津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■早々決定、東京都知事選

2024-07-07 20:07:37 | 些事奏論

 東京都知事選、8時の投票締め切りと共に小池都知事の再選が決まったようだ。
カイロ大学を卒業したかどうかの話も、あまり関係ないように見えて他候補が取って代わることはできなかった。
さて、小池氏は首相狙いはどうするのか、そのタイミングが難しくなってきたように思える。

まだ決定ではないが2位争いもなかなか面白いものがある。

     二位じゃダメ 願いもむなし笹飾り   津々

蓮舫氏はこの結果をもって衆議院に鞍替えするのか、敗戦は織り込み済みだったのだろうが、思惑外れもあったのではないか。
石丸伸二氏はどうするのか。この人は国会議員というより首長になりたい人のようだ。次の広島県知事狙いか?
56名の人が立候補したが、なんとも後味の悪い選挙だったように思える。
300万円の供託金というのは、誰でもが立候補できるようにとの一面があるが、何かの規制が行われないと又このような茶番劇が続くことになる。

九州の人間には関係ない話だが、やはり東京の開発問題などは日本の首都として、神宮の森の保存などは東京だけの問題としてはならないように思う。
色々考えさせられた首都決戦であった。「光る君へ」が見られず残念・・・・

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■検証「新知の家・高禄者の世減の規矩」番外編

2024-07-07 06:12:14 | ご挨拶

 「新知の家・高禄者の世減の規矩」を検証する中で、例えば「青龍寺以来」という旧家や、明らかに旧知の家であろうと思われるお宅が「新知の家」
となっているケースが見受けられる。

何故このようなケースが生まれたのか、よくよく「侍帳」を調べてみるとなるほどと納得させられる部分が見えてくる。
その一つに、ニ三男が別禄で知行を拝領した場合がある。父親の家禄は嫡男が継いでいるから、それとは別に創家したという事になり、それゆえ「新知」
となっている。

同様なケースで父の家禄を継いだ嫡男が死んでも、別禄で宗家した人物は嫡男の家禄を引き継ぐという事ははないようだ。
一方「世減」の措置は、一気に行われてはいないのではないかという節がある。2代にも3代にもわたって所定の禄高を減知したと思われる。
又、小笠原多宮家のように忠利公の夫人の親族にもかかわらず、新知の家であるがゆえに減知は確実に行われている。
そういう意味では、ある意味厳格さが伺える。
まだそこまでは至っていないが、旧知の家における慶安三年以降の加増(新知)の扱いがどうであったのかが興味深い。
線引きが慶安三年というのは、綱利公の相続以降の加増を意味しており、加増を乱発した分の回収の意味があるように思える。

ケースとしては論外な話だが、私の家は細川家の小倉時代に召し出されているが、なぜか新知になっており、当然ながら減知の対象になり、その後は「擬
作」まで落席した。

今までなぜなのかが理解できずにいたが、上述のようなケースを考えるとなんだか理解できたような気がしている。
我家はもともとは磯部を称していた。磯部に兄弟二人が居り我が家の初代である二男は母方の名前をついで現在に至っている。
尤、嫡男家もH家を名乗って磯部ではない。これは我が家の初代の兄・長五郎の家系があるために磯部を名乗らなかったのではないかと推察される。
当時は、「旧知・新知の家」という感覚は誰も持っていなかったであろう。
宝暦二年のいわゆる宝暦の改革に伴う「世減の規矩」の布達によって知ることになった。

我家はどうも二代目で「新家」となったために、「新知」とされたと考えると理解できる。
150石取りが「世減」により100石撮りになり、のちには「擬作100石」となった。
宝暦の改革で知行取もすべて蔵米
支給となったが、擬作取はいわゆる修めるべき「地方=じかた」をうしなった。

今まで「世減=世録を減ずる、規矩=基準・規則」について深く考えていなかったが、こんかいいろんなことを検証する中で、思いがけなく我が家の知行
の変遷に答えを得たような気がしている。

