(86)
一内蔵之助へ我等申候は、大石頼母殿御跡は、いかゞと申候得は、頼母跡は譯御座候、只今御旗本に成り居申候と被申、越中守奥方本源院
様死去之刻、爲御名代頼母殿寺へ御詰被成候を覺居申候と、物語致候事
(87)
一同名平八、御使者に罷出候刻、我等町宅へ立寄咄申候、今朝(三宅)藤兵衛殿、其外御側衆被申聞候は、不殘爲拝領候事も可有之候、殘
三人様にも其御用意有之候様に相聞候、俄になり兼可申候間、そろ/\刀屋共に申付候て、金二三枚の札付の道具など取寄、吟味仕置
事、刀屋共に密に申付候ても、世上多分公儀の御用の樣に沙汰可仕候間、私は不可然存候、私弟氏家平吉、同名(堀内)五郎兵衛、傳右
衛門參居申候間、私共四人分は著替を差上、御用に立可申候、就中傳右衛門儀は、常々道具好にて、良き道具とも持居申候、乍慮外各樣
にも左樣可思召と申候へは、兎角之返答も無之候、いかゝ存候哉と申聞候に付、扨々夫は能被申候、何かと平生申候、箇樣之時節あくみ
イ二正則
行當り申さぬ覺悟、常々互に申事に候、扨も/\能被申候とほめ申候、我等事折節正利の刀拵させ、取寄目釘を打申候處にて、右之咄平
八申聞候故、幸如此出來參候、三枚之札も有之候、是は内蔵之助に可被爲拝領候、中心の象眼に有之ことく、御自分に頼候て、生けさを
落し、きれいなる出來にて候、箇樣之時節に進之、内蔵之助なとへ被爲拝領候へは、日本の神、武士之本意に叶たると存候由申候へは、
平八も同意とて悅申候、其後横山五郎太夫被申候は、右之通平八被申候を一座にて承候、能被申候と被申候に付、我等申候は、平八中々
左樣之思寄なと、申兼候者にて無之と笑申候、就夫昔之事を風と存出し候、長谷川故甚左衛門は、度々武功有之仁にて、直江山城守與力
にも成候て、働き有之と承及候、妙解院様御代、八百石にて被召出、御目見被仕候時分、折節京都より、御伽之入道共も、御前に居申候
由、右仁左衛門はかたの如く不男にて候を、我等も幼少之時分にて能覺居申候、右御伽に下り居申候京都之者共に、御意被成候は、唯今
罷出候侍は、いかゞ存候哉と御尋之時、何れも申候は、男ぶりは乍憚下々仕候ては召抱申者は有御座候間敷候、定て能ふしにて可有御座
候と申上候へは、御機嫌にて、八百石可被下と御約束被遊候へとも、千石被爲拝領候とて、早速御加増之御書出を頂戴仕、其上御鐵砲五
十挺頭被仰付候、我等親とは内外出入にて、子息は久兵衛と申候、母儀も老母方へ折々被參候、三盛、仁左衛門へ被申候は、何も千石之
體にては、今少長柄多見え申候、見申候へは、長柄十本斗と見え申候、其外之鑓數も外之衆よりは澤山に見え申候へは、能御心を被附
候、我等は他國者も能存居申候、自然之時浪人衆被參、召連呉候へと申時、持鑓とて夫々に渡遣ために候、長柄人用之時も、右之鑓を被
用候樣に、方鑓、鍵鑓、多拵置候由被申候、大小身共に差替を持、自然之時、人に遣申候儀、武士之本意と咄被申候由に候、眞源院樣初
て御國廻り被遊候時、御轡折申候、其時仁左衛門御供にて、鋏箱に入置被申候、替の轡を御用に立、殊の外御感に預候由承及候、其時拝
領被仕候哉、拝領之馬とて、黑栗毛白き星有之候馬、幼少之時分見覺居申候、刀脇差馬共に、武士たる者の嗜にて候へとも、あしく心得
候へは、博勞取賣なとの樣成る儀に成申候と、亡父毎被申候事
商品説明に次のようにある。
「極稀文書 小幡景憲(縄直)書状 長岡監物(是季)宛 甲陽軍鑑編纂者として著名 武田流兵法の大成者 司馬遼太郎著作の大阪の陣を舞台とした小説「城塞」主人公 本書状は江戸幕府の使番として熊本藩重臣長岡監物の人質についてその近況を音信したもの。恐らく寛永十五年頃のものか。武田家旧臣~幕臣~兵法家として名を成した小幡景憲の幕臣時代の軌跡が判明する稀少文書。」
そんな説明を見ただけで「何事?」と思ってしまい内容が知りたくてしようがない。欲しいけれど高い、年金暮らしにはとても手が出ない。是を手に入れた方に、もし私の願いが叶うのならその内容について教えていただきたいと切に願う次第である。
江戸初期 小幡景憲(縄直)書状 長岡監物宛甲陽軍鑑編纂者大阪の陣司馬遼「城塞」主人公武田信玄消息和本古文書古筆短冊書簡大名戦国武将手紙
この書状は長岡監物(米田是季)に宛てたものだが、江戸證人である息・新十郎の消息を主としたものではないことはその内容が一つ書の三番目であることからも伺える。
新十郎(米田是正=是季二男)は、寛永十年九月に江戸證人となっている。
この書状は寛永十六年(1639)のものではないかと思われるので、新十郎殿の江戸での證人生活は6年を過ぎている。
天和2年(1682)6月、57歳で死去しているから、この書状の時は15歳位ではなかろうか。
越中守(忠利)、肥後守(光尚)、伊丹角助などの名前が見える。
(81)
一平野九郎右衛門被申候は、皆共出候へは、何れも窮屈に被存候、緩々と語り申事も遠慮に存候、此段宜敷様に挨拶を致呉候樣にと被申候
に付、我等申候は、九郎右衛門は咄好にて候、五郎太夫も同然にて候、となたも規度御あしらひ被成候に付、御窮屈にも可被思召候、必
々無語遠慮、御心安緩々と御咄被成候はゞ、何も悅可申と申たる事
(82)
一何れも徒然の時分のためとて、平家物語、太平記なと出申候、老人衆眼鏡を、我等へ所望被致候、其儘調候て致持參候、三國志、同名平
八致所持候を出申候、吉田・原・磯谷なと切々見被申候事
(83)
一或時平野九郎右衛門、蓋茶碗にごまめを醤油にてにしめ、唐辛子かけ、茶うけにとて、宮村團之進持參めされ候由にて、我等へ被申候
は、是はあの衆へ出し申候はゞ、慰に成可申哉如何と被申候に付、成程能可有御座候とて、袂に入持參仕、すそわけ仕候とて出し候へ
は、何れも打寄、扨々是は忝、夜の藥酒被下候時分、肴に可仕とて、皆々紙に包取、悅被申候、惣體御酒も御伺被成候て、朝晩の御料理
にも、三遍より外は成不申候故、好被申候衆は、中椀にて給被申候、右の通にて、夜は藥酒とて所望被仕候様に成り、夜給被申候衆も有
之候事
(84)
一助右衛門被申候は、十五にか成候坊主衆、名は失念仕候、藥酒の酌に被參候刻、内蔵之助申候は、誠に此間は久々の儀にて、各にも晝夜
御骨折忝存候、頓て埒明果可申候、乍此上其上にては、精進を頼申候と笑被申候へは、右之坊主衆泪を流され候、幼少の衆迄右之通に
て、不淺仕合、何れも及落涙申候と被申候故、我等申候は左樣に可有御座候、度々如得御意候、初て各樣へ御意得て、心安きも不思議の
