津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本史談会・12月例会ご案内

2024-12-14 08:08:45 | ご挨拶
             熊本史談会・12月例会ご案内

           熊日写真ライブラリーから引用させていただきました
                                                                        記

期日:令和6年12月21日(第三・土曜日)午前9時15分~11時45分(当会の例会・自由懇談会を含みます)
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
講題:「通称江津・斎藤橋について・・真実と誤解」
講演:斎藤家ご親族 廣野 テイ子樣 
     (尚ご講演はご都合により9時30分開始といたします)
 *講演終了後は「今後の熊本史談会について」自由懇談会と致します。色々ご意見を頂きたく存じます。

一般参加自由:
    連絡不要、但し当日参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    お問い合わせ 090-9494‐3190
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■謎解き・伝説ミステリー

2024-12-12 08:32:29 | ご挨拶

 今晩放送の「謎解き・伝説ミステリー」は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りを前にして「新説:忠臣蔵に隠された7つの謎がわかる神社仏閣2時間SP」が放送される。
今朝の情報番組を見ていたらその予告が為されていたが、有名な声優の羽佐間道夫氏が登場されていたが、この方、なんと間十次郎のご子孫だという。
「間」が「羽佐間」と姓が変わっているが・・・・
道夫氏は、外国映画の吹き替えなどでその名は良く知られている。予告画面でも91歳ながら御元気なご様子がうかがえた。
だとすると、ご兄弟にNHKの名スポーツアナウンサー・羽佐間正雄さんがおられるはずだと思いググってみると間違いなく、そのプロフィールにはちゃんと「赤穂浪士 間十次郎光興、直系の子孫で、高輪泉岳寺の石柱には羽佐間正雄の名も記されている。」と記されていた。
正雄氏が1931年生まれ、道夫氏が1933年生まれだそうだが、お父さんが三池炭鉱にお勤めであったらしく正雄氏は大牟田、道夫氏は熊本県荒尾市生まれだと伝えられている。

 間十次郎は吉良上野介に一番槍を遂げた人物だが、先にご紹介した堀内傳右衛門覺書を読むと、傳右衛門が一番親しかったのはその間十次郎ではなかったかと思わせる。
19時から2時間の長丁場だが、見てみようかと思っている。

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■メルカリで

2024-12-11 07:05:58 | 書籍・読書

 過日、縁戚のK様から私家版・大森宏著「戦国の若狭-人と城-」の、第五章・第五節「熊川城と沼田氏」のコピーをお送り頂いた。
ここに沼田氏と松宮氏の関係が触れられていて、大変興味深い論考であった。
そうなるとこの本を手元に置きたいと思って調べてみると、ヤフーオークションでは、15,000円というとんでもない値段で出品されている。これには驚いて「日本の古本屋」を探してみると、3点あって3,000~5,500円とある。
いささか躊躇していたのだが、普通に検索してみたらメルカリで1,500円とあったからこれはありがたい。即購入することにした。
お陰でヤフオクの1/10の値段で購入できた。

                  

 若狭といえば、いわゆる若狭武田氏の御家来であった方々が多く細川家の家臣となられている。
細川幽齋の妹(三淵氏)・宮川尼が武田宮内少輔信高室であったことに関係しているのだろう。
我がサイトでは
細川家中の若狭衆という項を立てて特にご紹介している。そんな、若狭武田家などの情報も得られるのではないかと楽しみにしている。
メルカリで本を購入するという選択肢が一つ増えた。

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■ゴマ塩を買いに行かねば・・・

2024-12-10 11:45:20 | ご挨拶

 毎月朔日に赤飯を炊くのが妻の習わしであった。と云ってもこれは我が家の習慣ではなく母が亡くなった後からの事である。
いわゆる商家の「おついたち」にあたるのだろうが、妻の実家(岳父はサラリーマン・本家は農家だが)での習わしであったようだ。
退院後初めて八日の夕方に(朔日ではなく)赤飯を炊いた。何を間違ったか、五合も炊いてしまった。
「何でこんなに沢山炊いた」のかを聞くが「良くわからない」と首をひねっている。高次脳機能障害に関わっているのだろう。

