ送ル 廿二日三齋八代着 廿五日辰刻入城規式有リ忠利入國後翌正月マテハ先代ノ通心得へキ旨申付タリ


そんな中江戸においては忠利の上屋敷が火事にあい焼亡するという事件が起こっていた。寛永九年十二月廿九日のことである。
「熊本藩年表稿」は一行、同日付で「江戸上屋敷焼亡」と記している。「寛政重修諸家譜」によるとしているが、このことは忠興譜にも忠利譜にも記されていない。
寛永十年正月十日継飛脚によって情報がもたらされ、忠興にも伝えられた。「江戸火事之事絶言語候」とある。
正月十七日八代から熊本の忠利への書状(1033)では、自分の屋敷を使うことを了承している。

            其方下屋敷つかえ候は 我々下屋敷へ人を可被遣由尤ニ候 長屋ニ成共又玄関之次ニも
            一間御入候間それへ成共人を可有御置事 

波乱に満ちた細川氏による肥後国統治の始まりである。

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