御縁深き所、天道に叶候と申候事
(85)
一或時潮田又之丞被申聞候は、我等へ内蔵之助尋くれ候様にと申候、松平伊豫守樣へ居申候池田主水は、御出入仕候樣に承及候、御當家に
上月名字之御衆御座候哉と御尋被申候、いかにも上月與右衛門と申候て、福島殿へ城代仕、隠なき者、只今の越中守親肥後守召抱申候、
右與右衛門末子、上月八右衛門と申候て、番頭仕居申候、最早病死いたし、只今は孫の代にて、八代番頭申付候、池田主水殿事、譯はと
くと不存候、いか樣當家代々心安筋も候哉、當越中守初て入國之刻より、船中主水殿領地にて候哉、下津井より水を船にて音信、使者も
參候、此方よりも小姓組を返禮に遣申候と及返答候、其後内蔵之助、直に被申候は、扨々委細能御覺被成候、主水は私ためには伯父に
て、只今の伊賀は従弟にて御座候と被申候故、我等申候は、上月八右衛門弟、上月三右衛門と申浪人、京都に居申候、此者の娘、主水殿
の御親父出羽殿え進申候樣に承候と申候へは、扨々誠に能覺被成候、其三右衛門娘は、申さは拙者祖母分にて候、乍然此腹には、子は無
御座と被申候、我等申候は右與右衛門事は、時代替り候故覺不申候、私親とは咄申候哉、與右衛門子共、いつれも心安咄、就中八右衛門
は、近所にて、猶以心安仕候と申候へは、段々委被仰聞忝存候、拙者儀少内縁も有之候、九郎右衛門殿とは、いかやうの續にて候哉と被
尋候、我等申候は、惣體九郎右衛門事は、遠江守樣同名にて御座候、平野氏傍輩ともにて多御座候、安藝守樣へ御座候は、九郎右衛門に
は何程の續と申儀、不存候と及返答候、扨又序に書加置候、右池田主水祖父出羽と申、長久手之合戰に、御父子共に討死被成候、出羽は
紀伊守樣御子にて候へとも、幼少故、御次男三左衛門輝政公、御家を被繼候て、只今の伊豫守樣迄御相續にて候、出羽は殊に御嫡子筋に
て、三萬五千石にて、御家老相勤居申候、出羽も二代にて、初出羽は、右之通ゆゑ、蜂須賀蓬菴樣の御聟にて、松平阿波守樣御妹聟、就
夫阿波守樣、妙解院(細川忠利)様御相聟にて、眞源院(同光尚)樣御爲に阿波守樣御伯母聟、其妹池田出羽奥方にて候へは、右之御由
緒を以、御代々備前下津井にて、水船を出し被申事、能存居申候へとも、其譯は態とだまり、いか樣の譯か、代々心安御座候と迄及返答
候、我等共先祖、池田の御家に居申候故承傳候、内蔵之助も能存知とは存候へ共、差扣候事
(78) 豊後
一堀部彌兵衛被申候は、高田鍛冶居申候處は、熊本より道の程、何程有之候やと尋被申候、三十二三里の道法と申候へは、拙者も高田行長
細川藩士
重之作致所持居申候、誠に御下被成候はゞ、同名甚之丞へ御咄可被下候、拙者事兄弟九人有之候、其内酒給者両人御座候、是は仕合の
儀、其外私も初め酒給不申、不仕合と存候、甚之丞は、随分酒を給候へと、御咄可被下候へと被申候に付、甚之丞殿は參候樣に覺申候、
細川藩士
只今被仰聞通候はゞ、御喜可有之候、江村宗周老御縁の譯、私はしかと存不申候、甚之丞殿の聟にて御座候、堀部十蔵事はいかゝ務候哉
と被申候故、旦那心にかなひ、懇意被召仕候、御心易思召候へと申候へは、又被申候は、十蔵は、存知居申候哉、彼者幼少の時分、私養
子に可仕なとゝ、甚之丞方へ申遣候、前々より書通の文體なとも、慇懃に紙面も相見え候へは、手全に御奉公も相勤可申と存候由被申
候、其後十蔵に達候て、右之趣を咄申候事
(79)
一彌兵衛忰安兵衛従弟佐藤條右衛門と申浪人御座候、先年長崎奉行諏訪何某樣にも、浪人分にて被召連候、長崎にてくわもつ盗取候足輕之
類三人迄、條右衛門一人にてからめ捕申候、今度内蔵之助免し不申候へは門内へは入不申候得共、私老體とて介抱仕候、中々男らしき
見掛はイニ
者にて御座候、乍併不男にて御座候、然れども主取候はゞ、主人の御心に叶候樣、奉公可仕者に御座候、此者事心懸りにて、不便に存候
と被申候故、御心安思召候へ、左樣之御心底にては、男ふりは入不申候、武冥利に可被叶候、追て御知人に成可申と申候へは、殊の外被
歡候、其後堀部十蔵、成田伊右衛門小屋に、右條右衛門被參候て、知人に成申候、則伊右衛門同道にて、同苗平八にも知人に成候様に仕
候事
(80)
一或時上之間には、八木市太夫毛抜はさみ澤山に包持被出候、鏡ちさきをも紙に包、是は我等持出候、内蔵之助被申候は、只今も市太夫殿
如此御持參被成候とて、我等鏡と同前に頂戴被仕、段々被爲附御心忝仕合迚、其儘差置、堀部彌兵衛は脇之方に寄臥居被申候が、其刻目
覺被申候、内蔵之助被申候は、彌兵衛目覺候哉、是にと被申候へは、其儘はい寄り被申候時、唯今是は市太夫殿御持參、是は傳右衛門殿
御持參にて候、頂戴被仕候へと指出被申候、彌兵衛も頂戴被仕、辱かり被申候、去人被申候は、毛を抜被申候時、又ははさみにて爪なと
取被申候節は罷出候て居候樣にと被申候に付、我等申候は、傍輩心安きだに、先止咄申候事、禮義にて候と申候へは、然らは見え隠に居
被申候而、身申候樣にと被申候、惣體我等は、心底に存候事は、諸人氣随者と申候段、前々より承居申候へとも、御奉公等之儀は、尚以
心底に存候事は、少も扣不申候、天道次第と平生覺悟いたし居候事
6時半前起床、コーヒーを沸かしPCを開いてメールなどをチェック、今日は朝からシャワー、そして洗濯にかかる。
ここまで約1時間半、さて朝食をとらねばならないが何にしよう・・・・
昨晩の残り御飯があったし、味噌汁が残っているからこれで済ますことにした。ご飯は茶碗の半分ほどもない。
面倒くさいので味噌汁にご飯をほおり込んでの「猫マンマ」状態で、5分もかからず朝食終了。
シンクの中の鍋や炊飯器の釜、食器類を洗ってここまで2時間。
食事をとるのが面倒くさくて、時にはバナナ1本なんて時があったりして、又体重が減り新記録を更新した。
今月28日には胃カメラや大腸内視鏡検査を受ける予定だが、何もないことを願っている。
ようやく妻の退院が20日と決まりいささかほっとしている。炊事洗濯、買い物など諸々、「奥様、はいどうぞ」とはいかなくて、しばらくは今までとあまり変わらない日常だと思うが、介助という仕事が増えるから忙しさは一段と増えそうである。
コーヒーを入れなおして一休みしてベランダから外を眺めると、ようやく木々が黄色くなって冬ならぬ「遅い秋」の風情が感じられる。
そろそろ朝散歩をはじめようと思っている。
(73) 細川藩士・用人?