結果、これを消費するのが大変である。今日で四日、都合四食ほど立て続けに食べている。妻と二人一杯ずつのことだから全く減らない。
先の大腸の内視鏡検査の折、体重を計った処66.5㌔まで落ちていたが、結果が良好だと聞いた途端食欲も戻り体重も戻りつつある。
なんとか70㌔を越えない処でとどめたいと思っているが、「赤飯を数日食べ続けて太りました」では話にならない。

おかげで「ゴマ塩」が無くなりかけている。

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■茶臼山と熊本城

2024-12-10 07:28:57 | ご挨拶

 このところ行方知れずで探し回っていた「熊本城の石垣勾配」という、1984年の日本工業大学研究報告書十四(2)別刷風に綴じた冊子が顔を出した。
堅紙で表紙・裏表紙を付け和綴じにしてあるものだが、随分以前ヤフオクで手に入れたものである。
これは少々マニアックなもので、これを所持しておられる方は大学関係者以外にはあまり居られないのではないかと思っている。
大変貴重な報告書だが「日本の古本屋」でも現在では入手困難のようである。
城内25ヶ所の高石垣の勾配を、石垣上部と下部を糸(?)でむずび、上部から1m毎に糸から石垣面までの距離を測るという方法で、この「石垣勾配」は計測された。
石垣面に測量する目標点をつけた橇を下し、タキオメーター、セオドライトといった機械で仰角を求めるという手法である。
この手法により、見事な熊本城の「武者返し」が科学的手法により記録にとどめられた。

 この15日に熊本城復旧シンポジウム「熊本城と地形・地質」が開催されるが、妻も随分元気になり、一人留守番も可能になってきたから、是非出席しようと意気込んでいる。

 私の興味は、茶臼山がどのように削られて熊本城の城地に変貌したのかという疑問である。
この冊子の中に次のような図がある。

     

 ここにある、地質調査の状況を見ると大方の地盤の状況が見えて興味深い。
谷川健一編「加藤清正・築城と治水」にある、金田精一氏の「熊本城跡本丸御殿の発掘調査」の中の「茶臼山は今程高くなかった」という項を読むと、粗方の結論を知ることができるようだが、15日のシンポにはこの「熊本城石垣勾配」の冊子を携えて出かけようと思っている。

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■漱石忌

2024-12-09 10:58:21 | ご挨拶

 今日12月9日は夏目漱石が亡くなった日である。大正五年(1916)の事だからもう108年経過している。
つい亡くなる前まで、見舞客の声掛けに返事をしていたというから、多くの人たちに看取られての大往生であった。
ディスマスクを見ても穏やかな面立ちにほっとさせられる。
辞世の句でも残されているのかと調べてみても、これがないのが意外に思えた。
生涯最後の句作は、芥川龍之介に宛てた手紙の中にある
                                   秋立や 一巻の書の読み残し    だそうな。

死の三が月ほど前の9月2日、芥川の作品「芋粥」に対する感想を記したものだそうだが、なんだか死を予感しているようにさえ思える。
その約3ヶ月ほどの間に句作がないというのも不思議に思えるが・・・
いつの日か、その間の句が出てきたなどというビッグニュースに遭遇したいものである。

          うつしゑのうすきあばたや漱石忌   日野草城

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■堀内傳右衛門「旦夕覺書」による、忠利の熊本入城

2024-12-09 07:11:39 | ご挨拶
堀内傳右衛門の「旦夕覺書‐花(の巻)」に、忠利公熊本初入城の事が記されている。

   将軍家光公御代寛永九壬申十月廿八日肥後國忠利公へ賜る 御年四十七 
   同十二月九日豊前小倉御發駕 同十三日熊(ママ)へ御入城 御先鐡炮頭井門亀右衛門寺尾左助
   切火縄にて大手へ御着の時亀右衛門差圖にて鐡炮打放し申候大手御門けはなしを御頂き被遊候