あと2回ほど「検証-新知の家・高禄者の世減の規矩」にお付き合い願いたい。

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■検証「新知の家・高禄者の世減の規矩」-2

2024-07-06 06:13:37 | ご挨拶

     2200石 木村次郎左衛門・・初代・半平は宇治の御茶奉行木村峯順の弟で寛文5年の召し出しで都合1,000石。
                 2代目半平は家老職まで上り詰めて3,000石、隠居を渋る綱利に諫言して隠居せしめた。
                 減知対象者になったのは5代の貞勝で300石減知で2700石。6代豊持も200石減で2500石。
                 次郎左衛門は7代目豊寿であり再度300石減知された。都合800石の減知となった。
     1900石 岩間此面・・・・・岩間家は初代・六兵衛が忠利夫人の嫁入りに随伴する形で細川家に召抱えられた。
                 該当の此面はその三男(分家初代)の家系だが、新知に扱われているのは何故なのか判断に苦しむ。
                 初代正武が1000石、2代正孝が1500石、3代正豊が2800石、別禄召し出しになっているからからかもしれない。
                 7代恰が2000石、8代此面が1800石と確実に減知が行われている。
     1900石 小笠原一学・・・・通称「小笠原多宮家」とよばれる。忠利夫人の弟・杵築藩主小笠原忠知の孫・長賢が初代で召し出しは
                 元禄14年と遅く、2000石を拝領したがまさしく新知の家である。
                 一学は3代目であり、この数字からすると100石の減知である。次代には又2000石に復している。

     1200石 塩山惣右衛門・・ この家は代々200石の家であり、記載内容に間違いがあるのではないか?
     1000石 清水新五左衛門・・清水ではなく志水氏である。初代は青龍寺以来の志水伯耆清久6000石、2代目は日下部与助、3代目新之允、
                 4代目新左衛門まで家禄は継承されたものと思われる。5代目新之允がなにゆえか「御暇」となった。

                 その為6代目主水が新知として1000石を拝領した。以降明治に至るまで代々1000石であり、減知は伺えない。
    900石 中瀬助之進・・・・遠州久能城主16、000石 松下之綱の曾孫・助九郎豊長を初代とする。
                 1200石が3代まで続き、4代で1000石、5代はこれを受け継いだが、6代で900石となっている。
                 助之進とは7代目であり、6代目の家禄を継承している。
    800石 堀尾彦左衛門・・・堀尾茂助吉晴の子孫である。4代目茂助は1000石、5・6代目が900石、該当の7代目彦左衛門が更に減知されて800石となった。

    800石 神谷源助・・・・・宜紀時代に用人として権勢をふるった神谷矢柄が2代目、3代目も同名で1200石、4代矢一郎代に減知され1000石、
                 5代十兵衛が更に減知され900石となり、明治に至っている。

 以下についても引き続き検証してみたい・
    700石  磯村又之允
    700石  堀部源兵衛
    700石  小山万次   (蔵米)
    650石  松尾亀次   (寸志)
    650石  木村武左衛門 (寸志)
    600石  八木弥次郎
    550石  荒木恒次郎
    500石  奥田小左衛門
    500石  兼松直部
    500石  柏原次郎四郎
    500石  吉田仁郎右衛門
    500石  沢村八郎次
    500石  志水彦之助

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■東・KA、西・KWA

2024-07-05 06:58:32 | ご挨拶

                     

 私の友人のお孫さん(女)の名前はカノンちゃん、いい名前だと思ったら漢字で「観音」と書くのだそうな。
カノンと打ち込む過程でcanonと出てきて、なるほどと合点した。有名なcanonという会社の社名の由来は一号機のカメラに「観音」となずけたことに由来していることを思い出した。
観音様の御慈悲にあやかり世界で最高のカメラを創る夢を実現したい、との願いを込めたもの」とある。
canonには「精密」「精緻」という意味もあるが、当時はcanonではなくKWANONとしている。

 ふと何故KANNONではないのかと思った。東ではKA(か)、西でKWA(くわ)と発音していたというが、観音様はくわんのん様と発音していたのかもしれない。

 小学校の同級生などにもKWA(くわ)派がいたように思うが、国語の先生もそうだったから不思議に思ったことを憶えている。

 

