津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■我が家のことも・・

2024-07-19 11:54:08 | 自分史

 明治維新後、我が家も多くの士分の方々と同様、ご多分に漏れず世渡り下手の荒波に放り出された。
曽祖父は時習館の最後の居寮生なのだが、藩の解体後は細川護美公の推挙などがあったようだが、上京することもなく岳父・上田久兵衛と熊本に残った。
明治10年久兵衛が罪を得て死刑となるとその遺児たちの生活を見るために苦労したらしい。
祖父については、しばらくは母校・濟々黌の舎監などを努めたが、のちには「国士」などと論評する資料がのこされているが、ピョンヤンの日本朝鮮語学校の校長
などを努めたが、明治末期には細川家の家扶となり昭和19年に死去する迄続いている。

私が2歳にみたないその年に祖父母、そして父と三人が続いて亡くなったから母の苦労はいかばかりであったろうかと推察する。帰熊して私は熊本地吾郎となった。

 昨日、親族の方から、上田久兵衛そして祖父についてのお尋ねがあったから、資料を引っ張り出していろいろ整理を始めている。

考えてみると、人様の御宅の先祖探しなどは一生懸命やってきたが、我が家のことは知らないことばかりである。
例えば父親が学んだ小・中学校、高校がどこであったのか等である。姉が関口台小学校だったそうだから、父親もそうか?
中学・高校はとんと判らない。大学は近いという事もあったのだろうが、早稲田に進んで建築学を納めた。
台湾総督府に勤めたが、そこで姉が生まれた。しかし父が病を得て帰京、そして私が生まれた。姉とは7つの年齢差がある。
私が建築の道に進んだのは母の希望による。父子二代の建築屋である。
これを機会にわが家の歴史も正確に書き伝えなければと思っている。
子供たちは全く興味を示さないが、家内が思いもかけず倒れたりすると、明日は我が身という切羽詰まった気にさせられている。

 

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■新美八左衛門召し放ち

2024-07-19 06:34:25 | 人物
「松江城秘録」という文書の中に、新美八左衛門に関する光尚の文書が残されている。
これは八代城の三齋の死去後の八代城御附衆のうち、村上河内・庄林隼人・そして新美八左衛門を追放するにあたって光尚が家老・長岡佐渡へ通達したものである。
「今度の仕合奉公振りが気に入らないから扶持を召し放つ」という文言が強烈である。
三斎の死後七ヶ月経過して、八代城御附衆の処分も終盤に入っている。

 新美八左衛門等今度ノ仕合奉公振気二入不申扶持を放候段可申者

  正保弐年七月十九日之御書御飛脚持下八月三日ノ夜頂戴仕候
   猶々馬場三郎左より其方迄きり志たん改之儀諸
   事ニ至迄心入之段満足申候通礼状を遣申候き
   り志たん仕置之儀ニ付何とそ替様子も候ハヽ被
   仰聞候様ニ天野かたへ其方より申遣可然候以上

    追而之状披見候道家帯刀八代より罷帰候由ニ而帯
    刀状披見候其方内見候由尤候
 一、新美八左衛門妻女長崎へ遣其身ハ上方へ罷上江戸
    へも可罷越之由得其意候庄林義者筑後立花
    殿領内ニ居候由是又得其意候兎角今度之
    仕合常々奉公振気ニ入不申候而扶持を放レ候段
    迄を相尋候かたへ被申可然候事

       (中略)

    七月十九日         肥後 光尚御判
              長岡佐渡守殿

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■梅雨明け

2024-07-18 06:02:03 | ご挨拶

              暑中お見舞い申し上げます。

 真っ赤な太陽がビルの合間から顔を出しました。暑い一日になりそうです。

昨日熊本は梅雨明けしたようですが、ここ一両日家人を入院させるために忙殺され、疲労困憊の態で、昨夕ようやくTVの報道で知った次第です。
(梅雨明けしたのは南九州でした。疲れのせいと言い訳はなしにします。早とちりをお詫びします。7月19日追記)
妻がいなくなると、ご飯の炊き方さえよくわからない自分に愕然としています。
いつもはトーストで朝食を済ませますが、パンがどこにあるのかさえ判らず、昨日買ってきたコンビニおにぎりが今日の朝食になりそうです。いつもの定番ヨーグルトと変な取り合わせです。
昨晩は「炊飯器の取説」を読んで今日からチャレンジの予定です。
おかずは近所のスーパーに出来立てをたくさん預けて(?)ありますから、好きなものが選り取り見取りです。

