Sightsong

自縄自縛日記

カンタン・ロレ+ノエル・アクショテ『The Return of Q. & A』

2018-06-07 17:40:27 | アヴァンギャルド・ジャズ

カンタン・ロレ+ノエル・アクショテ『The Return of Q. & A』(2015年)を聴く。

Quentin Rollet (as, ss)
Noël Akchoté (g)

ノエル・アクショテが過去の音源を狂ったようにbandcampでリリースし続けており、最近、こんなものもあった。カンタン・ロレは90年代にフランスのrectangleレーベルで目立ち、その後、よくわからなかった人である。しかし今や、アクショテに紐づいていなくても、活動をし続けていることがわかる。デジタル空間に生きる身体と音、グレッグ・イーガンみたいだな。

そんなわけでロレとアクショテとの2015年のデュオ。ロレは力を抜いてふにゃふにゃと揺れ動く音色を提示し、何かの形を作るつもりは毛頭なさそうである。ちょっと脱力ぶりがロル・コクスヒルを思い出させもするが、そこまで肩の力が抜けまくってはいない(アクショテがコクスヒルとロレとのリンクなわけか)。アクショテはフレーズ勝負ではなく、何か音を発してはそれを宙ぶらりんにすべく保持し、また重ね合わせる。

●カンタン・ロレ
『MOSQ』(2001年)
カンタン・ロレ、レクタングル(1994、97年)

●ノエル・アクショテ
フィル・ミントン+ロル・コクスヒル+ノエル・アクショテ『My Chelsea』(1997年)
コクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集(1997年)
ルイ・スクラヴィス+ティム・バーン+ノエル・アクショテ『Saalfelden '95』(1995年)


The Open Secret『A Geography For Plays』

2018-06-07 07:27:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

The Open Secret『A Geography For Plays』(2014年)を聴く。

John Butcher (sax, feedback)
dieb13 (turntables, computer)
Gino Robair (energized surfaces, prepared p, Blippoo Box)

ジョン・ブッチャーとジノ・ロベールとは20年来の付き合いだそうであり、デレク・ベイリーを含めた3人で吹き込んだ『Scrutables』がある。さらに今回、ウィーンのターンテーブル奏者dieb13が参加して、「The Open Secret」を名乗っている。

もとよりブッチャーはカメレオンのように周囲の環境と同化する稀有な人だが、本盤での演奏は、さらに上のフェーズへと上がっているように聴こえる。

エレクトロニクスとターンテーブルがアンビエントサウンドを作り、操作により断絶や亀裂が忘れたころにあらわれる。ブッチャーは、その卑近から抽象までの往還に同化もするのだが、それはやがて、「サックスを演奏するということ」自体との追いかけっことなってゆく。あくまでかれはサックスを吹き、幅広い周波数と音色とを発し、タンポの音を鳴らす。このサウンドが人間のわがままな活動なのか世界との共存なのか、その境界を消し去ろうとしているように思える。

傑作。

●ジョン・ブッチャー
ジョン・ブッチャー+ジョン・エドワーズ+マーク・サンダース『Last Dream of the Morning』(2016年)
歌舞伎町ナルシスの壁(2016年)
ジョン・ブッチャー+高橋悠治@ホール・エッグファーム(2015年)
鈴木昭男+ジョン・ブッチャー『Immediate Landscapes』(2006、15年)
ジョン・ブッチャー+ストーレ・リアヴィーク・ソルベルグ『So Beautiful, It Starts to Rain』(2015年)
ジョン・ブッチャー+トマス・レーン+マシュー・シップ『Tangle』(2014年)
ロードリ・デイヴィス+ジョン・ブッチャー『Routing Lynn』
(2014年)
ジョン・ブッチャー@横浜エアジン(2013年)
ヨアヒム・バーデンホルスト+ジョン・ブッチャー+ポール・リットン『Nachitigall』(2013年)
ジョン・ブッチャー+大友良英、2010年2月、マドリッド(2010年)
ジョン・ブッチャー+マシュー・シップ『At Oto』(2010年)
フレッド・フリス+ジョン・ブッチャー『The Natural Order』(2009年)
ジョン・ブッチャー『The Geometry of Sentiment』(2007年)
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』(2000年)
『News from the Shed 1989』(1989年)

