津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■漱石忌

2024-12-09 10:58:21 | ご挨拶

 今日12月9日は夏目漱石が亡くなった日である。大正五年(1916)の事だからもう108年経過している。
つい亡くなる前まで、見舞客の声掛けに返事をしていたというから、多くの人たちに看取られての大往生であった。
ディスマスクを見ても穏やかな面立ちにほっとさせられる。
辞世の句でも残されているのかと調べてみても、これがないのが意外に思えた。
生涯最後の句作は、芥川龍之介に宛てた手紙の中にある
                                   秋立や 一巻の書の読み残し    だそうな。

死の三が月ほど前の9月2日、芥川の作品「芋粥」に対する感想を記したものだそうだが、なんだか死を予感しているようにさえ思える。
その約3ヶ月ほどの間に句作がないというのも不思議に思えるが・・・
いつの日か、その間の句が出てきたなどというビッグニュースに遭遇したいものである。

          うつしゑのうすきあばたや漱石忌   日野草城

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■堀内傳右衛門「旦夕覺書」による、忠利の熊本入城

2024-12-09 07:11:39 | ご挨拶
堀内傳右衛門の「旦夕覺書‐花(の巻)」に、忠利公熊本初入城の事が記されている。

   将軍家光公御代寛永九壬申十月廿八日肥後國忠利公へ賜る 御年四十七 
   同十二月九日豊前小倉御發駕 同十三日熊(ママ)へ御入城 御先鐡炮頭井門亀右衛門寺尾左助
   切火縄にて大手へ御着の時亀右衛門差圖にて鐡炮打放し申候大手御門けはなしを御頂き被遊候

傳右衛門は何故か小倉發駕を九日(実6日)、熊本入城を十三日(実9日)と書いているが、何故このような間違いをしたのか、私も最近大いに間違いを犯しているからあまり厳しく追及することは避けたい。

 先の「忠利譜」では、「九日夜深ク山鹿ヲ立ツ 城番ノ面々ハ前以テ追手ノ門外ニ出迎フ 忠利下乗シ此所ニテ城受渡シノ挨拶等相済先ノ足軽頭下知シテ火縄ノ火ヲ消サシメ大手ニ進入ル時忠利門ノ蹴放ヲ戴ク 是頂戴ノ義ナリ 夫ヨリ入城祝ヒノ規式厳重ニテ(石川)主殿頭ヲ初メ城番ノ面々ニ腰物時服等引出物有リ 孰レモ即日出立セリ 同日八代城ハ有吉頼母佐・小笠原備前・志水伯耆ヲ以テ受取セ相済城内道具ノ帳等モ受取リヌ」とある。

「夜深ク」の山鹿出立というから、日の出前に山鹿を立っていることが判る。山鹿‐熊本間は約30㌔だとされる。
参勤が約40㌔を8時間ほどで歩いているから、5~6時間で熊本入りしたとすると、お昼頃には入城したのだろうか?
忠利譜も旦夕覺書も「蹴放し」を「戴く」とか「頂く」とか形容しているが、大手門での具体的な所作は判らないが、何れにしても万感の敬意を払い入城されたことは間違いない。
細川護貞さまの御著などでは、忠利は「行列の先頭に、(加藤)清正公の霊脾をかかげ」て熊本に入ったとされる。

そして登城されると、はるか本妙寺を望み加藤清正公の廟所に対して、「いまからあなたのお城をあずからせていただきます」と言ったとされる。
司馬遼太郎はその行為に対し、「おそらく肥後の人心を、春の海のように凪がせたばずである」と記している。(春灯雑記)
いささか、演出気味のような気もするが、肥後モッコスの熊本人の気質をよく心得ての行動であったともいえる。
細川忠利公肥後入城のその日寛永九年十二月九日の情景である。
あと8年後、忠利公肥後入部400年を迎える。

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