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「トルコのもう一つの顔」小島剛一

2011年04月21日 20時46分47秒 | 読書(ノンフィクション)

 


「トルコのもう一つの顔」小島剛一

これは驚いた、すばらしい。
言語学者が書いたトルコ体験記録、すごく面白い。
(特にトルコ少数民族言語について研究されている)
どういう経緯で、この本を見つけたのか忘れたけど、読んで良かった。
いくつか文章を紹介する。

P53-54
イスラーム神学では、「聖典の宗教」のうちユダヤ教とキリスト教は、最後の宗教イスラームにいたる前の漸進的な段階だと見なす。「遅れている」けれども間違ってはいないと見る。しかし聖典外の宗教は「基本的に誤った」ものだと考える。だからときどき、答えようのない質問をする人に出会う。「あなたは大学も出ているし、世界中を旅行していろいろなものを見てきたのに、どうしていまだにイスラームに改宗されないのですか」

P109-110
トルコ語かザザ語の歌を知っていたら一曲歌えと言う。サズで伴奏するから。
「一曲だけ習ったデルスィム語の歌があるけど」
「出だしはどんなふう?」
「こんなふうに始まる。ラララー・ララー・・・・・・」
「ああ、あの歌ね。知ってるよ。オワジュクのQ君の作曲だ」
私の歌はもちろん「ドゥイェ・ドゥイェ」。これを伴奏つきで歌うのははじめてだ。オワジュクで過ごしたばかりの日々を思い浮かべながら歌う。一番・・・・・・二番・・・・・・胸が次第に熱くなってくる。三番に入ったところで女たちの一人が泣き崩れた。もう一人が目を押さえ、男たちがうつむく。終わりまで歌ったころは皆が泣き腫らしていた。
友人の細君が訊く。
「オワジュクの人たちはこの歌の意味をあなたに教えてくれたかしら。誰が誰に話しかけているのか、あなたは知ってるの」
「今兵役に行く男が妻を慰めようとしているのだと聞いたけど」
「そう、そうよね。知ってるはずよね。でなければこんな歌い方はできるはずがないわ」


P130
真っ平らな土地の真っすぐな道を走り続ける。車の残骸がとうもろこし畑を背景に散らばる。Y氏はあまりにも変化のない景色に悲鳴を上げた。
「こりゃいくらなんでも退屈すぎる。少し本道をそれようよ。眠くなったら大変だ」
私はアドリア海岸のリエカに抜ける道を提案する。
「きれいなとこかい」
「リエカはまあまあだけど、その少し先のオパティアが一見に値するねオーストラリア・ハンガリー帝国時代の瀟洒な建物が並んでいて今は皆ホテルになっている。団体旅行の予約が多いから泊まるのは難しいかもしれないけど」


P135
美醜の普遍的な尺度が存在しないことは周知の事実であるが、ある種のものを見聞きしたときに「美しい」と思うかどうかも、民族により、時代により、人により、また環境によって異なることがある。お寺や教会の鐘の音を聞いて「美しい」と言う人も「喧しい」と言う人もあり、さらには「恐ろしい」と言う人もある。(中略)
私の出会った範囲では、トルコ人は山を見て「美しい」と思うことがほとんどないようである。薪を取りに、または狩猟をしに、あるいは湯治のために、はたまた宝探しのために山に登ることはある。しかし山そのものを歓びとするトルコ人に会うことは稀なるうちにも稀であり、Y氏と知り合う前には、山々の美しさを語って目を輝かすトルコ人に出会ったことは一度しかない。


P144-152
クルド人・・・特にクルディスタン独立の可能性について、著者がトルコ人外交官相手に(トルコ語で)検証していく。この薀蓄のすごさ・・・悶絶クラス、である。
ほんのごく一部を紹介する。
「クルド人の民族主義者が皆マルクス・レーニン主義だなどということはない。ムシュ県はいつの選挙でもイスラーム原理主義政党が勝つのは知っているね。クルド人はシャーフィイー派が多くて、『宗教は阿片なり』の一言を聞くだけで無条件に反共なんだ。ところがマルクス・レーニン主義者かつ信心深い回教徒という人も結構あるし、左翼だけど反ソというのがまた随分多い。モスクワの政府がソ連の少数民族の民主主義を非難するのはロシアの民族主義の発露にほかならないことを見抜いているからだ」

P160
謙譲の美徳という概念はトルコにもヨーロッパにも実生活では存在しない。謙譲は、美徳ではないどころか、ことにトルコでは、愚劣なことである。「私にはなんの取り得もありません」と言えば、「本人が言うのだから間違いない。それにしても気の毒な人だ。なにもわざわざ言わなくてもいいのに」と誰しもが考える。「沈黙は金」も同じく空文である。口数が少ないことは日本では美徳のうちだが、フランスでは「頭が空っぽである証拠」と見なされる。誰にも好かれない。敬遠ではなく「《蔑》遠」される。

以上、文章紹介終了。
この作品を読んで、クルド人問題の「しっぽ」をやっと掴んだ気分。
「だからどうなんだ?」、と言われるかもしれない。
知ったからと言って、仕事に役立つわけでも、日常生活が便利になるわけでもない。
でも、読書とは(私にとって)そんなものである。

PS
清水義範さんが「夫婦で行くイスラムの国々」で、トルコについて書かれているが、「トルコのもう一つの顔」のほうが、ずっと面白い。トルコに入れ込んでいる年月、熱情、知識・・・これらに、圧倒的な差があるから。面白さのレベルに差が出て当然。知名度と面白さは比例しない例、である。
ちなみに、「トルコのもう一つの顔」をネットで調べてもらったら分かるけど、この作品を読んだ方は絶賛している。とても評判の高い本である。

【ネット上の紹介】
言語学者である著者はトルコ共和国を1970年に訪れて以来、その地の人々と諸言語の魅力にとりつかれ、十数年にわたり一年の半分をトルコでの野外調査に費す日日が続いた。調査中に見舞われた災難に、進んで救いの手をさしのべ、言葉や歌を教えてくれた村人たち。辺境にあって歳月を越えてひそやかに生き続ける「言葉」とその守り手への愛をこめて綴る、とかく情報不足になりがちなトルコという国での得がたい体験の記録である。