毎月朔日に赤飯を炊くのが妻の習わしであった。と云ってもこれは我が家の習慣ではなく母が亡くなった後からの事である。
いわゆる商家の「おついたち」にあたるのだろうが、妻の実家(岳父はサラリーマン・本家は農家だが)での習わしであったようだ。
退院後初めて八日の夕方に(朔日ではなく)赤飯を炊いた。何を間違ったか、五合も炊いてしまった。
「何でこんなに沢山炊いた」のかを聞くが「良くわからない」と首をひねっている。高次脳機能障害に関わっているのだろう。
結果、これを消費するのが大変である。今日で四日、都合四食ほど立て続けに食べている。妻と二人一杯ずつのことだから全く減らない。
先の大腸の内視鏡検査の折、体重を計った処66.5㌔まで落ちていたが、結果が良好だと聞いた途端食欲も戻り体重も戻りつつある。
なんとか70㌔を越えない処でとどめたいと思っているが、「赤飯を数日食べ続けて太りました」では話にならない。
おかげで「ゴマ塩」が無くなりかけている。
このところ行方知れずで探し回っていた「熊本城の石垣勾配」という、1984年の日本工業大学研究報告書十四(2)別刷風に綴じた冊子が顔を出した。
堅紙で表紙・裏表紙を付け和綴じにしてあるものだが、随分以前ヤフオクで手に入れたものである。
これは少々マニアックなもので、これを所持しておられる方は大学関係者以外にはあまり居られないのではないかと思っている。
大変貴重な報告書だが「日本の古本屋」でも現在では入手困難のようである。
城内25ヶ所の高石垣の勾配を、石垣上部と下部を糸(?)でむずび、上部から1m毎に糸から石垣面までの距離を測るという方法で、この「石垣勾配」は計測された。
石垣面に測量する目標点をつけた橇を下し、タキオメーター、セオドライトといった機械で仰角を求めるという手法である。
この手法により、見事な熊本城の「武者返し」が科学的手法により記録にとどめられた。
この15日に熊本城復旧シンポジウム「熊本城と地形・地質」が開催されるが、妻も随分元気になり、一人留守番も可能になってきたから、是非出席しようと意気込んでいる。
私の興味は、茶臼山がどのように削られて熊本城の城地に変貌したのかという疑問である。
この冊子の中に次のような図がある。
ここにある、地質調査の状況を見ると大方の地盤の状況が見えて興味深い。
谷川健一編「加藤清正・築城と治水」にある、金田精一氏の「熊本城跡本丸御殿の発掘調査」の中の「茶臼山は今程高くなかった」という項を読むと、粗方の結論を知ることができるようだが、15日のシンポにはこの「熊本城石垣勾配」の冊子を携えて出かけようと思っている。