ジョン・ラッセル+フィル・デュラン+ジョン・ブッチャー『Conceits』(1987、92年) 


安田峰俊『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』

2018-06-06 07:25:43 | 中国・台湾

安田峰俊『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』(講談社、2018年)を読む。

「八九六四」、すなわち、1989年6月4日に、第二次天安門事件における大弾圧が起きた。多くの市民が殺された。

本書は、それに何かの形で関わった人たちに直接インタビューを行い、ナマの声を集めたものである。潰された死体を視た者もいた。電波ももちろんネットも届かない地方で運動を行っており、それを視ていない者もいた。わたしは当時の若者たるかれらと同世代だが、何が起きているのか理解できずテレビを呆然として視ていたが、情報の量という点でいえば決して少なかったとは言えない。それほど「視える」ものに濃淡がある時代だった。

とは言え、本書を読むと、その後、かれらの多くは同じような波に呑みこまれているように思える。すなわち、中国は経済開放・経済発展に大きく舵を切り、大きな豊かさを手に入れた。共産党独裁は良くも悪くも続き、むしろ習近平政権となってから情報統制が強化されている。若い知識人が、現実を知らぬまま、ピュアに後先考えず突き進んだ運動だったとの冷めた見方さえ共有されているようだ。仮にそうでなかったとしても、現実の生活を前にしては大した意味を持たない。成熟か、退行か、それもまたどちらでもよいというわけである。

もちろん世界は均一ではない。ここには、妥協を選んだ多くの人たちとともに、事件後にネット情報などで「真実に目覚めた」人や(ネトウヨのように)、全てを失いつつもなお動き続ける人や(容赦なく弾圧されている)、台湾やアメリカといった別の活動の地を選んだ人も登場する。やはり中国の力が増強されている香港において、日本と同様かそれ以上に極端な左右の動きが出ているということにも注目すべきである。

やはり「現実」にかなりの哀しさを覚えてしまうのだが、そればかりではない。事件がなかったら、世界の民主化はこのようには進まなかった。台湾のヒマワリ学運の成功は、実は事件の教訓が活かされてのことだった可能性があるという(逆に、香港の雨傘革命においては事件を悪いようになぞってしまった)。また本書に書かれているわけではないが、事件のあと、中国から派遣されたある代表団が、ベルリンのホテルに宿泊した。市民がそれを知り、抗議のデモをはじめた。やがて抗議の目標はドイツ政府や党に向けられ、ベルリンの壁の打ちこわしが始まった、という話もあったようだ(竹内実『中国という世界』)。

事件のことを、記憶と思索の領域になんどでも浮上させなければならない。

●参照
加々美光行『未完の中国』
加々美光行『裸の共和国』
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波
加々美光行『中国の民族問題』
L・ヤーコブソン+D・ノックス『中国の新しい対外政策』
国分良成編『中国は、いま』
稲垣清『中南海』
ダイヤモンドと東洋経済の中国特集
白石隆、ハウ・カロライン『中国は東アジアをどう変えるか』
『世界』の特集「巨大な隣人・中国とともに生きる」
『情況』の、「現代中国論」特集
堀江則雄『ユーラシア胎動』
天児慧『中華人民共和国史 新版』
天児慧『中国・アジア・日本』
天児慧『巨龍の胎動』
汪暉『世界史のなかの中国』
汪暉『世界史のなかの中国』(2)
加藤千洋『胡同の記憶』
藤井省三『現代中国文化探検―四つの都市の物語―』


上原善広『日本の路地を旅する』

2018-06-05 20:29:23 | 思想・文学

上原善広『日本の路地を旅する』(新潮文庫、原著2009年)を読む。

路地とはつまり言い方を変えれば被差別である。著者の出自も大阪のそういった地域であり、肉屋が多く独特な雰囲気を持っていたという。ただし、路地の特徴は場所によってまったく異なっている。屠肉業であっても、牛や馬。犬を扱っていた地もある。皮を使う場合も、太鼓、剥製、靴などさまざまである。という呼び方さえ同じではない(わたしの田舎でも集落のことをと呼んでいた)。そしてまた、エタ、ヒニンなどの歴史だって同様ではない。