 今また、コロナやインフルエンザの流行で、熊本市民病院は面会時間は15分、週二回までと規制されています。
また、マスクが手放されない生活が戻ってきた感じです。
厳しい暑さが続きます。コロナ・インフルエンザを十分ご用心の上お過ごしくださいませ。元気に過ごしましょう。

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■朽木定彦関係‐5「御尋二付御上覚」ー1

2024-07-17 06:50:30 | 人物

           朽木内匠・定彦関係略系図

     この文書は三渕嘉門(9代・松井営之四男・澄昭)が松井帯刀(営之嫡男)に当てたものである。
     尚、ここに登場する朽木内匠は松井営之の末子である。
     又定彦は朽木家7代・昭恒(雄山)の養子となった昭信(宇土細川家立禮(細川齊茲)の末弟)の子である。
     昭信は病身で朽木家を継ぐことなく宇土家へ帰っている。故に8代を松井営之末子内匠が継承し、甥にあたる
     定彦を順養子にしようとしているが難儀している。

        四月五日之夕紫英私方被罷越申聞候趣ハ
        定彦事内匠順養子ニ被致度由内匠ゟ
        以口上書紫英江被申向候 右之儀ハ當春
        二月之比雄山ゟも紫英承り候由其
        趣意は雄山深ク思惟仕候処先祖大和守
        血筋と申候は乍女系守居計ニ付願クハ
        定彦事内匠順養子ニ被致候様有御座度

        存候間内匠江去年十二月雄山ゟ以書付
        申向宜候段申聞候 然共紫英も一通ニ
        相心得候其上雄山とも段々咄合宜候筋合も
        有之候ニ今に成右之通変替りニ相成候
        事紫英存候は雄山儀最早老年
        万端志■ニ而之事と相心得等閑(なおざり)ニ
        當居候処近比内匠ゟ不計致書付俄ニ
        順養子之儀申聞候間甚行當申候 併内匠も
        厳養父挨拶ニは是非一通ハ手数事故
        左も可有御座然レ共紫英ゟ委細之以訳
        断申候ハゝ相謹可申候と存候 前内匠ゟ猶又
        以書付存念委細申向候間従是も又
        書付を以相断候得共一向承引無御座
        既ニ今晩ハ頼藤栄を招キ委細申含
        尊兄様江も申上近日ニ願書差上申候
        との事ニ而紫英大ニ驚申候其訳は
        

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■どんとぽっち

2024-07-16 06:22:49 | 書籍・読書

 NHK大河ドラマ「光る君へ」は、まひろが道長の子を宿していたことや、宜孝と結婚後も道長と逢瀬を楽しむなど、NHKとしては中々大胆な演出ぶりである。
さて私はいま、釘貫亨著「日本語の発音はどう変わってきたか」を読んでいる。
まさに「光る君へ」の時代の、優雅な紫式部や清少納言の歌を見たり聞いたりし、その水茎(筆あと)の優雅さもふくめて、これがその発音を知ると少々興ざめする感じである。
例に挙げられていたのが、柿本人麻呂の歌だが発音は下段の如くであったという。
こういった古い時代の発音が判るというのも、凄いものだとひたすら感心しきりである。

   ささ      みやま                いも 
   小竹の葉は深山もさやに乱るとも 我は妹思ふ別れ来ぬれば   柿本人麻呂
                     ママ
   ツァツァノファファ ミヤマモツァヤ二ツヤゲドモ・・・・・・・・

