青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

忘れ里物語

2010年07月20日 21時56分24秒 | 日常

(朝の天池から@秋山郷上ノ原)

燃える森の緑に囲まれた池の湖面に映るは、秋山郷のシンボル・鳥甲山。

ってな訳で(我ながらこの書き出し多いなw)週末の日曜月曜と男四人で新潟と長野に跨がる日本の秘境・秋山郷に行って来たんですが、まずは参加諸氏におかれましてはお疲れさんでござんした。また幹事役の山小屋氏におかれましても、上げ膳据え膳のご対応誠に感謝を申し上げる次第であります。いや、ホントにメシ盛らせたり味噌汁よそわせたりしたもんでw(←人でなし)。


(圧倒的な大自然@秋山郷屋敷)

実は私は五年前に興味があって今回とほぼ同様のルートを通った事はあるんですが、逆に予備知識があった分今回は改めて深く楽しめたかなと。平家の時代からの落人伝説、東は苗場、西は鳥甲と圧倒的な迫力を持って立ち塞がる山々。その山の攻めぎ合う谷を深く深く刻んで流れるのが中津川、その回廊のような渓谷にしがみつくように点在する集落。冬場は多い時では二丈(6m)の雪に閉ざされる秋山郷は、最近では平成18年の豪雪で集落が孤立した事がニュースになった事をご記憶の方も多いかと思いますが、中津川の谷が狭まる見玉~清水川原間のスノーシェッドが出来るまでは、冬期は雪崩が頻発し孤立無援に立たされる事は珍しくなかったようです。戦後になってようやく国道が最奥の切明まで通ずるようになったそうなのだが、それまでは何かの用事があれば津南の町まで30kmを往復徒歩で通っていたそうだ。


(先祖代々、この土地で…@秋山郷屋敷)

泊まったお宿のパンフレットに、江戸時代の作家・鈴木牧之が記した「秋山紀行」を引用して当時の秋山郷が紹介されているのだが、結構面白くて長々と読みふけってしまった。その当時の秋山の人は、「いら」と言う葦麻をつむぎ着物を作り、藁がないためわらじも履かず、藤の蔓で梁を渡して作った粗末な掘っ建て小屋に、編んだ菅を周囲に回して壁として住んでいた。主食は粟、稗、小豆で、その他秋には栃の実、楢の実を拾い、水にさらして乾燥させて粉にしたものを食べていた。極めてタンパク質の少ない食事であるが、近年まで魚と言えば正月に磨きニシンを食べるのがせいぜいだったそうだ。病人には僅かな米の粥を与えて薬とし、重病人が出てもとりあえず山伏を呼んで来て祈祷する事くらいしかやりようがなかったらしい。イメージとしては、苦しんでる病人に志村けんを呼んで「だいじょぶだぁ~」と太鼓を叩かせるような感じか?(違)当然死者が出ても、冬などは里から坊さんすら呼べませんから、弔い事は黒い馬に乗った聖徳太子が描かれた「黒駒太子」と言う掛け軸を死者の上で振りかざし、とりあえず仏さんに現世の引導を渡したと言う。せ、せつねえ。まあ現世でも特に我々のようなしがないサラリーマンは紙切れ一枚で引導渡されちゃう事も珍しくはないのだけれども(笑)。それって要するにクビ(ry


(羽ばたけ、大鷲@秋山郷和山)

山がひしめき耕地が乏しい秋山郷は、天命、天保の大飢饉で滅亡した集落が三つもあるのだと言う。「秋山紀行」が編纂されたのは江戸の中期の頃らしいのだが、既にその時点であまりにも異なる独自文化に驚く作者の言葉が綴られている。まあ要するに僻地過ぎて文明の伝播すらなかった、と言う事なんでしょうが、そんな極めて異質な文化を育みながら時を紡いできた忘れ里である秋山郷を、件の鈴木牧之はこう記している。

「秋山の人はみな温厚篤実で、人と争わず色欲薄く、賭博を知らず、酒屋がないため酒呑みもおらず、昔から藁一本取る人もない」

♪苦しくったって~ 悲しくったって~ 秋山郷なら 平気なの、ってか。
と言うか、たぶんこの土地の人たちは、そこで起こる事をあるがままに受け止めて暮らして来たのでしょう。
自然の厳しさも、貧しさも、あるがままの毎日は、やがて普通の事となるのだろうからね。
コメント
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