津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■嫡孫承祖

2017-09-20 15:36:08 | 歴史

 沼田家に関する史料を眺めていて、「細川藩・主要家臣系図」に不思議な記述を見つけた。
沼田家は細川幽齋の室・麝香の兄・清延を初代とする。細川家に連なる名家である。
二代・延元、三代・延之、四代・延将と続いたが、五代は嫡子の延相には繋がらずその子兼辰がついでいる。
延相室には細川刑部家初代興孝女・岩を迎えているが、兼辰が岩の子であるのかは現況詳らかではない。
同系図の延相の項を見ると「元禄九年二月病により蟄居」とあり、兼辰の項には「綱利命により元禄十四年嫡孫承祖」とある。
元禄十四年は延将が致仕した年である。延相の「元禄九年二月病により蟄居」がどういう意味なのか、蟄居とは刑罰の一種であり相応する事件を知りたいと思うのだが、史料不足で何ともしようがない。
またそうであれば「細川藩・主要家臣系図」の線のつなぎ方も合点がいかない。というのは「嫡孫承祖」であれば、直列でつなげばよいと思うのだが、延将の養子という書き方がされている。いろいろ理由がありそうだが、残念ながら沼田家の先祖附が手元にない。残念

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■治年公ご逝去

2017-09-19 21:39:43 | 歴史

「細川治年」の画像検索結果 天明5年(1785)父重賢公の死去により家督したが、天明7年(1787)9月16日(実記は9月19日)に死去した。
享年30。わずか二年余の治世であった。
嫡男年和が幼かったため、室・揚台院(埴姫)の同母弟・宇土藩主立禮を養子とした。後の齊茲である。
年和を後継とすることが約束されていたが、年和・応五郎・浄丸等の男子が次々と亡くなり、齊茲の跡は嫡子齊樹が継ぐことになる。
忠利の血統は治年の死により断絶、忠利の父・忠興(三齋)が溺愛した立孝の子孫・宇土細川家の血統へと継がれていく。
細川家の歴史上、特筆すべきことである。

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■主夫

2017-09-19 15:56:24 | 徒然

 奥方の入院騒ぎで図書館から借りていた本の返却日が過ぎてしまった。
お叱りを受ける前に返却しようと出かけたら・・・休館日、昨日が祭日で月曜日だということをすっかり忘れていた。
熊本県立図書館は火曜日が休館日である。返却ポストに投入してむなしく帰る。
帰りに病院によって、「毎日洗濯やら買い物やら食事の心配やら、忙しくて仕方がない」とぼやいたら、「主婦の大変さが判るでしょう」とカウンターパンチを喰らってしまった。銀行に行ったり夕食の買い物に行ったり、すっかり主夫である。

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■敬老の日雑感

2017-09-18 10:31:10 | 徒然

台風一過の今日は「敬老の日」なのだそうだが、時折開いては楽しんでいるサイト「増殖する俳句歳時記」を眺めてみた。
言いえて妙とも思うが、どの句も淋しいなーと思ってしまう。
お国の偉いお役人様が我々老人の為に態々設けていただいた有り難いお休みだが、これは国民に連休をもたらすための一手段でもある。
すっかり出しにされてしまっている。皆さんにその思いがあるから、勢い作句も自虐的・反逆的である。

   老人の日といふ嫌な一日過ぐ    右城暮石
  敬老の日といふまこと淋しき日    中村春逸
  年寄の日と関はらずわが昼寝  石塚友二
  反逆す敬老の日を出歩きて   大川俊江
  われらただのぢぢばばながら敬老日  新津香芽代
  毎日が老人の日の飯こぼす  清水基吉
  おのが名に振り仮名つけて敬老日  長谷川双魚
  敬老の日のとしよりをみくびる芸  瀧 春一

