21日の史談会の席上、「古文書をたのしもう」講座を受け持っている私は、文久四年(元治元年)の転び切支丹大友氏の末裔・松野又右衛門の切支丹宗門改めに関する「誓文」を解説ご紹介した。
文久・元治・慶応・明治と時代は急変し、この誓文から九年ののちには、キリスト教は正式に認知されたのだが、そのような経過と転び切支丹で大友一族の末裔である松野氏四家が長く監視(?)の元にあったことを物語る、私が所蔵する文書をお示ししてご説明した。
さて、今日十二月廿三日はガラシャに殉死した小笠原少斎の子・小笠原玄也と、その妻(加々山隼水正の娘=みや)と子供、そしてその奉公人等15人の「転ばぬ」切支丹信徒が誅伐された日である。
堅い信教心は、藩主忠利らの強い説得にもかかわらず、従容として天に召された。まさに殉教である。
時を同じくして、志賀左門・小宰相と言った人も殉教した。かって触れたことがあるが、後者の小宰相については確かな情報がない。
すぎる慶長九年忠興の二男・興秋が、忠興の命により江戸證人に指名された。
忠興は、興秋の側に在った長岡肥後(飯河宗信)らに、早々の出立を命じたが興秋はこれに抵抗してなかなか豊前を離れることがなかった。
その時、興秋を説得した女性がありこの人物が「小宰相」と名乗っている。
興秋は小宰相の説得に心を開き、豊前を出立することになる。
申立てう/\の事
一こんと、たゝおきさま御まへあしくつかまりなし、めいわくいたし候ところに、御きもいりなされ、
御すまし、かたしけなくそんし候、
一さきにてのやうたい、せいしあんもんくたされ候、そのことくとゝのへしん上申候事、
一此うへ御うけに御たちなされ候てくたされ、かたしけなくそんし、すこしもちかへ申ましき事、
一人しちにおちをしん上候まゝ、すこしもちかへふしよそんをかまへ申候ハゝ、おちを御せいはいな
さるへき事
一そはにめしつかい候もの共のさいし、人しちにあけ候へく候まゝ、かのもの共ちかい候事御入候ハゝ、
これ又御せいはいなさるへく候、其ため申上候へく候、
此よし御ひろうあるへく候、以上、
慶長九ねん 与五良
十一月十六日 たゝ以(花押) 興秋はこの時期与五郎忠以と名乗っている
小さい将殿
御中
小宰相が忠興の命を受けて、出立の説得をしたのであろうが、この文章を見る限り後に京都に於いてこれに背き出奔したことは驚きであり、忠興にとっては驚愕の一事であった。
随伴した長岡肥後にも伝えられずの事であり、肥後はむなしく帰国した。
そして、慶長十一年七月廿七日、肥後は父・飯河宗祐とともに誅伐されたのである。
そんな小宰相が忠利の肥後入りにも随伴して入国したと思われ、三年後寛永十二年十二月廿三日、小笠原一族や志賀左門らとともに誅伐された。
小笠原一族の墓地は花岡山に残されているが、志賀左門、そしてこの小宰相の墓地はようとして知れない。
歴史の恐ろしさは、このような悲劇を跡形もなく消し去ってしまう。何とか語り伝える努力が必要だと感じている。