青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

裏高尾の慰霊の日

2017年08月05日 17時22分40秒 | 中央東線

(慰霊の日@八王子市裏高尾町)

中央本線が高尾を出て、小仏トンネルに向けて走って行く通称「裏高尾」と呼ばれる地域には数々の撮影ポイントがありますが、今日はそんな裏高尾の慰霊の日。最近感じる事ですが、自分の小さい頃に比べて、世の中がこの時期に「戦争の話」をしなくなったように思うんですよね。50人以上の死者と130余名の負傷者を出した「中央本線419列車銃撃事件」。編隊を組んだアメリカ陸軍の戦闘機P51ムスタングが、走行中の列車に対して機銃掃射を見舞ったこの事件。本日はその慰霊の日と言う事で、まったくの気まぐれですが子供と裏高尾を訪ねてみました。あれから72年目の夏に、戦争を知らない世代が思いを馳せる日があってもいいのかもしれない。


慰霊碑は高尾の駅から小仏峠への旧甲州街道の道すがらにあり、子供と二人で駅から蒸し暑い中をよっこらよっこら歩いて来たのだが20分くらいだろうか。旧街道の小仏の関所を抜けて、小仏川の沢沿いに圏央道の高架を見ながら歩くと、バス停「蛇滝口」の横に慰霊碑の入口を示す石碑が。今日は慰霊の会の方々が入口で献花を用意し、冷たいお茶で訪れる人々をもてなしていました。


小仏峠への道から脇へそれ、畑の中の小道を線路に向かって上がって行くと、奥に事件の慰霊碑があるようです。実際のご遺族の関係者か、家族に支えられながら築堤脇の慰霊碑に向かっておばあちゃんが歩いて行くのですが、さすがに戦後72年ともなると関係者の高齢化も著しいものがあるのでしょう。線路を行く小淵沢行きの長野色211系が見えます。


事件の発生日が昭和20年8月5日ですから、終戦の僅か9日前のお話。翌日に広島へ原爆が投下され、9日に長崎にも原爆が投下され、ソ連参戦から15日に終戦を迎えるという怒涛のような流れの中で起こった事件でした。正直、この趣味をやっていなかったら知ることもなかった事件なのかなと思いますし、実際当時は戦前戦後の報道管制下ではまるで報道もされなかったそうですが、慰霊碑に刻まれた人々の名前を見るとそこにある戦争の惨禍にただ首を垂れるしかない。うだるような暑さと蝉時雨の中で、線香と花を手向け子供と暫し黙祷。


慰霊碑に刻まれた碑文。死没者の方々の氏名を読めば上は70代から下は5歳までと幅広く、全くもって戦争なんて起こってしまえば市井の人間なぞ歳も性別も関係なく無差別に巻き込まれてしまう事のやるせなさを感じる。碑の案内をされていたボランティアの方々の語りが「機銃掃射で頭を打ち抜かれ…」云々など生々しかった事もあり、子供は少し怖さを感じてしまったようだ。ただ、この手の話は実際に怖いんだから当たり前。我々の子供の頃は、この時期共産党や社会党系の方々がご丁寧にも「反戦の夕べ」なんて集まりをよくやっていた。貰えるいくばくかのお菓子に釣られて行ったはいいが、リアルな描写の戦争映画(か「はだしのゲン」)をガッツリ見させられ、子供心に言いようのないトラウマを抱えて戻って来るなんて事がしょっちゅうあったもんだ。

 

慰霊碑の裏に走る中央本線。左側が湯の花トンネルになります。「湯の花」と書いて「いのはな」と読むんですけど、現在は上を圏央道が通るこの小山を地元では「猪の鼻山」と呼んでいた事に由来しているのだそうで。ちょうど湯の花トンネルを竜王からの返空タキ(80レ)が通過して行って子供が大喜び。中央東線の貨物ってそんなに本数ある訳じゃないから良かったね。


慰霊碑の脇にある新井踏切から、湯の花トンネルを望む事が出来ます。上を走るのは中央自動車道、交差するのが圏央道。ちょうど八王子JCTの真下に当たる場所になりますが、高速を走っているドライバーのどれだけが足元で起こっていた遠い日の出来事を知っているのだろうか。

 

当時この区間は単線であったので、事件があった湯の花トンネルは現在の上り線(新宿方面)側にあります。いかにも中央東線のトンネルらしい重厚なレンガ造りのポーナルで、200mもないような短いトンネルながら歴史を感じさせる佇まい。トンネルの中からさらに小仏トンネルに向かって18パーミルの登り坂になっていますが、この登り坂も事件の被害を拡大させる一因となりました。


事件の3日前、昭和20年8月2日に死者450人、負傷者2000人を数える八王子大空襲があったこと。焼け出された人々、家は焼けずとも疎開を決断した人々、農村部へ食料を求めに行く人々、色々な人々が中央本線の復旧を心待ちにしており、事件当日の8月5日は空襲で寸断された中央本線がようやく復旧した日であったこと。襲撃された419列車はこの日新宿から甲府方面に向かう最初の列車であったこと。様々なファクターが絡み合い、ED16型電気機関車(7号機)に牽引された客車7両がすし詰め満員の乗客を乗せて浅川(現在の高尾)の駅を出たのは、まさしく我々が慰霊碑の前で首を垂れた正午頃だったそうです。

ED16と言えば、子供の頃に奥多摩から来る南武線の石灰石列車(奥多摩工業)の先頭に立っているのを見ているので思い出深い機関車でもあります。ほっとんどEF64だったんだけど、たまーにED16やらEF15が牽いてる事があって結構ビックリするんだよね。西国立の駅に立川機関区があった時代の話だから相当昔の話だ。ED16の1号機は、現在でも青梅線ゆかりの機関車として青梅鉄道公園できれいに保存されていますね。

次回へ続く。
コメント (2)
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