著者は、日本津々浦々の路地を訪れては、その地でかつて何があり、いま誰が生きているのかを見出そうとし続けている。路地があまり無いと言われていた北海道や東北にも、「本土」から流れてゆき「京太郎」として伝統芸能の流れを作った沖縄にも、また離島にも足を運んでいる。この原動力は何だろう、まるでなにかに憑りつかれたようだ。

そこから見えてきたものは、地域がいくら離れていても、路地と路地とがつながっていたことだった。たとえば、明治初期に滋賀県の路地から浅草を経て墨田区の路地に移ってきて製革を業とした者が多かったように。またそれゆえに、あぶらかす(牛の腸を牛脂で揚げたもの)や、さいぼし(牛や馬の燻製)といった路地の食べ物も、その地、その地のものでありつつも、離れていても共通していたりもする。

路地は誰の中にもある。

●参照
上原善広『被差別のグルメ』
行友太郎・東琢磨『フードジョッキー』
新大久保のアイヌ料理店「ハルコロ」


セシル・テイラー『Corona』

2018-06-04 15:09:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

セシル・テイラー『Corona』(FMP、1996年)を聴く。

Cecil Taylor (p, voice)
Sunny Murray (ds)
Dominic Duval, Tristan Honsinger, Jeff Hoyer, Chris Jonas, Jackson Krall, Elliott Levin, Chris Matthay, Harri Sjöström (voice)

最初はドミニク・デュヴァルやトリスタン・ホンジンガーらがステージ上で面白い動きでもしていたのだろうか、観客のちょっとした笑いが聴こえてくる。5分あまり、かれらは思い思いにざわめきを作り出す。

そこからの48分間にはただただ圧倒される。セシル・テイラーは絶えず何か大きなものを構築し、それが崩壊しようと残っていようと、ひたすらに再び何か大きなものを構築する。ときにその動きは縦方向ではなく横方向にも化す。硬質な建築士であるだけではない。新鮮なウニを腐らせ溶かすかのような魔の液も放ち、構築した伽藍など大したことではないと言わんばかりのサウンドさえも垣間見せてくれる。そしてサニー・マレイはテイラーの動きと並行していつまでも献身する。

それが過ぎて、最後の7分間、テイラーは涼しい顔で言葉を放つ。最後には「motion... motion...」、「time... time...」と。なんて人だろう。

●セシル・テイラー
セシル・テイラー+田中泯@草月ホール(2013年)
ドミニク・デュヴァル セシル・テイラーとの『The Last Dance』(2003年)
セシル・テイラー+ビル・ディクソン+トニー・オクスレー(2002年)
セシル・テイラーの映像『Burning Poles』(1991年)
セシル・テイラー『The Tree of Life』(1991年)
セシル・テイラー『In Florescence』(1989年)
ザ・フィール・トリオ『Looking (Berlin Version)』(1989年)
1988年、ベルリンのセシル・テイラー
イマジン・ザ・サウンド(1981年)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(1979~1986年)
セシル・テイラー『Michigan State University, April 15th 1976』(1976年)
セシル・テイラー『Dark to Themselves』、『Aの第2幕』(1969年、76年)
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(1968年)
セシル・テイラー『Live at the Cafe Montmartre』(1962年)
セシル・テイラー初期作品群(1950年代後半~60年代初頭)


安岡章太郎『街道の温もり』

2018-06-04 14:03:16 | 思想・文学

神楽坂には神楽坂サイクルという自転車屋さんがあって、なぜか店頭の木箱で古本を売っている。前から気にはなっていて、先日、なんとなく、安岡章太郎『街道の温もり』(講談社、1984年)を200円で買った。1980-82年に書かれたエッセイをまとめたものだった。

なんの期待もせずに読んでみたようなものだけれど、なかなか面白く、はっとさせられる箇所が少なくない。

安岡章太郎の故郷は高知県であり、もとは土佐藩士の家系である。だが幼少時からあちこちを転々としていたため、自身の田舎に対する思いは複雑である。その中には憎しみに似たものもあって、「自己嫌悪に似た郷土嫌悪のようなもの」とまで書いている。郷土の重力への嫌悪や距離感、郷土に執着することへの違和感は、本書のあちこちに噴出している。おそらくそれは百パーセント割り切れる感覚でなかったからでもあるだろう。

