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「紅茶スパイ 英国人プラントハンター中国をゆく」サラ・ローズ

2018年03月02日 20時30分39秒 | 読書(台湾/中国)
 
 


「紅茶スパイ 英国人プラントハンター中国をゆく」サラ・ローズ

私事で恐縮ですが、普段、緑茶か紅茶を飲んでいる。
コーヒーは体に合わないので。
このタイトルも、もし「コーヒースパイ」なら読まなかったでしょう。
「紅茶スパイ」…なにそれ?興味津々、と。

さて、コーヒーも紅茶もカフェインを含んでいる。
「コーヒーが合わない」と言うと、「紅茶のほうがカフェイン多いんじゃないの?」と言われる。
それに対する回答もある。
P178
1ポンドあたりのカフェインの量は、紅茶のほうがコーヒーより多い。だが1ポンドの紅茶があれば二百杯近い紅茶が淹れられるが、1ポンドのコーヒー豆ではせいぜい四十杯のコーヒーしか淹れられない。カップ一杯分のカフェインについて言えば、紅茶はコーヒーのおよそ半分しか含まれない。一方、緑茶のカフェインは紅茶の三分の一、コーヒーの六分の一だ。つまりコーヒーを約二杯飲むと眠気や疲れが取れる。それは紅茶四杯分、緑茶十二杯分に相当する。それだけの量の紅茶や緑茶を飲める時間や膀胱を持ち合わせている人は、まずいないだろう。

P2
中国は茶の販売で得た銀貨で、イギリス商人からインド産のアヘンを買い、その代金を支払うようになった。いわゆる三角貿易[イギリスの綿製品をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへ輸出していたので「三角貿易」と言われた]の始まりだ。

P26
東インド会社は多くの貿易相手国の実質的な支配者になり、領土を広げ、貨幣を鋳造し、軍隊を指揮した。条約に署名し、戦争を開始・終結し、法律を作り、課税制度を確立した。東インド会社はいまや国家であり、世界経済におけるまったく新しい存在となった。

P30
イギリスは百年前から外交ルートを通じて茶の製法を知ろうとしていたが、中国は決して明かそうとはしなかった。

P55
中国のバラがイギリスに紹介されるまで、イギリスにはシンクのバラはなかったと言われている。だから薔薇戦争(1455-85)でランカスター家は深紅のバラを紋章にできるわけがなく、ただの薄いピンクのバラだったはずなのだ。

P157
洪秀全は客家出身だった。客家は正当な漢民族であるが、戦乱を逃れるために中原から地方に移住したため、漢民族としての社会的地位を十分に享受することはなかった。客家は地方で農民となったが、女性は昔からの纏足の風習に従わなかった。そして中国南部に定住して何百年にもなるが、地元の人たちからは相変わらず「よそ者」として見られていた。(鄧小平が客家出身と言われている)

P194
世界征服を目指すイギリス海軍は、砂糖、紅茶、アヘン貿易で稼いだ金で軍備を強化し続けることができた。アヘンなくしてはインド貿易の繁栄はありえなかっただろうし、インドなくしてはナポレオン戦争後のイギリス植民地政策は失敗していただろう。

P242
良質の脂を使うことが、新しいエンフィールド銃にとって必要不可欠となった。
会社が選んだのはウシとブタの混合脂だった。(なんと無神経な!インド北部にはイスラム教徒の兵士がおり、信仰の篤いヒンドゥー教徒の兵士もいて、聖なる牛の死体には触れない)

P243
1857年1月のある日、カルカッタに近いダムダム兵器廠で働く生まれの卑しい肉体労働者が、バラモンのシパーヒーに向かって「だんなたち(ヨーロッパ人)はウシとブタの脂に漬けた薬包をあんたにかみ切らせるようだが、そうなったらあんたのカーストはどうなるのかね?」と言い放った。

P246
シパーヒーの反乱により、傀儡政権として東インド会社と結託してきたムガル帝国は終焉を迎えた。

P247
反乱が最終的に鎮圧されると、イギリス議会はインドにおける東インド会社の特権をはく奪し、その特許状を無効にした。議会の署名ひとつで、東インド会社は消滅したのだ。

P254
ついに1750年頃には、イギリスの磁器工場磁器焼成の秘密を発見し、新しい産業が誕生した。
(中略)
こうした技術進歩を利用した初期の陶器職人のひとりがジョサイア・ウェッジウッドであり、彼の孫のひとりが、ロバート・フォーチュンと同時代人であるチャールズ・ダーウィンだ。(ウェッジウッドやマイセンをありがたがる前に、伊万里焼を見なおした方が良い、と思うけど…フレディ・マーキュリーは伊万里のファンだったそうだ。本物の分かる男だ)

【ネット上の紹介】
19世紀、中国がひた隠ししてきた茶の製法とタネを入手するため、英国人凄腕プラントハンター/ロバート・フォーチュンが中国奥地に潜入…。アヘン戦争直後の激動の時代を背景に、ミステリアスな紅茶の歴史を描いた、面白さ抜群の歴史ノンフィクション。
一八四五年 中国の〓(びん)江
一八四八年一月十二日 イギリス東インド会社本社
一八四八年五月七日 ロンドン、チェルシー薬草園
一八四八年九月 上海から杭州へ
一八四八年十月 杭州寄りの浙江省
一八四八年十月 長江の緑茶工場
一八四八年十一月 安徽省にあるワンの実家
一八四九年一月 上海
一八四九年三月 カルカッタ植物園
一八四九年六月 インド北西州サハランプル植物園〔ほか〕