私の母は無口で自分の意見など口に出さない人で、人づきあいも良くなかったが、一徹さがあって老人会の会合など余り足を運ぶこともなかった。
どうやら私も母の血を引いたらしく、地域の老人会や関連する行事など全く出たことがないこまった爺々である。
もっとも地震以後の新住民だから、近所付き合いが薄いということもある。
町や村に合併が奨励されて行政規模が大きくなった結果、小さな単位のコミュニティーが崩壊しつつあると聞く。
「老人会」がそんなコミュニティーを支えていけるとも思えないが、関りを避けて過ごすのも少々卑怯かなと思ったりする。
古文書の会でもあればいいな~とは思っているのだが・・・

 

 

 

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■身構えておりましたが

2017-09-17 17:04:52 | 熊本

 昨日熊本史談会の例会を終り、早々に帰宅し台風に備えましたが、大した風も吹かず今日にいたりました。
幸いにも風は予報円の下のほうへ向きを変え、鹿児島から宮崎を経て四国方面へと抜け去り、西の空から太陽がさす天気と変わりました。
県南では相当量の雨が降ったようですが、熊本市内では強い雨も短時間で、風はといえば風鈴がいつもより強くなっているという感じです。
御見舞いいただきました皆様に、厚くお礼を申し上げます。御地に被害が出ませんようお祈りするばかりです。

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■藤崎宮秋の例大祭「馬追い」延期

2017-09-15 21:42:45 | 熊本

 17日予定の藤崎宮秋の例大祭「馬追い」が、台風の影響で延期になったようです。(10月8日?)
今日はうちの近所で、威勢のよい馬追の一団が予行演習でしょうか、にぎやかに練っていました。17日を楽しみにしていたのでしょうが、大雨風が予想され、下手をすると直撃の可能性もあり早々の決定は良い判断でしょう。
せっかくの連休も外には出れそうにありませんね。もっとも私は、明日午前中は史談会の例会です。
外出中雨が降らないとよいのですが。

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■泰勝寺圖

2017-09-15 13:18:38 | 史料

                                
                       この道が参詣道(現在の熊本大学右手の道路)

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■やもめ四日目

2017-09-15 07:27:29 | 徒然

 昨日のブログはとうとうお休みしてしまいました。
少々疲れてしまい、ネタもつき、確信犯的お休みです。
疲れのせいか、ベッドに入った直後左足の脛のあたりの筋肉に激痛が走り、これが数分続き往生しました。
あまり睡眠もとれない中、今朝6時ころまた発症、ベッドから出て10分ほどたっていたら何となく収まりました。
調べてみたら「前脛骨筋」というらしいのですが、この痛みは半端ではありません。こむら返り並みです。
生汗をかき、今日の初仕事はシャワーです。そしてWEBで紹介されているストレッチをやってみようと思います。
少々歩き回ったせいだと思うのですが、ますます年を感じています。

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■肥後の豆本

2017-09-13 20:51:40 | オークション

                 Glp_304237 蝗日記 自選随筆集 肥後豆本1 蒲池正紀/肥後豆本刊行会

 2・3か月前ヤフオクで肥後の豆本を三冊手に入れた。二冊は装丁が全く違うのに内容は全く一緒、「風流肥後狂句酔選・現代末摘花」である。
末摘花とあるようにいささかエロがかっている。
あとの一冊は肥後狂句集「ワイングラス」こちらはまじめな肥後狂句集だが、100%そうかというとそうでもない。

この本はなんといっても蒲池正紀先生の著だからまじめな本だと思っているが、「蝗日記」というのが気にかかる。
「風流肥後狂句酔選・現代末摘花」の装丁画に「イナゴの交尾」が描かれているからである。