これが(日本の?)古くねっとりと粘着して綺麗さっぱりとはならない思想のベースにあることは、「イヤな軍隊」というエッセイを読んでもわかる気がする。安岡曰く、「軍隊」とは日本軍そのものにとどまらず、「日本社会の原像とでも言うべきもの」であった。

「では、軍隊が”病気”でないとすると、何なのか? それは内面的には、私たちの一人一人が背負っている過去の一部であり、外面的には、私たちの家庭や、や、農村や、都会や、国家や、そういうもののあらゆる要素を引っくるめた日本社会の原像とでも言うべきものかと思われる。」

ここでいう「軍隊」はいまの「日本社会」や「組織」とはそうは変わらないと言ってもいいのだろう。

面白いことに、安岡も、他の軍隊に属していた者も、『戦陣訓』(1941年)をことさらに戦後に取り上げることに白けていたという。そこに書かれ政府から指導されたという事実についてではない。それが、当たり前のように浸透していたからであった。何も東條英機に登場してもらわなくてもよいということである。これもまた、「軍隊」が「日本社会の原像」と重なってしまうことに他ならない。

「「生きて虜囚の恥づかしめを受くることなかれ」などと、あらためて言われなくとも、いったん敵の捕虜になれば、たとえ原隊に帰ってきても自決させられるものと覚悟しなければならなかったし、仮りにそれを許されて無事に除隊することが出来たとしても、郷里に帰れば村八分のような目にあうだろうし、ちゃんとした所には就職もできない、生涯、兵歴をかくしたまま、大都会の片隅か、日本人の誰もいないような外地ででも暮らすより仕方がない、そういうことは、当時は兵隊でなくても一般市民が常識として誰でもが心得ていた事柄である。」


ピーター・エヴァンス+ウィーゼル・ウォルター『Poisonous』

2018-06-04 09:25:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

ピーター・エヴァンス+ウィーゼル・ウォルター『Poisonous』(ugEXPLODE Records、2018年)を聴く。

Peter Evans (tp)
Weasel Walter (ds)

このふたりのデュオというだけでただごとでないが、なるほど、サウンドは看板を凌駕している。

確かに何が行われているのかよくわからない。各々が放つ強い音が重ね合わされ、ずらされ、また強引に接着されている。演奏の場でのエフェクトがどこまで行われ、その後の編集(ウィーゼル・ウォルター)による操作がどこまで行われたのだろう。

圧倒されつつも、方向性としては想定内とも言える。ピーター・エヴァンスは、ジャズでもインプロでも構造を意地悪く意図的に解体再構築してきたわけであるし、それをさらに押し進める役としてウォルターという相方は恰好の爆薬であったに違いない。その解体再構築の末に、物語からアトムそのものになったわけである。そしてそれを可能にしているのは、エヴァンスの強靭なフィジカルと演奏技術である。このあたりのヴェクトルはCPユニットとも共通していて、では次に何が待っているのか、それにこそ興味がある。

●ピーター・エヴァンス
マタナ・ロバーツ「breathe...」@Roulette(2017年)
Pulverize the Sound、ケヴィン・シェイ+ルーカス・ブロード@Trans-Pecos(2017年)
ピーター・エヴァンス『House Special』(2015年)
Pulverize the Sound@The Stone(2015年)
Rocket Science変形版@The Stone(2015年)
エヴァン・パーカー US Electro-Acoustic Ensemble@The Stone(2015年)
トラヴィス・ラプランテ+ピーター・エヴァンス『Secret Meeting』(2015年)
ブランカート+エヴァンス+ジェンセン+ペック『The Gauntlet of Mehen』(2015年)
エヴァン・パーカー ElectroAcoustic Septet『Seven』(2014年)
MOPDtK『Blue』(2014年)
チャン+エヴァンス+ブランカート+ウォルター『CRYPTOCRYSTALLINE』、『Pulverize the Sound』(2013、15年)
PEOPLEの3枚(-2005、-2007、-2014年)
ピーター・エヴァンス『Destiation: Void』(2013年)
ピーター・エヴァンス+アグスティ・フェルナンデス+マッツ・グスタフソン『A Quietness of Water』(2012年)
『Rocket Science』(2012年)
MOPDtK『(live)』(2012年)
ピエロ・ビットロ・ボン(Lacus Amoenus)『The Sauna Session』(2012年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』(2012年)