一いづれもたばこを好被申候故、宣しきを被仰付候へと、堀尾萬右衛門なとへも申候へども、惣體 太守様御嫌故、御客たはこまてにて
悪候故、それかし罷出候節は、念を入懐中仕、毎度何れも所望にて給被申候、或時間瀬久太夫、小野寺十内所望にて、たはこをすきと
うつし取、たはこ入返し被申候て、小聲にてとかく傳右衛門殿は、當世にては無御座候、古人にて御座候、御腹は立被申間敷と被申候
故、扨々迷惑仕候、たはこを御取被成候上、若き私を古人とは、近頃迷惑に存候と申候へは、此たはこ入の御物好にて、いつれも左樣
に存候と被申候故、見苦しく御座候へ共、皮がよくたはこを持候と返答仕候へは、いや/\、惣體當世にては無御座、乍慮外いつれ
も、神以存候と被申候、あれ是たはこ入懐中の衆中、随分奇麗に新たはこ入にて、樣々の物好き多く候へとも、皮か宜御座候ゆえ、才
覺いたし候、此たはこ入は、何れも度々手に取り申され候故、形見と存殘置候、肩きぬ譽申されたる時は、めいわくに存候か、古人と
被申候事は、ちと太慶と存候事
(74)
一内蔵之助をはしめ、何れも被申候は、御番被成候御衆、其外御通被成各樣、最早久々の事にて、扨々ご苦勞千萬に存候、早く埒仕度と
被申候、拙者申候は、皆共も代り罷歸、心を付見候へは、各樣へ朝夕料理を進候手伝い荒仕子まても、少も苦に不仕随分御馳走仕度心
底と、日本の神見及候而、御苦に不被成候やうにと存候、右之通之儀は、偏に各様之御心故と、傍輩とも寄合御噂仕事に候と返答いた
し候、大石主税其砌強き風を引被申候樣に承候に付、隠岐守様御聞番に尋申候へと、同名平八に申候へは、即刻承候にもはや御快、食
事なとも進み候由、平八咄にて、委細承候と申候へは、内蔵之助被申候は、扨々被附於心、忝次第と斗にて、仔細は尋不被申候事、
(75)
一正月初頃次の間にて、忠右衛門被申候は、御町宅に被成御座候ヘは、定て色々咄をも御聞可被成候、不苦御咄共承度と被申候故、舊冬
より江戸中末々迄各樣御忠義の咄斗承候、舊冬二十七日八日頃か岡林杢之助殿と申仁、書置をして自害被仕候との沙汰承候と申候へ
者、忠右衛門暫く案し、いかにも左樣可有御座候、杢之助は千石取番頭仕居申候、成程誠にて可有御座と被申候へは、十郎左衛門被申
候は、傳右衛門殿御咄之通に候へは、忠左衛門殿いかゝ思召候や、おそしはやしと申ものにて候、今少見合、時節も可有之事と被申
候、能々了簡いたし候へは、深心にて存寄有之事と見え、別て感入たる事に候事
(76)
一忠左衛門被申候は、傳右衛門殿、御通ひ被成候道筋は、いかゞと尋被申候故、大工町に居申候故、川岸端を通り、數寄屋橋を通候事も
有之、又用事御座候時は、道筋かへ申候、大形右之通にて、八官町通り申候と申し候ヘは、八官町の後に三輪丁と申候て有之候、夫に
内海道億と申、道三門弟御座候、相弟子なと、御家にも御座候樣に承及候と被申候故、成程町方にも大勢扶持なと遣置き候醫師御座候
へ共、識人無御座、家名なとも、初て承候樣の事共御座候と申候へは、御大家にて、誠に左樣に可有御座、此道億は随分療治もよく仕
候、内匠頭方へ居申候、一亂以後浪人にて、町宅に居申候へとも、脇々の療治を止、皆共類在江戸之者迄療治仕呉候て、志有之者にて
候、御隙之刻、御寄りにて候へとも、御立寄御咄被成候へかしと被申候故、夫は奇特成儀に候、いつそ立寄可申と申候、其後立寄知る
人に成、緩々御承候へは、在江戸にて、京大坂に被居候衆へは、萬事此道億へ通し合被申候由、京都に寺井玄渓父子にて、互に通し合
被申候、以後承候、玄渓子息玄達と申候由、最期の時、内海道億樣大石内蔵之助と、上書きの大きなる書状、原惣右衛門手跡にて調申
たるを、惣右衛門拙者へ、是を届呉候へとの頼にて、同名平八に申置歸候後、平八も道億居所不存、(三宅)藤兵衛殿へ持參之處、御
前へ上り申候由平八申聞候、道億え見廻候節、寺井玄渓より參候書中之内、拙者言傳を切抜、見せ被申し押す蝋を寫置候、此文章略す
(77)
一原惣右衛門被申候は、本町呉服物共、定て大勢出入可仕候、本丁に、京都より寺井玄達と申醫師參居候、舊冬京都え歸申筈に御座候、
いつ頃歸被申候や本丁より出入の者に、御聞被下候へと被申候故、本丁一丁目、七文字屋彌三右衛門方え居被申候寺井玄達、極月二十
六日、京都へ歸候由承候て、惣右衛門え申達候、是は京都より内蔵之助なとへ付候て、病用に被參候由、後に承候事
a081◇ 肥後熊本藩家老 有吉家文書一括 薩摩 有吉時陳 兵法 武家故実 有職故実 和本 古書 古文書
細川家三卿家老・有吉家文書がこのようにまとまって出品されることは大変珍しい。
20年ほどヤフーオークションをウォッチングしているが初めてではないかと思う。
入札状況をしばらく拝見して、チャレンジしてみようかとも思う。
(71)
一堀部彌兵衛被申候は、津輕越中守樣江、大石無人と申候て、拙者同年七十八歳に罷成候、前廉故(浅野)采女代の勤の者にて、只今は津
輕樣へ、大石郷右衛門御側御用人相勤居申候に懸り居申候、今度一列の同志と申候故、拙者扨々無分別、御家も替り、子に懸り居候て
は、道理に叶不申と申候へは、得心仕候。御滯留中御隙の砌、御知人に御成候へ、故事共能覺居と被申候故、彌兵衛果被申候以後、本莊
に被居候由尋候て罷越、無人并子息郷右衛門、三平共在宅にて、緩々語、いろいろ馳走にて被歡候、無人被申候は、彌兵衛儀は、若き時
細川藩士
