於・妙解寺、父忠利夫妻廟所(母・保壽院の廟所は忠利廟所に隠れている)と並ぶ光尚廟所(左)
(慶安二年十二月廿六日)暮過龍口邸ニ於テ(光尚公)卒ス歳三十一 光尚為人威厳は父忠利ニモ勝リ當時三徳兼備ノ将ヲ以テ穪セラル 同時ノ大名小名之ヲ慕フ人尠カラス 適曽我丹波宅ニ集會ノ時光尚カ凶音来ル丹波守手ヲ柏テ天下ノ燈消タリト歎息ス 列座ノ内ヨリ天下ノ燈消ヌルトハ餘リノ過譽ニ非スヤト云人アリ丹波守聞テ事ノ様ヲ知ラサレハカク思ハルゝモ理リナリ拙者ハ肥後守膽略ノ程ヲ慥ニ知リタル事有リ去ヌル頃拙者台命ヲ奉シテ日光山ニ赴ケリ其事件一途ニ政道ヲ立ントスレハ後日ニ弊害有ルヘシ サリトテ後害ヲ思ヒ苟旦ニ計ラヒテハ政道立チ難シ如何セント執政ノ人々モ苦慮セラレシ時密ニ酒井讃岐守ニ申談シ光尚カ宅ニ至リ之ヲ謀ル 光尚再三謙遜スル共強テ請ヒケレハサラハ愚存ヲ申述ン定テ僻論タルヘシ 必ス外人ニ洩レ玉フヘカラス 若光尚カ領分ニテサルアラン時ハ先ツ云々措置シ跡云々區處スヘシト對フ其由執政ノ人々ニ語リケレハ皆々上策ナリト感心有リケル故光尚申ス儘ニ執リ行ヒタルニ政道モ立チ害モ無リシナリ 之ヲ以テ思フニ比類無キ大器量ノ人ニアラスヤト語リケルヨシ