傳右衛門は何故か小倉發駕を九日(実6日)、熊本入城を十三日(実9日)と書いているが、何故このような間違いをしたのか、私も最近大いに間違いを犯しているからあまり厳しく追及することは避けたい。

 先の「忠利譜」では、「九日夜深ク山鹿ヲ立ツ 城番ノ面々ハ前以テ追手ノ門外ニ出迎フ 忠利下乗シ此所ニテ城受渡シノ挨拶等相済先ノ足軽頭下知シテ火縄ノ火ヲ消サシメ大手ニ進入ル時忠利門ノ蹴放ヲ戴ク 是頂戴ノ義ナリ 夫ヨリ入城祝ヒノ規式厳重ニテ(石川)主殿頭ヲ初メ城番ノ面々ニ腰物時服等引出物有リ 孰レモ即日出立セリ 同日八代城ハ有吉頼母佐・小笠原備前・志水伯耆ヲ以テ受取セ相済城内道具ノ帳等モ受取リヌ」とある。

「夜深ク」の山鹿出立というから、日の出前に山鹿を立っていることが判る。山鹿‐熊本間は約30㌔だとされる。
参勤が約40㌔を8時間ほどで歩いているから、5~6時間で熊本入りしたとすると、お昼頃には入城したのだろうか?
忠利譜も旦夕覺書も「蹴放し」を「戴く」とか「頂く」とか形容しているが、大手門での具体的な所作は判らないが、何れにしても万感の敬意を払い入城されたことは間違いない。
細川護貞さまの御著などでは、忠利は「行列の先頭に、(加藤)清正公の霊脾をかかげ」て熊本に入ったとされる。

そして登城されると、はるか本妙寺を望み加藤清正公の廟所に対して、「いまからあなたのお城をあずからせていただきます」と言ったとされる。
司馬遼太郎はその行為に対し、「おそらく肥後の人心を、春の海のように凪がせたばずである」と記している。(春灯雑記)
いささか、演出気味のような気もするが、肥後モッコスの熊本人の気質をよく心得ての行動であったともいえる。
細川忠利公肥後入城のその日寛永九年十二月九日の情景である。
あと8年後、忠利公肥後入部400年を迎える。

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■「細川家・白金邸のこと」についてのお詫びと訂正

2024-12-08 14:07:22 | ご挨拶

 過日細川家・白金邸のことを書いたが、悪友からクレームが来た。
その記事の頭書に「 WEBで紹介されている「大江戸切絵図・芝高輪編(位置合わせ図)」をみると、細川家の白金邸は旧・東海道「二本榎木丁通り」に面していることが判る。
それは、文字の書き込みの向きが表している。(縦書き文字の頭部分が正面を示す。)
ところが厄介なことに、永青文庫に残る「白金邸」の図面を見ると、方位(右下表示)が記されているがこれだと入り口は北向きになっているから、これだと説明がつかなくなってしまう。」と書いたが、「随分以前、お前書いた文章と全く違う」との指摘である。
随分以前の文章とは「高輪皇族邸」は旧・細川家下屋敷」のことで、82歳爺はこの文章をUPしていたことをすっかり忘れていたし、白金邸の玄関が「二本榎木丁通り」に面しているという文言を取り消さなければならない。
そこで「細川家・白金邸のこと」においての頭書を修正し、朱書きで説明文を入れさせていただくことにした。
この記事に於ける主目的は、赤穂義士の切腹の場所に至る道筋の説明であったのだが、往時の白金邸玄関の位置について、「大ぼけ老人のたわごと」となってしまったことを、大いに反省してお詫び申し上げる。
そしていつも厳しい指摘をしてくれる悪友に感謝をしたい。

 