分より心懸よく、初て主取いたし、扶持方計にて馬を持居申候、御家に只今居申候哉、斎藤勘助とは、故采女所にては兒小姓傍輩にて勤
居申候、勘助親又太夫大身にて御家に罷出申候故、勘助は采女手前より暇をもらひ、親一所に參候と被申候故、扨は左樣に候や、勘助は
とく果候て、只今は孫子の代にて、無事に勤居申候と申候、無人又被申候は、今度一列の者共、刀脇差道具抔、泉岳寺より拂物に成候
由、色々才覺を以調申者有之、内蔵之助著込は、御家之御侍衆所望の樣に承候、誰殿にて御座候哉と尋被申候、いかにも存居候へとも、
自然所望なとも可被致と存、越中守屋敷も方々有之、侍共も諸方に居候、殊に大勢の事故、定て左樣之儀可有之候しかと承不申儀と申
候、泉岳寺にて拂物有之段は承候へとも、偽にて可有之候、衣類之樣成物にて可有之候哉、大小武具、寺の寶物と成り其儘召置被申候、
子孫の所望も有之節、譲り渡被申心底にて、中々拂物に成候と承り、肝をつぶし申候、拙者なとも望に存候而、殘念に存候と挨拶いたし
候、右無人は大石同名にて、瀬左衛門大伯父と承候、内蔵之助着込は、去人泉岳寺小坊主に心安有之所望被致候、それかしは未申候、随
分隱し、向方よりも聞付、所望も可有之候哉と、内々にて求被申候、助右衛門を頼候て、如望二枚調被申候、内一枚は、右忍の緒に替
へ遣申候、追て右着込を求被申仁、歌の下書を被仕、此通に何とそ内蔵之助に歌を書貰候様にと被申聞候、初者拙者心も付不申候、只今
存候へは、能こそ書せ置候と存候、是も右之仁の影と存候、右之仁は江戸定詰にて候事
(72)
一拙者肩衣に、紺の水衣有之、單にて夏中着、冬に成り古き羽織の裏に茶の形付置候を、或時着用罷出候へは、片岡源吾右衛門被申候は、
此御肩衣は、何と申ものにて候哉と、尋被申候故、水衣とか申候樣に承候、若きものともの物好にて拵候と申候へは、扨々能き御物好
き、裏の取合迄能御座候と、手にて探り譽被申候、神以それかし迷惑致候、總體衣類に不限、時々のはやり事致さぬものと、亡父被申聞
置候、三齋様御眼あしく、八代え相詰居申内、細川刑部殿と申候、後に玄伯老と申候(七男・興孝)若年の時分、江戸より下着にて、八代に被
參候節、京都より御咄伽、宗吟宗和と申者、并槙嶋雲菴半之丞祖父也も被居候、刑部殿短き羽織着御出被遊御覧、御機嫌悪く、次へ被參、
其羽織誰にそ遣候へとの御意に付、宗吟宗和申上候は、唯今かうむり道服とて、江戸御旗本衆、馬の三頭に懸らぬ樣にとて、はやり申事
に御座候と申上候へは、三齋様御拝領の羅紗の羽織を御取寄被成、刑部小袖に、兩方五歩宛長く仕立させ候様にと、御意被成候、扨江戸
にて何を仕居候哉と御尋被遊候、小畑勘兵衛軍法を承りたる由御申上候へは、御意に證據かなけれはいわれぬ事なれとも、雲庵是にて聞
候、關原之時分、勘兵衛もさして替候事もなく候、われ等馬上にて働、太刀打も、雲菴、存知之通に候、三齋子越中弟なとゝ申者か、時
々の時行とて末々の仕事無用に候、總體時行事は二十年々々には本のことく成ものにて候、ニ六時中越中軍法を習ひ、常々了簡いたし心
を付、侍共を夫々につかひ候か、軍法を不依何事、其時の下知よく廻り申ものとの御意承り候と、毎度亡父被申聞候、扨々乍憚御尤至
極、御名將樣の御詞、毛頭違不申候、拙者若き時は、無そりの刀脇差時行、拙者も反をのべ指たる事も有之候、只今本のことく反りたる
に成り申候、第一に箇樣之儀承覺居申儀、當分の御用にても、即座失念仕候はゞ、迷惑可被仰付候、箇樣之御意を傳承、それ/\に嗜候
はゝ、寔に寸志にて、冥加にかはひ可申候
(66) 細川藩士 家康公
一次之間にて(富森)助右衛門被申候は、吉弘嘉左衛門殿先祖之儀、承度と被申候故、我等申候は、大友家にて吉弘嘉兵衛と申者、秀吉公
之時、九州合戰之砌討死仕候、石垣原の戰と申候、豊後詞にて子共迄も小歌に、長い刀をシャツと抜て切てさるけばエレ/\皆はいまは
ると、諷申候と申傳候、就嘉左衛門と心安共は、ムゝエレ/\と申て、なふり申候と申候へは、助右衛門被申候は、アレに居申候、矢田
五郎右衛門も、嘉左衛門殿御先祖にまけ申ましく候、矢田作十郎と申候者は、隠れもなきものにて候と被申候、後に承り候へは、大村因
幡守樣御出被成、太守様え御咄被成候は、御預り内、矢田五郎右衛門先祖作十郎は、三河にて三人之内にて、二人之子孫は、只今御旗本
に御鐵砲頭被仰付置候、名は失念仕候、其内にても、作十郎は勝れたる武功之者と御咄被成候由承候、堀部彌兵衛事も御咄にて、今時之
聞番之樣成るものにては無御座旨、被仰候由之事
(67)
一内蔵之助を初、何れも被申候は、度々御斷申候は如御存、私共久々浪人にて、輕き物迄を給暮し申候故、結構成御料理數日頂戴仕、殊之
外つかへ申候、此間の麁飯戀しく成申候、何とそ御料理輕く被仰付被下候樣にと被申候、我等申候は、左樣に可有御座候、私共も逗留中
御相伴に、次にて料理給少つかへ申候樣に覺申候、乍去菜數之儀は、旦那耳に達候て之儀故、減申事は難成と申候へは、左候はゞ、唯今
御座候ちさ汁、なまこ鱠糟味噌汁なとゝ、心安衆は望被申候故、色々申候へとも、御料理人共、唯うまき樣に計仕、存候樣に成兼、残念
に存候事
(68)
一助右衛門被申候は、いろ/\御馳走、誠以冥加に叶たる儀に御座候、水風呂も一人宛御かへさせ被成候事別て迷惑仕候、大勢入候跡程和