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■検証「新知の家・高禄者の世減の規矩」

2024-07-04 15:06:46 | 歴史

 先に取り上げた■慶安3年以降の新知の家(500石以上)の「世減の規矩」がどのように実行されたのかを、我がサイトの「侍帳」から、その実態をチェックしてみた。

     4000石  清水縫殿・・初代道是の娘が綱利生母・清光院で志水家は一門扱いとなり「世減の規矩」対象外か
     3200石  松井直記(誠之)・・三卿家老・松井家の分家(古城家)5代
               初代・祐之5000石 世減の規矩対象者・3代弘之4000石、4代賀之3600石 減知1800石
     3000石  坂崎忠左衛門・・10代賀三郎、比着座・番頭・小姓頭
               初代成政4000石、2代成定2000石、3代成方には兄が居り別禄400石のち4000石、6代に至り400石減知、7代で300石減知、
               8代でも300石減知で3000石、減知1000石

     2800石  溝口蔵人・・忠利夫人実弟が溝口家に入り初代(政登)2000石、5代蔵人200石減知・後加増200石となる。
     2700石  郡 夷則・・三淵藤英(幽齋兄)の曾孫・藤正が綱利代召し出し、嫡男・氏正が初代2000石、4代織衛が200石減知して1800石、
               5代夷則(眞勝)は家老職を勤め3000石に達している。

     2700石  有吉清九郎・・三卿家老有吉家の分家英貴流の6代目、初代直常は3000石、清九郎代に300石減知して2700石となる。
     2500石  朽木内匠・・幽齋兄・藤英三男で初代昭貞が2000石、3代昭長が3000石、該当の内匠は6代の昭直である。ここで減知されたものと思われる。
               尚8代昭久は松井主水(松井本家8代営之)であり、昭久は中老職にのぼり2700石となっている。

  以下についても引き続き検証してみたい・

     2200石  木村次郎左衛門
     1900石  岩間此面
     1900石  小笠原一学
     1200石  塩山惣右衛門
     1000石  清水新五左衛門
    900石  中瀬助之進
    800石  堀尾彦左衛門
    800石  神谷源助
    700石  磯村又之允
    700石  堀部源兵衛
    700石  小山万次   (蔵米)
    650石  松尾亀次   (寸志)
    650石  木村武左衛門 (寸志)
    600石  八木弥次郎
    550石  荒木恒次郎
    500石  奥田小左衛門
    500石  兼松直部
    500石  柏原次郎四郎
    500石  吉田仁郎右衛門
    500石  沢村八郎次
    500石  志水彦之助

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■宝暦の改革の大奉行、堀平太左衛門隠居

2024-07-04 06:28:49 | ご挨拶

      御直書   寛政四年七月四日
  (堀)平太左衛門儀、數十年來抜群の勤功無比類儀は、追々申聞候通に候、是迄四代の間、精勤令満足候、
   然處及老年候に付、願出の趣尤に存候、此上今暫も相勤候儀存候へ共、願の趣も無餘儀事に相聞候に付、
   乍残念直に隠居申付候、然上は多年致心労候間、随分可保養、随意に緩々休息候様、随て此品、此小脇
   差大原宗永隠居指に可致相應哉と存付候間遣候、尚病快相成候はゞ、追々咄等に出候様存候なり

 この時期、藩主は細川齊茲である。寛政五年四月廿三日に死去した。享年77。墓所は花岡墓地の最上段部にある。

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■第16回 千年映画祭

2024-07-03 06:38:20 | 熊本

  

第16回 千年映画祭

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

               第16回 千年映画祭タイムテーブル                                           

上映時間 タイトル  
11:00 開場
11:30 SOCIA13「再現」 予告編へ
13:00 SOCIA14「暗室」 予告編へ
14:30 SOCIA16「低俗」 予告編へ
16:00 プロジェクト3-2023「光速」 予告編へ
17:30 HINAMI20「じゃない方じゃない」 予告編へ
19:30 MINIMA20「希望」 予告編へ

 

この映画に熊本史談会会員のTM氏が出演しておられる。
  出演は昨年に続いて2回目、さて如何なる映画か楽しみにしている。
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■Youtubeの自動生成字幕