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■男やもめ初日

2017-09-12 20:48:53 | 熊本地震

 6:30起床、昨晩の奮闘であちこち身体が痛い。コーヒー+トースト1枚で朝食。
洗濯をして、奥方の入院用品を準備して病院に届け帰り着いたのは12:30、シャワーをして昼食、メニューも朝食同様+果物少々、食欲無し・・・
昼からはいつもと同様、いろいろ資料をひっくり返したり本を読んだり、タイピングしたり。
クーラーの風の音がいつもよりやけに大きく聞こえる。
夕食時期になり冷蔵庫の作り置きのハンバーグやデミグラスソースをチンしようとしたら、使い道が判らず右往左往、取説を引っ張り出すが面倒くさくなって止め。
明日は電子レンジの使い方を勉強しなければならない。男やもめ最大のピンチ・・・、
炊飯器の残りご飯を茶碗に移してラップ、食器を洗い、おかまを洗い・・・ご飯を炊くのは明日の夕方にしようなどと考えながら21:00一件落着。
そろそろ史談会の史料つくりにとりかからなければならない。16日の例会は台風がやってきそう。
いろいろと前途多難。

 

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■大友系清田氏

2017-09-12 13:57:28 | 熊本

                                         

                                       

 この資料をお寄せいただいたのは、細川家家臣・清田五郎大夫家(500石)の末裔・清田泰興氏である。氏は滞空時間日本一を未だ破られていないパイロットであり、引退後はご実家である熊本市指定文化財に指定された南区富合町の釈迦堂と横浜のご自宅を行き来されている。

今般の熊本地震で大きな被害を受けられたが、今般総費用のうち75%にあたる1億円の補助が決定復旧の見通しがつき、今秋の着工が待たれるという。

大友系清田氏は大友氏没落後五郎大夫政家・主計鎮乗が細川家に仕官した。
弟・主計鎮乗の娘・吉が細川忠興の側室・円通院、宇土細川家の立孝、細川刑部家の興孝の生母である。
現在大分では「大友氏」顕彰の機運が高いという。かって熊本史談会では二度ほど氏を講師にお招きして、貴重なお話を伺った。
それ以来のご厚誼を給わっているが、この度このような史料をお送り戴くとともに、清田家の復旧工事開始のうれしいご報告も頂戴した。
完成の暁には、またお訪ねをしていろいろお聞きしたいと思っている。

                                      

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■男やもめにうじがわくぞー

2017-09-11 15:17:58 | 徒然

 昨日から奥方の体調が悪い。内科の診療を受けるなんてことは私の知る限りないような、元気印の奥さんだった。
これがしたたり落ちるような汗をかき、ベランダで・・・脱衣所で・・・転倒、私は自称の50キロの奥方を運べず、五本足の事務用椅子に座らせて運び出す有様である。歩行もままならない状態になり、これはまずいと思い119番にお願いして救急搬送していただいた。
19時過ぎから約3時間半の検査に付き合う。腎盂炎という審査結果が出て、奥方は愕然としている。
そして二週間の入院という結果になった。点滴を受けながら朦朧としたなかでの奥方の「ごめん」という一言は、ちょっと胸に迫る。
少々不謹慎ながら、さて明日から食事はどうする?という思いが頭をよぎった。
朝夕はパンにコーヒーで良いが、夕食までとはいくまい。まー店屋物だなーと思いながらひとまず帰宅。
帰宅途中に娘から電話・・まずは一安心を知らせる。
さて二週間、主婦のいない我が家はどうなる~~~、ウジがわくぞ・・・・

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■ジグゾーパズルの一片

2017-09-11 07:37:03 | 徒然

 先日も書いたことだが、正史に現れない個々のお宅の歴史もよくよくながめていると、藩政史の余白を補う貴重な史料であることが判る。
姻戚関係なども伺えて、長く埋めることが出来なかった、ジグソーパズルの一片に出会うことさえある。
これらすべてのものが、「熊本藩年表稿」や「肥後近世史年表」に反映されると、さぞかし面白いだろうと考えている。
余談だが、私の「新細川藩侍帳」は、川口恭子先生の「細川藩家臣略系譜」と、松本寿三郎先生の数種の「侍帳」を合体させ造ったものだが、原稿作りに半年、PCにデータを取り込むのに半年ほどを要した。今度は独自の「細川藩年表」を作ってみたいと熟望している。
私のブログにはあっちこっちから引っ張ってきた記事が乱麻の如くであるが、この進んだ世の中、PCのどこかのキーを叩けば、年代毎に整列できないものかと考えたりする。考えだしたら夢にさえ出てくる。
まずは過去の記事をコピー&ペーストを繰り返しながら、整列させようと思い至った。出典「先祖附」の項目が増えることは当然である。