かに能御座候旨被申候故、後は二三人にて替候様に申付候、毎度下帯なと被下候へとも、度々には替不被申候事
(69) ほつんヵ
一上之間若き衆、大勢咄被申候處に、罷出候へは、何れも被申候は、御覧被成候へ、間喜兵衛いつとても咄不申、人の後に計つほんといた
し居候が、如形律儀に堅き男にて御座候と被申候故、我等申候は、勝れて御實儀と承候へは、今後顯れ候と申候へは、夫はいか樣の思召
にて、被仰候哉と被申候故、今度各様上野介殿をこそ、御心に可被懸候へとも、十次郎殿御鑓付被成候て、印を御あけ候事、喜兵衛殿御
手に被懸候より、十次郎殿御手柄を、何程かと大慶に可被思召、冥加に御叶候事、常々喜兵衛殿之御貞心故と申候へは、何れも誠に左樣
にと被申候、何れも喜兵衛の方を見向被申候へは、歡ばしき顔色にて、笑ひて我等に向、何共物は不被申候、忝と計之樣子にて、折入て
時宜を被仕候、夫故か終に咄もなく、しかと言をかはしたる事無之候、最期之時、側に寄候而、何そ御口上之御方可承と申候ヘは、懐中
より辭世を書たるを給候き
草枕むすふ假寝の夢さめて
常世に歸る春のあけほの
(70)
一御老中秋元但馬守樣御内に、中堂又助と申仁、(間)喜兵衛聟に御座候由に付、傳を以此辭世を又助内儀へ見せ、所望には可被思召候へ
とも、是は拙者に給被申候故、所望は斷申とて遣見せ候へは、又助より卽刻禮状給候事
(59)
一いつれもへ我等申候は、箇條に御懇意に仕るも、因縁ある事にこそ候へ、折を見繕ひ、追々各樣御一類中へ、御身分之樣子、委敷御咄
可申と心掛居候、乍去御人に寄ては、何を申かと思召御方も可有哉、無心元候、いつれも樣御自筆にて、御手跡御親類中之御名を、御
書付置被下候へかしと申たれは、皆々殊の外歡はれ、銘々親類縁者、御當所に被居候分は勿論、京伏見大阪其外所々、委敷書付出され
候故、其分追々相尋、傳言之趣申通、始末も委敷咄し聞せ申候、
(本條以下六條は異本に據り補ふ 59~64)
(60)
一或時、堀部彌兵衛能寝入て居たるか、矢聲をかけ被申候は、丑の刻比にても有たるか、我等寝ず番して居たるが、此聲に驚候、彌兵衛
は老人故、若き人に劣る間敷との嗜にて、常々心張り居候故、寝入ても折々箇樣成事ありと咄被申候、彼仁は、飯後には何れも御免候
へ、老人は足すくみ申とて、縁かわに出て、あなたこなたと歩行、足をならし申すとて、笑被申候事能く存候、其後夜四過比、潮田又
之允、寝入候て歯切被仕候を、去仁參候て起し、はきりを強被成候、御氣色悪敷候哉と尋被申候由、以後又之允被申候は、先夜誰殿之
被仰入念候て、被附御心被下候、私癖にて寝入候て間々歯切仕候、扨々入御念、忝くは存候へとも、扨々迷惑仕候と被申候に付、笑候
て、夫は念入過し、御目覺御迷惑と申笑申候、惣體萬事入念勤候樣、毎度何れも承り申事にて候へとも、事によりたる儀と存候、名も
又之丞被申聞候へとも、態と書付不申候、能く/\萬事心付候て、了簡可有之事と申候事
(61)
一内蔵之助は、御預之翌朝より髪を結わせ候、殘之衆は、其儘にて二三日居申候、我等進め候へは、其後追々髪を結せ被申候
(62) 細川藩士(医家)
一十二月下旬、江村節齋老の孫成庵が、十七人之衆見度由、我等に頼候故、同道致候、其以前寒風強く、十七人の内には、手負い病人も
ある事に而、御心元なく被思召、江村節齋老へ被仰付、見廻も被致候事故、此者は節齋孫にれ成庵と申候、各樣に御目に懸度由申出、
幼年には奇特なる事に存候間、是へ召連候と申候へは、内蔵之助始、扨も々々と申、各側に寄、いくつに御成歟と被尋、十二歳にて候
と答候、彼の衆へ被下置候菓子の有たるを、鼻紙に包、成庵に遣し、其後は折々成庵の事を申出、富森助右衛門被申候は、内蔵之助を始として、同の子供を持候者は、思出し候と噂被致候、右成庵か見に出候噂を聞傳へ、御番方并御次詰之
衆も、追々彼の
衆を見に出被申候、いかさま後年咄しの種になり申へし
江村節斎 名は宗悟、友精と称す。医を以て藩に仕へ、法眼に叙せらる。
食禄七百五十石、子孫は世々医を以て仕ふ。
享保四年七月六日歿す。年八十六。
(63)
一いつれも被申候は、舊冬より度々火事沙汰承候、此上皆様の御苦勞に相成居候間は、御近邊に火事無之樣仕度と也、我等答に、當屋敷
廣、殊に泉水流れ、芝原も廣、樹木も茂り居候、萬一之時は、庭内に御連申筈に而、手當日申付置候と答候へは、左樣ならは、ちと御近
火を願ひ申とて、皆々笑ひ被申候
(64)
一正月十一日、御役替有之、岩間何五郎、片山重之允、着座被仰付候、其砌私へ何れも尋被申候は、着座とは、如何樣之御座配御役儀かと
尋被仕候、私申候は、他家にて申す番頭之類にて御座候、旦那家にても、大方は其位にて御座候、併着座と申は、先は年始の禮之節、太
刀にて申候、着座にも段々有之候、小身にても家筋能者共は申付候、番頭より上座之着座、下座の着座と、色々御座候と挨拶仕候事
(65)
一いつれも若き衆中被申候は、堀部彌兵衛養子安兵衛、定て御聞及も可有御座候、先年高田馬場にての仕方、彌兵衛承及候而、何之由緒も
無之候へとも養子にいたし、不思議なる事は、手跡物こし迄も、彌兵衛に能似申候と被申候故、成程承及候、感入たる儀に候と申たる事
WEBで紹介されている「大江戸切絵図・芝高輪編(位置合わせ図)」をみると、細川家の白金邸は旧・東海道「二本榎木丁通り」に面していることが判る。
それは、文字の書き込みの向きが表している。(縦書き文字の頭部分が正面を示す。)
