十二月六日と云えば、肥後国を拝領した忠利が、豊前国小倉を離れて肥後へ向け出発した日である。
細川忠利譜は次のように記している。
(寛永九年=1632)
十二月六日小倉ヲ發ス 僅カニ三十年ノ所領ナリシニ父母ヲ慕フ如ク遠ク駕ヲ送リテ哭キ叫フ者モ多カリシ
七日(米田)監物は先キ二發して熊本着翌日登城石川主殿頭へ謁シ要害ノ錠鍵等大番所二テ受取其夜ハ大番所ヲ堅メ其外處々番所ハ物頭足軽ヲ率ヒ警固ス
八日小倉ニハ小笠原右近大夫着ニ付(松井)佐渡ヨリ城ヲ引渡シ諸事無滞相済 城米一萬千四百八拾七石八斗餘引譲ル
九日夜深ク山鹿ヲ立ツ 城番ノ面々ハ前以テ追手ノ門外ニ出迎フ 忠利下乗シ此所ニテ城受渡シノ挨拶等相済先ノ足軽頭下知シテ火縄ノ火ヲ消サシメ大手ニ進入ル時忠利門ノ蹴放ヲ戴ク 是頂戴ノ義ナリ 夫ヨリ入城祝ヒノ規式厳重ニテ主殿頭ヲ初メ城番ノ面々ニ腰物時服等引出物有リ 孰レモ即日出立セリ 同日八代城ハ有吉頼母佐・小笠原備前・志水伯耆ヲ以テ受取セ相済城内道具ノ帳等モ受取リヌ
十八日熊本城本丸二於テ家中ノ面々禄千石已上ハ太刀折紙其以下ハ銭百疋宛ニテ一禮ヲ述フ 何レモヘ盃ヲ與フ 其後國中諸寺諸山ノ僧侶諸社ノ神職市中農家ノ長マテモ拝禮ニ出ル
十六日三齋鶴崎ヲ發シ廿日熊本城ニ至ル 忠利途中マテ出迎ヒ本丸ニテ饗應シ左文字ノ腰物ヲ呈セリ 八ツ時分三齋出立忠利川尻マテ之ヲ送ル
廿二日三齋八代着 廿五日辰刻入城規式有リ忠利入國後翌正月マテハ先代ノ通心得へキ旨申付タリ