今回の旅行でもあちこちで立派な教会をみている。そもそも国家宗教を問わず、歴史的建造物の多くは宗教絡み。信仰に基づく意志の力と集金力には毎度のことながら感心してしまう。
日頃から特に欧米人あたり、何かをやり遂げるにあたって意志の力がとても強いんじゃないかと感心しているのだが、一方で教会で祈りを捧げる…神にすがっているのではと思われる姿も多く、そのギャップに戸惑う。一体どういう心のバランスの取り方をしているのか?まぁすがるだけでなく、自分と向き合う力やヒントを得ているのかもしれないが、いずれにしろ外部から手助けを得ているには
違いなかろう。みっともないとは言いすぎだが、何かイヤなんだよね一心に祈ってる姿って(信仰の篤い方ゴメンなさい)。
心のバランスを保のに禅とかヨガとかある。きちんと調べていないので分からないが、こちらは内省的…自身を見つめ直すところにポイントがありそうだ。単純に「神様仏様は全て分かってらっしゃる」より、ひたすらに内なる自己と向き合う方が勇気もパワーも居る気がする。
できることなら、己を克服する必要が生じた時は自身の力のみでやり遂げたいもの、そういう意志の強さを持ち続けたい。溺れる者は藁をも掴むとは言うが、とりあえず「神サマ仏サマ」と呟く前に歯を食いしばって。何かにすがるのは、どうしようもなく追い詰められてからで良いでしょう。
とは言えさすがに「何かにすがるくらいなら死んだ方がマシだ」とまでは思わない。何かにしがみついてどんなにみっともない姿を晒してでも、生に執着したって良いじゃないか。
日頃から特に欧米人あたり、何かをやり遂げるにあたって意志の力がとても強いんじゃないかと感心しているのだが、一方で教会で祈りを捧げる…神にすがっているのではと思われる姿も多く、そのギャップに戸惑う。一体どういう心のバランスの取り方をしているのか?まぁすがるだけでなく、自分と向き合う力やヒントを得ているのかもしれないが、いずれにしろ外部から手助けを得ているには
違いなかろう。みっともないとは言いすぎだが、何かイヤなんだよね一心に祈ってる姿って(信仰の篤い方ゴメンなさい)。
心のバランスを保のに禅とかヨガとかある。きちんと調べていないので分からないが、こちらは内省的…自身を見つめ直すところにポイントがありそうだ。単純に「神様仏様は全て分かってらっしゃる」より、ひたすらに内なる自己と向き合う方が勇気もパワーも居る気がする。
できることなら、己を克服する必要が生じた時は自身の力のみでやり遂げたいもの、そういう意志の強さを持ち続けたい。溺れる者は藁をも掴むとは言うが、とりあえず「神サマ仏サマ」と呟く前に歯を食いしばって。何かにすがるのは、どうしようもなく追い詰められてからで良いでしょう。
とは言えさすがに「何かにすがるくらいなら死んだ方がマシだ」とまでは思わない。何かにしがみついてどんなにみっともない姿を晒してでも、生に執着したって良いじゃないか。