 ところで随分以前の「金鳥どんと(使い捨てカイロ)」のコマーシャルで、桂文珍と西川のりおが「ちゃっぷい、ちゃっぷい、どんとぽっち」となんだか時代不明な恰好で叫んでいたが、このことが上記著書で紹介されていて、日本語の古い発音としてあり得る話だと紹介されている。
「寒い、寒い、どんと(カイロが)欲しい」がこうなるというのである。寒いが「ちゃっぷい」欲しいが「ぽっち(い)」となるらしいのだが、本を読みながら当時のシーンを思い出して笑ってしまった。

 少々粗野な感じが残る熊本でもよく聞かれた言葉二つが、奈良時代のものとして紹介されていた。
インデックスを貼り忘れてどのページだったのか判らなくなったので、こちらは後程・・・

 

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■家人不具合にて・・・

2024-07-15 09:12:43 | ご挨拶

 今日も雨で気分が鬱陶しい限りですが、家人が昨夕不具合をおこして今朝もまだ起きてきません。
簡単な洗濯をして、コーヒーを沸かして・・但し家人が起きてこないことには朝食もとれません。
ダイエットには一食抜くのは一向構わないのですが・・・
さて病院に連れて行こうと思うのですが、あいにくの休日ですから救急病院とか休日当番医をさがしたりとか、少々ばたばた気味です。
記事を上げることができませんが、少々フェードアウト気味にしていこうかしらと、頭をよぎったりしています。
つくづく健康の大事さを痛感しておりますが、私はどうやら元気で居ります。他事ながらご安心のほどを・・・

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■納め梅雨・・?

2024-07-14 12:58:45 | ご挨拶

 「納め梅雨」等という言葉はないとは思いますが、私がすむ熊本東区はあまり天気予報があたらずに来ましたが、現在梅雨終盤と思われる強い雨に見舞われています。
窓から健軍川の流れが真下に見えますが、いつもの水無川がみるみる水位を上げて流れが一筋になり水嵩を上げつつあります。
川の中は背丈2メートル弱の雑草(木?)で覆いつくされていますが、一気に流れに飲み込まれ見えなくなりました。
一時期雷も鳴りだし、今日は天気予報が当たりました。その天気予報によると、あと一両日で一気に夏本番となることでしょう。
これから二月半ばかり、きつい熊本の夏に堪えねばなりません。皆様もご自愛のほどを・・・

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■「漢字」を想う

2024-07-14 07:31:33 | 徒然

 毎日のように古文に触れているが、つくづく日本の漢字に不思議さに圧倒されている。
例えば変体かななどは、今でも苦労させられているが、これが割と近い時期まで当たり前に使われてきている。
たとえば「者」を「~は」と読ませることを考えると、古文を読むにあたっては「もの」と読むか「~は」とよむかは文脈で簡単に判断できるが、白文の漢字文を日本語読みにするために先人の苦労はいかばかりであったろうかと思うのである。

 日本の近代化に伴い、字体が繁体字から現在の形に変えられたり、変体かなをなくしたりして現在に至っているが、もう候文も身近なものではなくなってしまった。
つまるところ、「口語体」「文語体」といった言葉は存在するが、その実態は失われてしまった。
私は山本夏彦氏著の「完本 文語文」を大いなる共感を以て愛読書としているが、文語体による文章の格調の高さは、どんな名文家の手によっても口語体では絶対かなわない。
私の所蔵するこの本は「帯」をなくしてしまったが、その帯には「祖国とは国語である」とあった。

 漢字を国語としたベトナムや中国(台湾)、韓国・朝鮮などでも、ベトナムやハングルに変えた韓国朝鮮は漢字そのものをなくしてしまった。中国は識字率をあげようとして「簡体字」を作り上げたが、これはなんとも書道にはなじまないように思える。台湾は「繁体字」を残しているらしい。

難行苦行で古文書解読にチャレンジしながらも、それでもいろんな意味で漢字という文字は大変面白い。

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■熊本史談会・7月例会のご案内

2024-07-13 06:20:55 | 熊本史談会
             熊本史談会・7月例会のご案内
      
                                                          記
 
期日:令和6年7月20日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
 都合により以下の如く講師ならびに講演内容を変更いたしております)
演題1:熊本城下町が生んだ『民生委員の父 林市蔵と福祉の母 平野松枝』          
                           熊本史談会会長 毛利秀士氏
演題2:細川家砂取別邸の江津花壇から熊本県立図書館への歴史  会員 田邊元武氏