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■珍料理

2024-12-08 10:09:08 | ご挨拶

 妻が退院してそろそろ20日になる。身体的不自由はないが、数百メートルほどの距離のスーパーへ買い物に出かけると、荷物は持たないのに途中からへばってしまい、帰るとベッドに座り込んでしまうといった現況である。
以前は毎日のように外出していたが、打って変わって今は自分から外に出ようとはしない。
散歩に引っぱり出そうとするが乗ってこない。今しばらく様子を見なければならないようだ。
今一つの変化は、しょっちゅう覗いては通販を申し込んでいた愛用のアイパッドに一切触れなくなったことだ。これがよく理解できない。
その通販のおかげでこれまでは、全国各地の珍しい食べ物にありついていたが、今後しばらくは沙汰止みとなる事だろう。
そんなものが、ストッカーの中に冷凍状態で消費されないまま残っているが、それが珍料理となって出てきて驚かされる。
先日、スープだといって、これが温められて夕食のテーブルに出てきた。
なにか違うな―と思ってあとで調べてみると、有名シェフ監修の「パスタ」のソースだった。
そのことを話すと「フーン」と首を傾げ、どうやら「パスタ」がよく理解できていないようだ。

「野菜炒め」に全く味がついていなかったり、娘が持ってきてくれた「苺大福」をオーブンで「焼き大福」にしたりと珍事が起こっている。朝から菓子パンをこんがり焼いて出してくれる。御昼も全く同じ状態が繰り返される。
退院時担当のDrから、大声を上げたり叱ったりは絶対しないようにとの指導があったが、それは百も承知しているから、笑いをこらえながら楽しんでいる。

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■細川忠利、小倉出立と肥後入国

2024-12-06 07:15:22 | ご挨拶

十二月六日と云えば、肥後国を拝領した忠利が、豊前国小倉を離れて肥後へ向け出発した日である。
細川忠利譜は次のように記している。

(寛永九年=1632)
十二月六日小倉ヲ發ス 僅カニ三十年ノ所領ナリシニ父母ヲ慕フ如ク遠ク駕ヲ送リテ哭キ叫フ者モ多カリシ 

七日(米田)監物は先キ二發して熊本着翌日登城石川主殿頭へ謁シ要害ノ錠鍵等大番所二テ受取其夜ハ大番所ヲ堅メ其外處々番所ハ物頭足軽ヲ率ヒ警固ス 
八日小倉ニハ小笠原右近大夫着ニ付(松井)佐渡ヨリ城ヲ引渡シ諸事無滞相済 城米一萬千四百八拾七石八斗餘引譲ル
九日
夜深ク山鹿ヲ立ツ 城番ノ面々ハ前以テ追手ノ門外ニ出迎フ 忠利下乗シ此所ニテ城受渡シノ挨拶等相済先ノ足軽頭下知シテ火縄ノ火ヲ消サシメ大手ニ進入ル時忠利門ノ蹴放ヲ戴ク 是頂戴ノ義ナリ 夫ヨリ入城祝ヒノ規式厳重ニテ主殿頭ヲ初メ城番ノ面々ニ腰物時服等引出物有リ 孰レモ即日出立セリ 同日八代城ハ有吉頼母佐・小笠原備前・志水伯耆ヲ以テ受取セ相済城内道具ノ帳等モ受取リヌ 
十八日熊本城本丸二於テ家中ノ面々禄千石已上ハ太刀折紙其以下ハ銭百疋宛ニテ一禮ヲ述フ 何レモヘ盃ヲ與フ 其後國中諸寺諸山ノ僧侶諸社ノ神職市中農家ノ長マテモ拝禮ニ出ル 
十六日三齋鶴崎ヲ發シ廿日熊本城ニ至ル 忠利途中マテ出迎ヒ本丸ニテ饗應シ左文字ノ腰物ヲ呈セリ 八ツ時分三齋出立忠利川尻マテ之ヲ送ル 
廿二日三齋八代着 廿五日辰刻入城規式有リ忠利入國後翌正月マテハ先代ノ通心得へキ旨申付タリ

 

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■坂本龍馬殺害犯を知っていた高祖父・上田久兵衛のこと

2024-12-04 07:29:06 | 人物

 久々、高祖父・上田久兵衛のことに触れるが、久兵衛は一時期、京都留守居役として幕末の京都で活躍をした。
西南戦争の際には、西郷隆盛との関係が疑われて、熊本隊の池邉吉十郎と共に斬首の刑に会った。

