Sightsong

自縄自縛日記

金時鐘『境界の詩 猪飼野詩集/光州詩片』

2012-10-02 23:37:00 | 韓国・朝鮮

金時鐘『境界の詩 猪飼野詩集/光州詩片』(藤原書店、2005年)を読む。1978年に出版された「猪飼野詩集」と、1983年に出版された「光州詩片」に、若干の文章や対談を追加したものとなっている。

詩人は、済州島四・三事件(1948年)に関わり、殺されることなく、翌年密航し、大阪の猪飼野(今の鶴橋界隈)に辿りつく。済州島出身者が多い地域であった。そこでの想いを詩として昇華した作品が「猪飼野詩集」ということになる。

これは凄まじい。人の感情として定型を持つ抒情に堕すことなく、知的な言葉遊びにも堕すことなく、ただ、猪飼野で生きていくという事実が言葉として凝縮されている。それを辿っていくこちらは、鈍器のようなもの、鉛のようなもので、打たれ続ける。

鶴見俊輔との対談で、詩人は、こう言う。自分たちそのものである言葉を希求する仲間に、もっと解りやすい言葉で書いて欲しいと言われるのが辛い。しかし、このオッチャンたちの希望に沿うことはまずあり得ない。自分は、オッチャンたちの「やるかたない情感的な要求にむしろ心して隔たっていなくてはならない」。最も近しい関係であるほど、切れていなければならない。それを見定めるのが自分の詩である―――と。鶴見俊輔の言う、「型どおりの抒情に屈する」わけにはいかない、というのである。いや驚いてしまう、何という凄絶な覚悟だろうか。

ここには、生き延びていくため、今日と同じ明日が続くことや、どんどん作りだす靴の箱や部屋といった矩形によって精神が追い詰められていくことが、吐きそうなほどドライにうたわれている。しかし、詩人は馴れ合いも麻痺も拒絶する。想いは、生命と、帝国への怒りに向けられる。30年以上経ってなお衝撃的な、この言葉の集合体である。

光州詩片」は、光州事件(1980年)ののちに書かれている。民主化を求める市民たちを、発足間もない全斗煥政権が虐殺した事件である。それはあり得ないほどの絶望であっただろう。それでも詩人は、歯を剥き出しにして、言葉を凝縮した。

わたしたちはここまでの絶望と、そこからの無謀とも思える希望を、震える手で、持ち続けたことがあったのだろうか?

「さかしい自足にからまれて去った
今日でない今日の昨日を見据えなさい。
それがあなたのかかえる闇です。
見据えなさい。見据えなさい。またも変る年のまえに。」

(「日々よ、愛うすきそこひの闇よ」)

●参照
藤田綾子『大阪「鶴橋」物語』
金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って』(鶴橋のコリアンタウン形成史)
林海象『大阪ラブ&ソウル』(済州島をルーツとする鶴橋の男の物語)
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
鶴橋でホルモン
川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』(金大中事件、光州事件)
四方田犬彦『ソウルの風景』
(光州事件)

●在日コリアン文学
金石範『新編「在日」の思想』
金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」
金達寿『玄界灘』
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
李恢成『伽�塩子のために』
李恢成『流域へ』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
梁石日『魂の流れゆく果て』
青空文庫の金史良


デレク・ベイリー『New Sights, Old Sounds』、『Aida』

2012-10-02 00:58:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

発掘盤として突然登場した、デレク・ベイリー『New Sights, Old Sounds』(Incus、1978年)。2枚組であり、1枚目は東京でのスタジオ録音、2枚目は名古屋と町田でのライヴ録音。

Derek Bailey (g)

この人の演奏は書き言葉での説明を拒否するようなところがある。その一方で、ギターでの即興言語のみによって、この人が作りだす宇宙空間に、いつまでもオリジナルなまま存在している。やはり、デレク・ベイリーは埴谷雄高である。他人には真似しえない独自言語は、無限の想像の種となる。

東京での録音を聴いていて、いままで聴いたベイリーと違う印象を覚えた。金属音を無音空間に響かせているような音の作り方だ。

名古屋でのライヴでは、さらに別のイディオムを披露する。そしてハウリングの中での即興演奏は、まるで宇宙空間における生命の誕生のようでもある。改めて、怖ろしい存在だったのだと思う。

この時代のソロ演奏では、『Aida』(Incus、1980年)をよく聴いた。タイトル通り、間章に捧げた盤であり、「Niigata Snow」という演奏も収録されていることから、つい今の今まで、日本でのライヴだと思い込んでいた。実際には、パリとロンドンにおける演奏だった。

Derek Bailey (g)

ここでは、『New Sights, Old Sounds』とは随分異なり(いや、それが『Aida』とは異なっている)、構成要素たる音を積みかさねて、デレク・ベイリーというひとつのジャンルを提示しているようだ。どちらの演奏も素晴らしく、何度聴いても飽きないのだが、いまは、『New Sights, Old Sounds』のスリリングさに魅かれる。

『New Sights, Old Sounds』では、名古屋での演奏中、ギターのピックが落ちたとおぼしき音と、拾った観客に礼を言う声が記録されている。『Aida』では、誰かの腕時計ででもあろうか、アラーム音で演奏が一時中断し、すぐに意に介さぬように再開し、ほどなく終了する。観客の笑い声から言って、ベイリーが何かユーモラスな仕草を示したのだろう。

宇宙空間だからといって、抽象を駆使する演奏ではなく、あくまで人間の行為としての演奏だったと言えるに違いない。本当に、ライヴに接することができなかったのが悔しくてならない。

●参照
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』
ウィレム・ブロイカーが亡くなったので、デレク・ベイリー『Playing for Friends on 5th Street』を観る
デレク・ベイリーvs.サンプリング音源
田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』
トニー・ウィリアムス+デレク・ベイリー+ビル・ラズウェル『アルカーナ』
デレク・ベイリー『Standards』
1988年、ベルリンのセシル・テイラー(ベイリー参加)