一般参加自由:
    資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
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■ガラシャ夫人霊所はいずこに・・

2024-07-12 06:54:51 | ご挨拶

 そろそろガラシャ夫人のご命日が近い。
小倉に於いての菩提寺の所在については大方の場所は判っているようだが、熊本に於いては不思議なことに何処にあったのか所在が不明である。
寛永12年7月12日に乃美主水・河喜多五郎右衛門への御書に次のようにある。
加藤忠廣の時代には、御花畑から城内竹之丸に坪井川をまたぐように廊下橋がかけられていたとある。
忠利公の時代に至っても、当然橋が残されていたであろうから、ガラシャ夫人の霊所・秀林院は竹之丸にあったというのである。
泰勝寺の建立後、三齋公のご逝去を経て幽齋公ご夫妻の横に三斎公・ガラシャ夫人の墓所も建立され今日に至る「四つ御廟」となったと考えら
れるが、そこに至るまでのガラシャ夫人の霊所に関する詳しい資料が見当たらない。
忠利公が花畑邸から廊下橋を渡って竹之丸の母君の霊所に向かわれる姿が想像できる。
又、光尚公が妙解時を建立後、後悔されたという話も伺われて興味深い。

   一、(寛永十二年)七月十二日、乃美主水・河喜多五郎右衛門江被下御書之内

      竹の丸之広間秀林院ニ引候ニ付而書中見候、こけらふきに可申付候事

  此御書を以考候ヘハ、御先代より竹の丸にも少々御間取有之たるなるへし、或語伝に、忠広之時にハ御花畑御殿坪井川のうへを廊下つゝきにて、
  御城より御往来つかへさる御かまへなり、それゆえ妙解院様御本丸御住居之内も、御花畑御広間に御馬廻衆より常にか
わる/\御番仕候由、御
  敷台もさつといたしたるとりふきにて、拭板なともなく、竹簾を敷有之たつなり、虚実ハはかりかたし
元和年中に豊前ニ秀林院被建置候を、当
  御國に御引被成候と聞へ候共、其年月・寺地之所柄并停廃の事もわかり不申候 真源院様
御代寛永十九年、護国山妙解寺御建立被成候事を、正保
  之末比に成候而ハ御後悔被遊候との語伝、乍恐深き尊慮被可
有かと奉存候、御代々之御菩提寺ハ泰勝院一ヶ寺にても可被為済物をとの思召ニ而、
  御国のため御家の為、後年累とも可成筋ハ少にても御省き被
遊度との御意を、奉伺たるとの申伝へも有之由、強て考候に、正保二年三齋君御逝
  去後、八代の泰勝院を熊本に御合せ被成候砌な
と、秀林院をも一ッに御よせ被成候而、院地ハ御こほち被遊候かと奉存候

 

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■新知者の遠吠え?