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■先祖附が一番面白い

2017-09-10 21:21:53 | 徒然

 某家の先祖附を読みながらタイピングしている。全26頁の内8頁を終了した。
三日で終わろうと取懸ったが、読んでいるとなかなか面白い記事に出くわすとタイピングはしばし忘れて読みふけることになる。
正史に現れない事柄に出くわすと、してやったりという気持ちになる。
中にはご子孫のためには伏せておいたほうが良いような事件にも出くわす。
「熊本藩年表稿」ではないが、諸家の先祖附にあるこのような記事を年表にすると面白いだろうなと考えたりする。
しかし正史に出てくる事件事故は、先祖附では伏せられている。それは高禄のお宅で顕著である。
隠したいという想いが明らかである。しかし人様のお宅の事件事故を明らかにするのも如何かとも思うし、こんな俗っぽい話が大好きな私としては、うずうずしているが慎まなければならないか・・・

 

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■忠興の猶子

2017-09-09 10:32:00 | 歴史

 猶子とは「なお子の如し=訳:あたかも実子のようである」と解説されている。「兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ」ことだが、寛永11(1634)年12月「泰寿院娘を三齋の猶子とす」という記事がある。(度支年譜)
この時期三齋は72歳、八代に居る。想像に難くないが泰寿院とは加来佐左衛門・室の事であろう。
猶子としたのはその娘・佐舞(お三)、後に宇土細川藩二代藩主有孝の正室となった。まさに他人の子である。
佐舞(源立院)は元禄11年(1698)2月に64歳で亡くなったとされているから、生年を逆算するとまさに時期が一致する」。
「平成宇土細川家譜」によると、初名を「さき」と呼んだらしい。

一方興味深い資料が存在する。寛永十七年九月廿七日三齋は八代において忠利と共に口切のお茶を楽しんでいる。
忠利は「おしほ」なる娘に逢い、そののちその可愛らしさを愛でて父三齋に書状(細川家史料-1060-)を送っている。
       「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」
同日付の三齋書状(1660)では、「今日ハ来儀候て口切目出度存候」の書き出しで、種々認めている。
       「今日ハしほへいろいろ懇ニ被仕候、満足申、ぬしも事之外嬉しかり候、以上」
私は、この「しほ」なる可愛らしい少女もまさしく佐舞(お三)の事だと確信しているのだが、裏付ける資料がない。

一方舟田義輔氏の論考「宇土細川支藩成立の前後より」を見ると、お三の生母については異同がある。
これ等の食い違いをどう理解するのか? 正解が導かれることはなさそうである。

     兵右衛門---・---三右衛門(八代分領解体後本藩家臣)
         |
           ・---三七・兵右衛門(若死)---------お三(立法院養育・忠興養女--行孝室)
         |
           ・---いせ(立法院・忠興側室北の丸殿)
         |
           ・---佐左衛門(八代分領解体後本藩家臣) 

 綿孝輯録・巻六二に次のような記事がある。「一書、宮松殿及ひ立法院殿をも宇土ニ移置と有、考ニ立法院は加来兵右衛門娘なり、豊前以来化粧田五百石三斎君より被下置、御懇之儀ハ加来が家記に詳也、三斎君御養女ニ被成置たるおさん殿も加来か娘也、後行孝主の室也、三斎君御逝去之砌も御一所八代ニ御座候而、暫く小川に御住居、無程宇土ニ被移候なるへし」



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