ピーター・エヴァンス+サム・プルータ+ジム・アルティエリ『sum and difference』(2011年)
ピーター・エヴァンス『Ghosts』(2011年)
エヴァン・パーカー+オッキュン・リー+ピーター・エヴァンス『The Bleeding Edge』(2010年)
ピーター・エヴァンス『Live in Lisbon』(2009年)
MOPDtK『The Coimbra Concert』(2010年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』(2009年)
オッキュン・リー+ピーター・エヴァンス+スティーヴ・ベレスフォード『Check for Monsters』(2008年)
MOPDtK『Forty Fort』(2008-09年) 

●ウィーゼル・ウォルター
CPユニット『Before the Heat Death』(2016年)
ウィーゼル・ウォルター+クリス・ピッツィオコス『Drawn and Quartered』(2014年)
チャン+エヴァンス+ブランカート+ウォルター『CRYPTOCRYSTALLINE』、『Pulverize the Sound』(2013、15年)
クリス・ピッツィオコス『Maximalism』(2013年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』(2012年)
マーク・エドワーズ+ウィーゼル・ウォルター『Solar Emission』(2011年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』(2009年)


平井康嗣『101匹目のジャズ猿』

2018-06-03 07:08:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

平井康嗣『101匹目のジャズ猿』(吉備人出版、2017年)を読む。

先日病院を抜け出してレコ屋に行ったら古本棚にこの本。何気なくめくってみると、フリー・即興の面々の名前が飛び込んでくる。本も音楽も出逢いである、これは読まねばならないと連れて帰った。

著者の平井さんは岡山の人。高校生のときにジャズ喫茶でバイトを始め、その後、レコード店などを経営しつつ、国内外の音楽家たちのライヴを企画運営したり、あちこちに文章を寄稿したりと、まさにジャズ愛の人生。

「地方都市でも」ということではない。その場でこそのジャズということである(ジャズが本来そうであるように)。つまり、海外や東京から招へいするばかりでなく、多田誠司、コジマサナエ、川島哲郎、及部恭子といった人たちの若い頃からの活動を見守り、外に知られざる人たちも少なくないという。さらに近場の地域、たとえば山口のちゃぷちゃぷ、松江のウェザーリポートと連携している(大傑作『姜泰煥&サインホ・ナムチラック』は1993年にここで録音された)。また、リトル・ジミー・スコットの2000年の初来日公演については、なんとこの平井さんが仕掛け人だったのだ。思いによって駆動され続けてきた、とても豊かな姿を垣間見せていただいた感じである。

そのときのスコットを含め、ここに書かれた岡山でのギグと同時期に、わたしも東京で観たライヴのことをあれこれと思い出させられる。リー・コニッツ。ペーター・ブロッツマンと羽野昌二とヨハネス・バウアー。武満徹追悼のリッチー・バイラーク(世田谷美術館では武満の曲は弾かなかったけれど)。菊地雅章とグレッグ・オズビー。ダニエル・ユメールとマルク・デュクレとブルーノ・シュヴィヨン。デイヴィッド・マレイ。ダスコ・ゴイコビッチ。エルヴィン・ジョーンズ(とケイコ夫人)。

もちろんそれ以外の、ああ、羨ましいなあというギグが数多く書かれている。少なくとも80年代からナマのフリー・即興シーンに触れたかったな(わたしが東京で覗き始めたのは90年代半ばである)。面白くて少し熱くなってしまった。


小川眞『キノコの教え』

2018-06-02 07:23:48 | 環境・自然

小川眞『キノコの教え』(岩波新書、2012年)を読む。

よく勘違いされるがキノコは植物ではなく菌類である。もっとも18世紀のリンネも20世紀の牧野富太郎も困った挙句か植物に分類している。また菌類のひとつである粘菌についてなどは、南方熊楠は「植物ではなく動物」だと考えていたりもする(ちなみに、中沢新一がそれを受けて牽強付会的にマンダラ論などに結び付けており、じつにみっともない)。本書の内容もあちこちに飛ぶが、それは菌類の分類や生態があまりにも多岐に渡るからである。

