Sightsong

自縄自縛日記

マルティン・ハイデッガー他『30年代の危機と哲学』

2012-10-15 23:42:43 | 思想・文学

マルティン・ハイデッガー他『30年代の危機と哲学』(平凡社、1999年)を読む。

エドムント・フッサール、マルティン・ハイデッガー、マックス・ホルクハイマーが、1930年代に記した考えである。

近代の象徴としての世界大戦は、やはり近代の科学に支えられ、また逆に科学を育てていた。1929年からの大恐慌は、いびつな経済社会がもたらした現象でもあった。そして、この歪みは、ドイツにおいて、ナチス党の躍進を生み出すことにもなる。

そのような、経済活動、科学、精神、政治活動それぞれが首輪をほどかれた時代にあって、思想家たちも何かをつかもうと足掻く。

正直言って、フッサールとホルクハイマーの論考は、さほど面白くはない。「面白い」のは、ハイデッガーの悪名高き「ドイツ的大学の自己主張」(1933年)である。

ここで、ハイデッガーは、再び大きな精神の力を取り戻すべく、学生たちを前に熱弁をふるう。曰く、理論を実践の実現とみなせ、民族の血と大地に根ざすエネルギーを動かす威力たる精神世界を創出せよ、民族を通して国家への奉仕に至るべし、と。ナチスへの加担だった。

これがなぜ、「面白い」のか、そしてなぜ、解りやすいのか。その問いは、出鱈目で人を傷つけることを糊塗するように大きな声を出し、国境問題で形ばかりのマッチョと化す為政者が支持される傾向がある、いまの日本においてなされるべきだ。


行定勲『クローズド・ノート』

2012-10-15 00:19:38 | アート・映画

行定勲『クローズド・ノート』(2007年)を観る。

アパートに引っ越してきた香恵(沢尻エリカ)。鏡台の中に、前の住人のものらしきノートが残されていた。そこには、小学校教師としての意気込みや悩みが綴られていた。一方、香恵のバイト先の万年筆店には、一風変わったイラストレイターのリョウ(伊勢谷友介)が、自分の記憶にある書き心地の万年筆を探しにきていた。リョウに惹かれる香恵。しかし、リョウには忘れられない人がいた。その女性・小学校教師の伊吹(竹内結子)こそが、ノートの書き手なのだった。香恵はノートを持って小学校に足を運ぶが、既に、伊吹は交通事故で亡くなっていた。

香恵と伊吹の物語がパラレルに語られてゆき、それらが、リョウと、ノートと、万年筆を結節点として重なる。不自然でしらじらしい描写があるものの、爽やかなミステリー仕立てだ。

沢尻エリカは、前年の生野慈朗『手紙』(2006年)(>> リンク)といい、とても良い演技。綺麗で可愛いだけでなく、表情に実に味がある。しかし、この映画の舞台挨拶で、有名な「別に!」発言が飛び出し、メディアのバッシングの対象になってしまう。惜しいなあ(『ヘルタースケルター』をまだ観ていないけど)。

香恵のバイト先の「イマヰ万年筆」では、先輩の永作博美が、香恵の使う万年筆について蘊蓄を傾ける場面がある。それはイタリア・デルタ社の「ドルチェビータ・ミニ」であり、オレンジ色のレジンを、永作は「南イタリアの日射し」だと表現する。これは宣伝文句なのでもあって、実のところ、わたしもこの色にやられて入手したクチである(ひとまわり大きい「ドルチェビータ・スリム」だが)。

もうひとつ目立つ万年筆が、伊吹が使うエンジ色のものだ。どこの製品かなと調べたら、中屋万年筆の特製品なのだった(>> リンク)。キャップにトリムがない意匠がスマートで、いつか使ってみたい。


ドルチェビータ・スリム

●参照
生野慈朗『手紙』と東野圭吾『手紙』(沢尻エリカ)
万年筆のペンクリニック