「中村武生とあるく洛中洛外」佐藤知幸
新撰組の屋敷は京都に複数箇所あるが、西本願寺境内にもあった
P67
局長・近藤勇と副長・土方歳三に案内されて屋敷内を見学していると、多数の隊士がゴロゴロしている。局長らの前で無礼ではないかと意見すると、病人だと答えられ、かえって驚き、西洋の病院のシステムを教えたら、土方はわずか4~6時間でつくってしまったというくだりがあります。台所に多数の残飯があり、その不衛生を解消するためブタを飼うことを勧め、最後にそのブタを食せと指導しています。ニワトリを飼うことも勧めていました。卵が得られますから。(お坊さんも境内で肉食され、いい匂いも漂ってきて困ったでしょうね)
平安時代に掘られた堀川について
P107
囚人の労働力によって開削されたそうです。『日本後紀』によれば、延暦18年(799)6月ごろ、京を巡覧中の桓武天皇の目に留まった。刑具を着けられ、裸で従事する姿を見た桓武天皇は気の毒に思い、彼らの多くの罪を許し釈放したといいます。(2001年誕生日、天皇記者会見の言葉:「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫である、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております(後略)」、「平成史」保阪正康 より)
大江山と「首塚大明神」について
P138
この神社は酒呑童子伝説に由来します。「大江山」に住んで、京都の人たちに悪さをしていた鬼の頭領・酒呑童子が、平安時代の武将・源頼光と四天王に退治されるという話です。「大江山」というと、丹波と丹後の国境にある大江山と思われがちですが、西京区の「大枝」の方に妥当性があります。(中略)ここが平安京の属する山城国の境界だからです。平安時代、政治や社会を安定させるため、都が清浄であるための儀式を山城国境の四カ所行っていました。これを「四角四境(堺)祭」といいます。その位置は、逢坂(滋賀県大津市)、山崎(大阪府三島郡島本町)、和邇(大津市)そしてここ大枝です。それぞれ、東海道、山陽道、東山道、山陰道といった主要路が通っていますからね。平安時代にはよく疫病がはやりました。この疫病をもたらすのが疫神です。それを排除するために行ったのが四境祭でした。そういう背景があっての大江の酒呑童子伝説と理解すべきでしょう。だから酒呑童子とは、実は疫神を実体化したものといえます。
明智光秀は「敵は本能寺にあり」と叫んだのか?
P141
本能寺攻めに参加した本城惣右衛門という武士の回想があります。なぜ京都に向かうのか疑問に思ったが、当時徳川家康が在京していると聞いていたので、家康を討ちにいくと思った。本能寺も知らなかったし、切り込んだ後もそこが織田信長の居所と知らなかったそうです。
なぜ明智光秀は下克上に失敗したか?
P165
「下克上」といっても、主君は殺すが自分が取って代わるというのではなく、跡目は傀儡とはいえ主君の子息や一族を立てるのが普通です。「悪い君主だから殺したが、主家への忠誠のためである。自分は忠臣ですよ」というふりをしなければ、周囲は納得しないんです。