2024-07-11 06:36:14 | 歴史

 先の■宝暦の改革の限界でご紹介した数字、総トータルの数字は総合計人数は1117人、知行合計は432097.65石とあった。
前回一覧にしていた数字は、「旧知」の御宅をピックアップしたものだが、488家で28988.7石ほどとなった。
その結果から「旧知」の家が約44%弱で67%ほどの禄を占めていることになる。先にも記したが「旧知」の御宅でも慶安3年以後の加増分は新知扱いで減知はされているが、もともとの旧知分に対する比率がどのくらいなのかは、引き続き検証しなければならないが、ここにある約29万石(新知分をマイナスる必要はあるが)についてほとんど手が付けられなかったわけである。
例えば仮に25万石とすれば、5%でも減知すれば1.25万石を生み出すことができたわけだ。
 忠利公が肥後入国後すぐに定めた「世録制」は、天草島原の乱や長崎へのポルトガル船来航に伴う出兵、幕府普請、綱利公母子の乱費などにより立ち行かぬものとなり、「地方(じかた)知行」も「蔵米支給」となり、宝暦にいたり忠利公が定めた「古法(世録制)は間違い」とまで言い切って「世減の規矩」が強行された。
大方の反対が起こるのは当然のことだが、「旧知」の人々を対象外とすることで、半数以上を占める対象者を「新知」として押し付けた。
これにより12万石余の知行減をもたらし、重賢公をして名君と天下に喧伝されることになるが、これが「宝暦の改革」の実態である。
古川古松軒は諸国を旅行する中で当時熊本を通り、「重賢公の名声」に首をかしげている。
重賢公や大奉行・堀平太左衛門の存命中にも、熊本藩の財政は又悪化の兆しを見せ始めている。
細川三斎公は忠利が世録制を言い出した時に驚きの声を上げているが、「早晩問題が起きる」と感じていたのではないか。
「新知者の犬の遠吠え」と言われそうだが、私は人様のように「宝暦の改革」をもろ手を上げて評価することはしない。
こんな面倒な数字を調べながら、改めてその思いを強くした。

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■八代朽木家取扱之扣写(4)-3・了

2024-07-10 07:15:22 | ご挨拶

   

        氣薄家来取扱家被納メ被申候事も出来
        兼可申と申候処被 仰置候而は先々
        上ゟ被召仕候と申候而も御断に而も奉願不申
        候而は相成不申候 物之様に被存存候 代替り之処
        度々ニ相成候共其身之■■ニ而御座候得共
        減候共又々本々之様ニも返知ニも相成候事ニ
        御座候得共定彦殿万事ニ心を被用信記抔
        も文武藝術等出精いたし御知行も減
        申間敷奉存候 何分ニも順養子之処は近々ニ
        取極メ可申奉存候 誠ニ御返書を奉拝見
        思召を奉背候処返々氣兼多■不幸ニも
        相當り可申候得共孝道ニ茂相當可申私身ニ而ハ
        誠以孝不幸と申候処ニ而身分如何可仕様も
        無御座候得共相老候処何ニ先祖之血筋を
        相立候方宜様ニ奉存候 最早兄弟中江も

        咄合いつれも私存念之処同意ニ御座候間
        何卒近々ニ願■■も差出申度奉存候
        猶右之段申上候以上
                  朽木
            四月     内匠

            紫英様        

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■宝暦の改革の限界

2024-07-09 06:45:30 | ご挨拶

   最近「世減の規矩」に関して、旧知・新知の家の高禄者のリストなどをご紹介しているが、こういう作業をしていると、やはり「旧知の家」の
禄は減らせなかった、いうならば腰の引けた改革の限界を目の当たりにする思いがある。
つまりは、「旧知の家」の禄まで減知しようとすると、大きな反対の声が上がるであろうから手を付けられなかったという事であろう。
「新知の家」が一重に犠牲者となった。私がデータとして使っている「天保弐年出来・御知行取以呂波渡世勢」をみると、残念ながら「旧知」
「新知」などの家禄の合計の数字が取り上げられていない。
そこで「いろは別」の欄から「旧知」の家の禄高を引き出して、集計をしてみた。
尚、総合計人数は1117人、知行合計は432097.65石とある。平均386.8石ほどとなる。