昭和3年発刊の「肥後藩士・上田久兵衛先生略傳幷年譜 全」(熊本地歴研究會・鈴木 登編)に次のような記録がある。
慶応3年12月4日の日録「東大史料編纂所収蔵資料(コマ番号78参照)」

      土州嘗て上田に国事を託す
      「夜有中山書報儲駕登上京之儀、及坂下(本)龍馬逢暗殺、後藤象二郎走免之事、
       葢刺龍馬者土州人也、余於是疑念氷散、抑余之在京之日、容堂公窃令其大夫森下又平、
       託余以其國事、其議論吻合、今日土州之論 與前日相鉾楯、初知皆此輩之要之者也」

竜馬殺害の犯人は「土州人也」としている。
「久兵衛は竜馬殺害の犯人を知っているのではないか」という疑いをもって、斬首されたのではないかという穿った見方がある。
明治10年9月29日、久兵衛は無念の内にこの世を去ったが、久兵衛が知りうる竜馬殺害についての事柄は、永遠の謎となった。

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■津軽承昭宛細川刑部家・興増書簡尊稿

2024-12-03 09:01:47 | オークション

                                                   

 細川刑部家・嫡家11代興増(おきなが)が、細川宗家14代・護久の弟、津軽藩主・津軽承昭に宛てた書状である。
だとすると、この手紙に添えられた封筒は「何なの」という疑問が沸く。実はこのオークションでは、熊本市長・高橋守雄が細川興増に宛てた書状も一緒に出品されており、そちらの封筒が紛れ込んでいることが判る。
いずれにしても、細川興増に係る書簡だが、私は津軽承昭にあてたこの書状に興味を持った。
三角でとれた鯛を贈った処、早速御賞味いただいた上、「駱駝(らくだ)の襟巻や御羽織、御菓子」などを贈られ、かえって恐縮している様子が伺える。
血のつながりからすると、両家は細川忠興迄遡らなければならないように思えるが、細川宗家・宇土細川家・内膳家・刑部家の絆は連綿と途切れることはなかった。

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■今年の最後に

2024-12-02 08:07:59 | 講演会

          2024年度復旧シンポジウム

 11月は熊大図書館や永青文庫研究センターの催し物、その他、いくつも出かけたいシンポなどがあったが、妻の入退院騒ぎですべて欠席することに成り、少々寂しい思いで過ごしたところだ。
今月15日に行われるこの講演会には是が非でも出席しようと思っている。
        ・「熊本城周辺の地質について」 南部靖幸(熊本博物館)
        ・「阿蘇火山と火砕流」     星住英夫(産総研地質調査センター)
        ・「熊本城公園に推定される立田山断層の調査」 大上隆史( 同上 )
        ・「調査結果からみる熊本城の成り立ち」 嘉村哲也(熊本城調査研究センター)
以上の諸氏の講演だが、どれも大いに興味がある。満を持している。

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■【真筆】細川綱利書状 1通 肥後国 熊本藩 大名 光雲寺宛 肉筆 書簡

2024-12-01 08:18:04 | オークション

                           【真筆】細川綱利書状 1通 肥後国 熊本藩 大名 光雲寺宛 肉筆 書簡

   

まずは書状宛名の光雲寺とはどちらの御寺だろうか。臨済宗大本山南禅寺の境外塔頭とされる、「霊芝山光雲寺」のことだと察せられる。
文中に「女院御所」とあるが、上記光雲院は後水尾帝皇后の東福門院(徳川和子)の墓所がある御寺として知られている。
その光雲寺と綱利の間にどのようなかかわりがあるのか、今日は一日謎解きに読み下しにチャレンジしてみたい。
多くの方が応札しておられまだまだ安値のようだが、あと数日を遺しているからこれは落札迄さらに高値に動きそうな気配である。
謎の多い文書だからの事でもあろうか・・・。

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