細川忠興公譜は忠興の肥後入国について簡単に次のように触れている。
一、同年(寛永九年)十月御暇被仰出 十一月十四日仲津御着 同月廿六日仲津御発駕
十二月廿日肥後國熊本御城江御入 同廿二日八代御城江御入 御請御城入ハ廿五日
誠にあわただしい様子がうかがえる。
この年三斎は御年70歳、中津-鶴崎間は約90㌔弱、鶴崎から熊本までは125㌔ほどだが、ゆったりとした旅である。
12月6日に小倉を離れ、9日には熊本城に入場した息・忠利は、16日に鶴崎を発した三斎を途中まで出迎えている。
「十六日三齋鶴崎ヲ發シ廿日熊本城ニ至ル 忠利途中マテ出迎ヒ本丸ニテ饗應シ左文字ノ腰物ヲ呈セリ 八ツ時分三齋出立忠利川尻マテ之ヲ送ル 廿二日三齋八代着 廿五日辰刻入城規式有リ忠利入國後翌正月マテハ先代ノ通心得へキ旨申付タリ」と忠利譜は記す。
「八ツ時分(pm1~3)三齋出立」とあるから、本当にわずかな時間を熊本城内で過ごしているが、城内中庭に「桧垣の塔」があることを見とがめて、加藤忠廣の行いを「気違一つのうちたるべし」として、津川四郎右衛門にこれを蓮台寺へ返す事を指示している。
■四郎右衛門・道孝・竺印・中庵宛三斎書状
文人三斎の面目躍如たる一面である。
「熊本城内図」にそれらしい書き込みがある。かって「■松之御間と檜垣之塔?」でご紹介したが、私の独りよがりかもしれないが・・・
雨の一日だったらしく、三齋は川尻のお茶屋に宿をとり、翌々日に八代入りを果たした。