ところが厄介なことに、永青文庫に残る「白金邸」の図面を見ると、方位(右下表示)が記されているがこれだと入り口は北向きになっているから、これだと説明がつかなくなってしまう。
上記説明文については、まったくの当方の勘違いによる錯誤であり、全文を削除しお詫びと訂正を申し上げる。
■「細川家・白金邸のこと」についてのお詫びと訂正
赤穂義士17名が切腹した場所が、高松中学校内に特に囲いが設け設けられたのは中央義士会のお陰だが、この場所の正面入り口の戸にのぞき窓が設けられていて、そこから拝見することができる。
図面の左上、能舞台の上部がその場所である。(一番下の図面は左右天地が逆転していますから、能舞台は右手に書かれています)
その場所は「檜書院」の前にある能舞台の右手脇である。いろんな形で残されている細川藩邸内での「切腹の図」は正式なものではない。
随分昔「再び・・赤穂義士切腹の図」を書いた折、赤穂義士研究家の佐藤誠氏からコメントをいただいた。(コメント欄を参照されたし)
私は以前、熊本県立美術館の永青文庫展示室でこの絵を拝見した時、よせばいいのに、近くに居られた係員の方にその旨をお話ししたところ、なんと永青文庫(東京)に電話を入れられて、直接ではないが、「これは切腹の場の雰囲気を描いたもので、間取りには応していない」とのご返事をいただいた。
下に御紹介する絵図のとおりであり、どう見ても「切腹の図」とは似ても似つかない。
これは切腹の場にも臨んだ右田某が描いたもので、真実に一番近いものだとされている。
さてその場所をかって私の友人が訪ねたらしいが、とうとう探し出すことができなかった。
「誰かに聞こうと思ったが聞けなかった」との事であったから、少々冷やかしたことを思い出す。
先に上皇様の仙洞仮御所となった旧高松宮邸(ここも白金邸内)の裏手に「紫陽花ロード」がある。
左手は港区の都営高輪アパート群、その敷地が終わるあたりから左折すると、右手の鬱蒼とした森の中にその場所の玄関(この地図ではクローズアップすると二つの門柱らしきものの表示有)が表われる。
失礼して都営アパートの1号棟と3号棟の間を抜ければほぼほぼ正面に当たる。
先日の史談会での中央義士会の理事・宮川政士氏のお話を思い出しながら、少々触れてみた。
(55)
一松平安藝守(浅野綱長)樣御家中は、江戸にて馬を持不申候も道中は専牽せ申候、江戸にては借馬も有之由、道中専に牽せ候由、上田新
兵衛咄にて候、先年道中にて我等も見申候、馬數大分に候、前々より馬宿の咄承候、本多中務樣御家中は、貮萬石以上は馬は牽かせ候、
是も先年道中で見申候、右の通候へは、内匠頭樣も安藝樣と同前と存候、數日の儀にて、何も心安坊主共に、色々の事を尋被申候由候へ
は、我等身の上の事も、定て尋たるにて可有之候、馬牽せ候宿の時も何となく、右之咄を得候、心底には扨々おかしく痛入候、何角に付
小身は口惜候
(56) 吉田
一次の間にて咄居候處に、上の間より忠左衛門參、傳右衛門殿は、毎々若き者斗と御咄被成候、御年もさのみ皆共と替りも無御座候と被申
候故、神以追付夫へ可參と存候へ共、御咄しみ候て居候と申候へは、忠左衛門被申候は、いや左樣にても無御座候、惣體是へ參候事、内
蔵之助心に叶不申候と存候得共、傳右衛門殿御聲仕候と、内蔵之助其外へも申候て、是へ參候、必此座がらに御はなし可被下候、此間に
參候て御噺承候へは、氣晴快御座候と被申候、是にて内蔵之助威高き事、可有御察候事
(57) 吉田 原 堀部
一上の間罷出候時、忠左衛門、惣右衛門、彌兵衛なと、我等側へ被參、傳右衛門殿は馬御数奇と、何れも咄にて承候、馬咄可仕候、總體道
中御牽せ候馬、遠路達者不達者に可有御座候と被申候、いかにも若き時より數奇て見候に兎角馬は生質すなほに、すそ廻りよく無御座候
へは、遠路道中なと役に立不申候、頭持能、轡うけ能、喉も前地道乘能のと申候ても、小うて延び申候か、或はそむき爪悪敷候か、とか
く馬は惣體能候ても、右の所々に申分候へは、遠路必血落、自然の時益に立不申候と返答仕候、御番人後に詰居被申候故、われらも心の
内おかしく、いたみ入候、若輩の時分、御馬屋に稽古に出其後定て御供にて、舎人殿就中馬好きにて、切々右之咄承居候故、取合候而返
答いたし候、とかく何事も心を付て、人の咄は可承置事に候、武士はいか様の事かありて、大名に可成事もしれぬ事に候、昔より申傳
候、心は身體より大きに持度事候、扨右之三人衆被申候は、扨々傳右衛門殿は、承及たるよりは馬御巧者にて候、定て御家の御馬役衆、
其外御侍中にも御乘手多可有御座候、前廉の上田吉之允なとの樣成上手は、當世有兼可申候と、忠左衛門被申候、如仰昔之樣に勝れて乘
候は有兼申候、馬役之者に中山九郎左衛門と申者候て、随分奇麗成る乘方にて御座候故、越中守唯今の旦那の祖父妙解院と申候、三齋子
にて御座候、如形馬好にて、自分にも能乘被申候、馬上にて色々の事を被仕候て、慰被申候、腹中すき候時分、馬上にて湯漬なと給被申
候由、親共咄承候、其時分は右吉之允におとらぬ上手共多く、馬役之者に永井安太夫と申ものは、皆共幼年之頃まて存命にて覺居申候、
小男にて奇麗成乘方にて御座候、吉之允は馬上手にて、武功も有之候、一所に佐分利九之允と申仁御座候由、此佐分利同名之者共、傍輩