ここに整理されている菌類の分類体系によると、原生生物界(ミドリムシ、ケイ藻類)から植物界、動物界とまた異なる形で真菌類が進化し、なかでもキノコ(大型の子実体)を作るものがもっとも進化したグループである(それ以外がカビ)。菌糸にためた栄養物を使って地上にキノコが作られ、そのキノコは膨大な数の胞子をつくって飛ばす。

キノコの種類は本当に多く、毒性の有無の判断は素人にはとても難しいらしい。わたしはやらないが、生半可な知識で取ってきて貪り喰うと死ぬということである。毒性は置いておいても、味については、動物の死骸や排泄物がたまったところに育った場合においしいという法則はあるようだ。

著者は、キノコの生態の形が、歴史的に、寄生から腐生、さらに共生へとはっきりと進化していることを指摘し、そこに、今後の人類のあり方を見出している。確かにこんなに(主に)植物との共生の姿、またどこかに問題があれば支え合ったりお互いに滅びたりするような現象を示してくれると、その論には説得力があると思えてくる。

それにしても興味深い話が多い。

たとえば石炭について。石炭は湿地の植物が地下に埋もれて高音高圧下で変性したものだが、第四紀(250万年前以降)からは亜炭や泥炭などあまりいいものがない。というのは、それまでのキノコはせいぜいセルロースを溶かすだけだったが、それ以降、リグニンを分解するキノコが出てきたことが大きな原因らしい。キノコが石炭の埋蔵を左右していたなんて。

それからマツ林の衰退について。只木良也『新版・森と人間の文化史』にも言及されているように、マツはやせた土地で育つ指標的な樹木である。化石燃料の消費が増え、また生活形態やコストの面もあって、人びとが森林にあまり立ち入らなくなり、その結果土壌が富栄養化したことが、マツ枯れの原因だという。著者はさらに、富栄養化だけでなく、大陸からの大気汚染物質、選択的にキノコが重化学物質や放射性物質(セシウムなど)を吸収すること、その結果としての共生の狂いをも挙げている。

●参照
『南方熊楠 100年早かった智の人』@国立科学博物館

南方熊楠『森の思想』
斎藤修『環境の経済史 森林・市場・国家』
上田信『森と緑の中国史』
只木良也『新版・森と人間の文化史』
そこにいるべき樹木
園池公毅『光合成とはなにか』
館野正樹『日本の樹木』
荒俣宏・安井仁『木精狩り』
東京の樹木
佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』
湯本貴和『熱帯雨林』
宮崎の照葉樹林
オオタニワタリ
科学映像館の熱帯林の映像
森林=炭素の蓄積、伐採=?


マキシ・キルシュネル『Dispositivo』

2018-06-01 10:06:27 | アヴァンギャルド・ジャズ

マキシ・キルシュネル『Dispositivo』(Blue Art、2017年)を聴く。

Maxi Kirszner (b)
Nataniel Edelman (p)
Fermín Merlo (ds)

知らなかった存在だが、先日、神楽坂の大洋レコードに置いてあった。中南米音楽専門のお店であり、ジャズもその文脈の中で揃っている。たまに覗くと発見ばかりでとてもありがたいところである。在庫数も必ずしも多くないのでまさに一期一会。

マキシ・キルシュネルはブエノスアイレス生まれのベーシストであり、ジョン・エイベアやウィリアム・パーカーにも師事している。ピアノのナタニエル・エデルマン、ドラムスのフェルミン・メリオとともにブエノスアイレスで活動しているようである。

ちょっと変わったピアノトリオに聴こえる。三者が着かず離れずの動きを見せるのではなく、どちらかと言えば、お互いに間合いを取って離れたままサウンドを作り上げている印象。キルシュネルのベースは中庸で柔らかく、またメリオのドラムスはポール・モチアン的に伸び縮みしており、このサウンドに整合的。

最終曲はモチアン作曲の「In the Year of the Dragon」。ジェリ・アレン、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンによる同名のアルバムに収録された曲である。原曲が三者の絡みにより有機的なグルーヴを形成していたのに対し、本盤では、そのスタンスのまま突き進む。その分、転調の面白さが際立っていて、ここには、エデルマンのピアノが大きく貢献している。