それぞれの御宅の禄高を、計算機で集計してみたが、人数が上記史料と合致しない。検算をしてまたご報告したい。

       い  37人   8525石
       は  20人   4500石
       に    6人   1550石
       ほ  14人   1950石 (集計なし)
       と  10人   3600石 ( 同上 )
       ぬ    5人   6800石
       お  33人    21700石 ( 同上 )
       わ    6人     950石 ( 同上 )
       か  33人    15250石 ( 同上 )
       よ  16人   5078.65石( 同上 )
       た  17人           8320石 ( 同上 )
       そ    3人             850石 ( 同上 )
       つ  10人   5800石 ( 同上 )
       な  29人    67830石 ( 同上 )
       む  10人   1950石 ( 同上 )
       う  24人   8100石 ( 同上 )
       の  10人   2680石 ( 同上 )
       く    8人           1470石 ( 同上 )
       や  17人   7500石 ( 同上 )
       ま  28人   15560.83石 ( 同上 )
       ふ  12人   4500石 ( 同上 )
       こ  14人   3830石 ( 同上 ) 
       え    2人     150石 ( 同上 ) 
       て    6人      3402.275石( 同上 )
       あ  16人    24675.7433石( 同上 )
       さ  40人    19904.6石 ( 同上 )
                45人扶持
       き  11人   5250石 ( 同上 )
       ゆ    3人   1450石 ( 同上 )
       み  37人    15100石 ( 同上 )
       し  11人   8300石 ( 同上 )
       ひ    9人           5530石 ( 同上 )
                20人扶持
       も         5人   1150石 ( 同上 )
       せ    7人   1250石 ( 同上 )
       す  18人   5425石 ( 同上 )
                 

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■清田七助宛・細川忠利書状

2024-07-08 10:22:59 | オークション

                  【真筆保証】 細川忠利 直筆 清田七助 宛 書状 貴重品 稀少品 熊本藩 初代藩主 コレクター放出品 熊本県         

 清田七助からの「引鮑」一箱が送られたことに対する礼状である。
清田七助は「石見」と称するが、大坂の陣に於いて「槍先を押し曲げる」様な働きで一番の功名を立てている。
忠興に従い、忠興隠居後は忠利に就くようにと勧められている。この時代の文書の常で、時代を特定することができない。
 元和八年(1622)閏八月七日の日帳につぎのようにある。
   清田乗栄忠利ニ附属セシメラル 
 一、吉住半四郎御使ニ被参候事、但、清田七助を 殿様ニ御奉公申候へと、 三斎様御意ニて、半四郎御使ニ被参候、
   則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく 三斎様ゟ付被遣候事

 忠興隠居の直前であるが、それまでは忠興の側近として槙嶋云庵と共にいつも忠興の側にあった。
その二人が我が家の初代と兄・長五郎を周防の下松でスカウトされて、豊前にやってきた。
私事で恐縮であるが、我が家の初代目の召出については、元和九年壬八月七日の日帳に次のような記述がある。
  知行高弐百石

一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、しれ申候事
この時、兄弟一緒に召し出されている。

 そんな清田七助は天草島原の乱に於いては鉄炮疵を負っている。
その後、菊池に住まい治療に勤めたが、その地で死去した。坪井・流長院及び菊池の地にお墓がある。

■恩人・清田石見守の塔碑
■清田七助甲冑の図
■エピローグ「清田家系図」

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■八代朽木家取扱之扣写(4)-2

2024-07-08 06:30:16 | ご挨拶

 前回「■八代朽木家取扱之扣写(4-1)」を取り上げてから、一月ほど経ってしまった。
忘れていたわけではないが、思いのほか日にちを経てしまい、あと2頁のことだから早々に片づけなければならない。

       
                        訳相之事ニ而も有御座間敷哉と乍恐奉存候
        御書面ニも定彦殿事御用ニ相被申候
        所御心元なく被思召上家来之取扱家を
        納メ被申候事中/\出来兼加申と被思召
        上候間私抔見及候處ニ而は少も左様ニは相見
        不申随分惣躰之儀も宜相見申候私儀は
        猶更氣薄生付ニ而御座候将共定彦殿
        當年之年齢ニ而家督さへも仕當時迄成
        ニ相勤居申候事ニ御座候 将ハ定彦殿迚も
        勿論相勤不申候と申訳も無御座一旦相勤
        被申萬々一御見込通ニ相勤不申節ハ跡之処ハ
        信記・磯次郎も居申候事ニ御座候得はとち
        らに仕之跡を譲被申候得は何そ跡ニ他處ゟ
        養子と申事も無御座候得は一旦は幸
        先祖之血脈之定彦殿事候得ハ相勤
        被申候方宜様乍憚奉存候 此節強而定彦殿

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