に多御座候、兩人共に松平宮内大輔樣へ被召仕、九之丞は後に原城にて討死仕、石塔なと今に有之候よし、傍輩共は見申候との咄承候、
吉之允兒小姓佐治頼母と申仁は、右吉之允、九之允働有之刻も、同前の働にて、富田信濃守殿當座之褒美に、作の鞍を給り被申候由、後
に松平新太郎樣え被召出、千石被下、鐵炮頭被仰付候段、親共噺にて承り申候と申候へは、三人共に傳右衛門殿は、古き事を能く御覺被
成候と被申候、近代大坂軍島原一揆之刻、御父子共に被成御座、御家中侍中討死手負、或は御褒美之書附、折々見可申候、生れぬ先の事
も知申候、御當家之事を、御家人の不知して、他家の人尋申時、不存と申と、不心懸之事候、遠坂關内、此以前相良遠江守樣へ御振廻之
時、御供に被參、其刻我等は歩御使番にて、腰懸に居申候、御知行取は御座敷に上り、御料理被下候節、關内え彼方御家老被申候は、前
廉御家に居被申候而、御暇申上候早水忠兵衛と申人、松平大和守樣へ被召出、結構なる首尾にて御座候、御家にては百石被遣、御臺所頭
被仕居候由、島原之刻、長岡佐渡殿、益田彌一右衛門殿、右御兩人之證據状持被居候て、右之通結構に被召出候由、右之通之仁を、何と
て御暇被遣候哉と尋被申候へは、關内方返答に、成程被仰聞通に承及候、其節越中守、肥後守父子共に罷越候故、侍共過半召連候、其時
忠兵衛は、輕き奉公をいたし、臺所廻りに役儀を勤申候者にて、働いたし候、他所へ參候ては、身體の足りにも成可申と、兩人より状を
遣候儀も承及居申候、前々より召仕候侍とも、働多御座候故、越中守方にて、さのみ賞翫不仕候、大和守樣へなとにては、島原之働有之
者少可有之候間、御賞翫御尤に候と返答いたし候へは、御家老とかくの事もなく、御尤と被申候由、則我等腰懸に居申候處、關内被參、
何と存候哉、偽にもなく誠を以能返答にては無之哉と被申候、今に忘不申候、扨々能被申候樣、先祖越後守殿之名を汚さぬ樣にと、申さ
れたるを覺居申候、關内は古き咄好にて能覺候、關内島原の時分は、未生以前か、三四歳か、夫より上にては有間敷候、皆々好たる訳
は、わけもなき事さへ覺申事に候、貴殿心得にも成可申と、書加へ候事
(58)
一忠左衛門、我等側に寄咄被申候は、拙者聟伊藤十郎太夫と申者、本多中務大輔樣御内に居申候、折節在江戸にて候、本多家譜代之者に御
座候、親は八郎左衛門と申て、武功も有之候へとも、申度事斗申候故、小身にて今に二百石被下居申候、内記樣代或時御前へ被召出、御
夜咄之節、酒も出段々御機嫌能、後には出頭仕候、兒小姓衆罷出、八郎左衛門に酒給せ候へとも、下戸にて常々短氣者故、頻にのませ可
申とて、兒小姓衆戯候て、色々の事を申て、腹を立させ候へは、散々悪口を申候故、幼少之者共と申、殊に御前にて迚、御機嫌損し候由
承及候、今に小身にて子孫も居申候、心儘に申度事斗申候へは、今に小身にて居申事と被申候、我等申候は、左樣の儀は多き事に候、苦
にも不被存、定て一つ所を樂に存可被居候と、返答致候、又被申候は、右十郎大夫殿へ、折を以御知人に成可申と被申候、本多樣御屋敷
は、御成橋之内にて、參り候て逢申候、存生之内にて、いか樣遠慮被仰付候哉、長髪にて些煩居申と被申候、緩々と咄、忠左衛門殿御無
事に御座候と申候へは、扨々忝、神以御禮難申盡と被申候、忰兩人疱瘡輕く相仕廻、湯も懸り申候、其外忠左衛門忰共も、無事に居申
候、私妻子にも無事に居、寺坂吉右衛門無事に下り、私所にも參候段申越候と、御咄被下候へと被申候故、歸り候て忠左衛門に咄候へ
は、扨々不淺御志難申盡とて歡被申候、吉右衛門事申出候へは、此者は不届者にて、重而は名も被仰被下間敷と被申候、吉右衛門は、其
夜一列に一同に參候て、逐電いたし候由、兼々何れも被申候、然とも無恙仕廻申たる儀を知せ候使申付なと色々申候へ共、右之通に被申
候事、不審に存候、實の缼落かとも存候事
先に「■謎解き・細川和泉守殿とは何方」でご紹介した松平右近将監、諱を武元といい徳川吉宗・家重・家治に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼されたという。
来年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、この松平武元を石坂浩二が演じるというが、大変な老け役である。
やや猫背の白髪交じりのふと眉と言った感じで、かってのハンサム俳優の大チャレンジなのだが、氏も御年83歳で私よりも一つ年上だから、年相応の役なのかもしれない。
このドラマは田沼意次の時代と謳っているが、松平武元と意次は大変仲が良かったらしい。
そんな二人が活躍する政の世界と、浮世絵版元・蔦屋重三郎の活躍がどう絡まってドラマ仕立てになっているのか興味深い。
来年も欠かさず大河を見ることになりそうだ。
石坂浩二氏の松平武元の姿はこんな感じでした。右端が田沼意次の渡辺謙氏。
https://www.instagram.com/p/DB_LqnQM5Iu/?utm_source=ig_embed&utm_campaign=loading
昨日の熊本史談会に於ける、日本義士会・(熊本)山鹿支部長の宮川政士氏による「日輪寺と赤穂浪士 ~忠蔵と肥後~」というお話をお聞きした。
会員以外に多くのビジターの皆様で盛会であったが、まだまだ赤穂浪士に関する興味は尽きないように見える。
それとも、赤穂義士の接待役を勤めた「堀内傳右衛門」に対する興味であったろうか?