2024-07-02 10:14:21 | ご挨拶

 先のマイPCのトラブルが起きたときに、突然Youtubeに自動生成字幕が入るようになった。
最近いろんな先生方の「講演」をよく拝見しているが、この厄介者が目障りで仕方がなく何とか処置をして今は健全な状態である。
この自動生成字幕、特に講演などでは、マイクの感度が悪くて後援者の言葉がよく聞き取れないものがある時は、この字幕があることで助けられ、寸秒の遅れもなく出てくるのは良いが、その語句変換のいい加減さはまだまだこの機能の生育度は完全ではないことを物語っている。
それに、本来の字幕に重なるとか、いろいろ問題がありそうだ。
複雑な日本語の語彙を、講演の内容や前後の言葉から、その語句を正確に転換するのは大変なことだとは認識しているが、後で読み返して誤りを訂正するくらいの作業が必要であろう。
AIによる説明も多く見受けられるようになったが、少しイントネーションが怪しかったり、問題点が多いものも見受けられる。
それにしても、技術の発展には驚かされてついていけないが、爺様はこのような「自動生成字幕」を削除するのさえ一苦労した。(終えてみると誠に一瞬で簡単だったが・・)


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■細川伊也(吉田兼治室)男・萩原兼従のこと

2024-07-02 06:55:19 | ご挨拶

 寛永十一年閏七月二日酒井忠勝宛忠利書状(2483)は大変興味深い。

           一書申入候 萩原(兼従)殿之儀 豊国へ被遣候時も 萬事 権現様(家康)御直判を
           以被仰出 知行之儀も勿論右之分ニ御座候 此御書物三ツ内慶と御座候ハ 萩原
           殿雅名ニ而御座候 又 豊後ニ而千石被下候時も 三齋へ御奉行衆より慥被仰聞候
           由候 秀頼より御申渡候儀は一ツも無御座候 御書出三ツ 則懸御目候 恐惶謹言
                閏七月二日

                酒井讃岐様
                      人々御中 

萩原兼従とは吉田兼治(室・幽齋女伊也)の嫡男である。秀吉亡きあとの慶長四年豊国神社が建立され、兼治の父・兼見の十八歳も年が違う弟の梵舜が社家となった。その後梵舜は甥(兼治)の子・兼従を豊国神社の後継者にした。処が家康は豊臣家の没落後、豊国神社の破却を命じるとともに、秀吉廟の周辺に別途寺社の建立を許可し、参詣の通行を阻止するなどの暴挙に出ている。社人はことごとく追放されたが、梵舜ならびに兼従は家康から扶持を与えられたのである。

上記書状は其のことに触れられている。当然酒井忠勝からの問い合わせについての返答であろうから、幕府内で何らかの協議が為されていたのだろう。
その後の事はよく判らないが、貴重な書状といえる。 


                       ● 秀吉正室高台院姪
          +--------------兼見---兼治   ‖    
          |           ‖------兼従=====◎ 一時期行孝を養子とす
          |  細川幽齋---+---伊也
          |        |
          |        +---忠興---+---忠利
          |            |
          |            +---立孝----◎行孝 
          |
          +-----------梵舜 

兼従の室(高台院姪)なる人物が良くわからない。私は幽齋女加賀(高台院甥・木下延俊)の娘ではないかと考えているのだが。
それにしても家康による豊国神社の破却行為はすさまじく眉をひそめざるを得ない。(津田三郎著 秀吉・英雄伝説の奇跡に詳しい) 

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■新町地蔵盆・幽霊妖怪画展

2024-07-01 14:14:00 | ご挨拶

                                 熊本・新町の長光寺で行われる 新町地蔵盆・幽霊妖怪画展のご案内です。

                                                                         

             

 長光寺の寺紋は「立ち葵紋」ですが、その故は初代了圓が三河本多一族の者だということです。
徳川家康三大危機の一つ三河一向一揆で家康の家臣を離れ、僧となりその後、加藤清正公が北条征伐で名古屋に滞在の折、了圓と出会いました。清正公が肥後北半国領主となり招きを受け文禄元年(1592年)長光寺開基となりました。

 さて幽霊画幅について御住職のお話によると、その内の一幅は林 苔渓という画家の作だといいます。この掛け軸には天領天草の東向寺(焼失)第15代天中和尚の漢詩が書かれてあります。天草は島原の乱以降、幕府直轄となり人身の仏教への改宗を図り、幕府の威信を示すため寺院を統括する四ケ本寺を定め、その筆頭寺院として西海随一と言われる七堂伽藍を擁する東向寺が建立されました。又、幕府の威光を示すため徳川家康、秀忠の位牌を祀り特権?が付与されていたようです。
幽霊画福は九州でも四・五件しか残されていないとされますが、天中和尚の画讃がある、この長光寺所蔵の幽霊画幅は大変貴重なものであり、この機会に是非ともご覧ください。

 

 

                                         

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