いずれにしても、堀内傳右衛門が書き残した「旦夕覚書」や赤穂義士に関する「堀内傳右衛門覚書」「御預人記録」などの諸記録は、赤穂事件研究の基本的史料として盤石の価値を有している。
現在私はその「堀内傳右衛門覺書」をブログでご紹介しているが、自らも楽しみながら読み返したり確認したりしながらのタイピングだから、遅々として進まない。
全部で133の話でまとめられているが、ようやく前回までで49話まで終了した。少々スピードアップして何とか討ち入りの日までには終了できないかと思っている。
そしていつかこの「堀内傳右衛門覺書」を皆様にご紹介する機会があればと思っている。
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(50)
一潮田又之丞と咄居申候處に、原宗(惣)右衛門被參、何やかや歌の咄なと有之候、又之丞被申候は、小野寺十内妻の歌、御存被成候哉と
被申候、いや不承候と申候へは、宗(惣)右衛門殿被書付候て、傳右衛門殿へ被遣候へと被申候へは、惣右衛門被申候は、十内承候はゞ
腹を立か申候と、笑ひながら書付給候、
筆の跡見るに涙のしくれ來て
いひ返すへき言の葉もなし
(51)
一片岡源吾右衛門被申候は、先頃は皆共被召置候御屋敷の釘隠、九曜の御紋を見申候て、風と存出したる儀御座候故、故采女正(長重)代
に、三齋樣より被遣候由にて、御召料の御具足、御小手はうふ小手にて、手の甲に、釘隠の御紋の大きさにて、銀の九曜御座候、惣體采
女正武具の物好き、三齋樣を眞似被申候由、指物なとも、三本しなへかちんにて、白餅を一本に三つ宛、九曜の心にて九ッ付させ候、私
は武具を預居申候故、能存候と被申候、扨は左樣にて候か、御先代々御心安得御意被申候樣に承及居申候、旦那奥方本源院殿先年果て被
申候刻、寺え爲御名代、大石頼母殿御詰被成候事覺居申候、内匠頭様御家中立物なと、其身/\の物好きにても候哉、又一列にて候哉と
尋申候へは、侍中物頭も同前に、三寸四方の金の角を向立に仕候、當音家はと被申候故、番方の侍十二組は、一より十二迄の文字に、金
の引兩を付、色はかちんにて候、小姓組六組は左右の文字に、金の引兩同前にて候、立物は銘々物好に仕候、組付は金にて御座候、物頭
はおもひ/\に仕候、只今御咄の三本しなへは忠小姓にさゝせ候と返答致候處に、十郎左衛門被參候へは、源吾右衛門、十郎左衛門に
被申候は、御自分にためし進候、具足の下地縅候時分入念候へは、火を入穴をもみ申候故、ためしかならずもとり申ものにて候間、御舎
兄達へ能く/\御咄置候哉と被申候へは、成程兩人へ能咄置候、定て縅申時分念を入申たると被申候、扨て其後野田祖三郎に、指物の事
を咄申候へは、成程三齋樣御代は、御番方も三本しなへと承り候と被申候、拙者小三郎咄にて■(示偏に土)承候、とかく古きことは可
承置事に候
(52)
一老人衆へ、拙者申候は、各樣御事、國本え申聞悦申越候、私も初若輩の時は、老人は益に立ぬ者と存居申候、最早私も老人に成候故、贔
負(屓か)に存候、旦那親父肥後守(光尚)時代、福島左衛門大夫殿城代仕居申候、上月與右衛門と申者を、五千石にて召抱候砌、肥後
守親(祖)父三齋、八代に居被申候、家老村上河内と申者に、壹万石遣置候、河内申候は、肥後守樣は、此頃高知の者被召抱候と申候へ
は、三齋被申候は、侍に歳か可入哉、今日召抱、今日用に立は侍也、扨々うつけたることを申候とて、以の外呵り被申候由承り候、其時
分の老人とも歡申候て、八代へ向拜み申候と申傳候由を咄候て笑ひ申候、此咄は遠阪關内へ、志水伯耆殿咄被申候由にて候事
(53)
一右の噺を、後に内藤万右衛門母義貞柳忌中見廻に參候て噺申候、拙者十郎左衛門懇意に仕候迚、悅にて候、奥平熊太郎樣御家中、万右衛
門弟十郎左衛門ために兄にて、神谷成右衛門と申仁勤居被申候、右の衆中存寄とて、右のためし具足の下地を形身に給候、志の段不淺、
暫留置候、貴殿へ遣可申と、返禮に刀脇差の内、札有を遣度存居申候處風と心付候は、万右衛門も成右衛門も若き仁にて、いまた妻子も
なき由、後々妻子も出來候上、天下に名を顕し十郎左衛門事に候へは、甥達に譲り可申候儀、當然の理と存、十郎左衛門旦那寺淸休寺に
參候て、右の心付を噺し、十郎左衛門殿事、御新參にて年數も無之に、御代々御重恩の衆中同前に、一列の御志は、別て勝れたる樣に私
は存候、万右衛門殿、成右衛門殿御妻子も出來御成人の後、天下に名を顕候十郎左衛門殿、御具足候へは、御持傳候儀、當然の理と存
候、私へ形見とて被下儀、日本の神、御志不淺忝存候、拙者奉へ召置可然と思召候や、道理二ッの内を尤と被思召候哉、被仰聞候へと
申候へは、住持被申候は、段々被入御念、御志兎角を難申候、行末の事迄、御心被附候事、感入申候と被申候故、右具足、貴僧迄返進可
申候間、貞柳、万右衛門殿、成右衛門殿へ渡被下候へと差返候、二ッ玉にて、一枚宛ためしたる跡有之量目壹貫目餘有之候、淸休寺よ
り、右の趣三人の衆へ被申通候て遣被申候へは、三人衆歡被申候上、感心の由留置被申候、其後貞柳より、泉岳寺へ被申通、十郎左衛門
其夜着用の肌着を乞請、我等心底不淺存候由、是を形見に仕候へとて給候、我等にては扨て/\不淺御志にて候、子孫迄十郎左衛門殿
に、あやからせ可申と一禮を申候、白羽二重に、後に磯貝十郎左衛門正久と、自筆にて書有之候事
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一十郎左衛門書被申物を見申候へは、手跡は夫程に見え不申候、歌抔書被申候假名も、同前に見申候へとも、右之肌着之書付、眞にて書御
座候、見事に見え申候、後に万右衛門咄被申候は、十郎左衛門若年の時分は、亂舞を好、其上器用に有之、鼓太鼓萬事稽古仕候、内匠頭
様召出候而、御嫌にて御座候由にて、透と捨申候、御學問御好にて、色々書物好にて寫、就中しんの物は見事に見え申候、好候へば成事
と存候と、萬右衛門咄被申候、承候而、扨は私見申候眞の見事に御座候、代筆かと存候へは、右之通に而見事に見え申候、後に万右衛門
被申候は、肌着書付申候も、御覧候へ、かなよりも能見え申候由申候事、(本條は異本に據り補ふ)