青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

いつも、いづもの、神ある暮らし。

2023年09月19日 17時00分00秒 | 一畑電車

(神の国の電車@布崎~雲州平田間)

出雲大社や一畑薬師と、著名な神社仏閣に事欠かない一畑電車の沿線。そもそもが出雲の国、大社信仰に篤いのは言うまでもありません。一般的には、出雲大社は大国主大神様、いわゆる「大黒様」をお祀りする「縁結びの神様」なんて言われてますよね。恋愛成就だとか良縁の話だとか、そっち方面にのお願いごとにご利益があるなんて言われることが多いのですが、出雲大社的には「縁結びっつったって男女の仲だけじゃないのよ。世の中の森羅万象すべてのものは何らかのご縁によって繋がって結ばれているんですよ」というような趣旨のありがたいお話が記されていた。

日々の願い事だったり占いだったり、どうしても我々のような俗人は自分の普段の私的な欲に絡むことばかりに祈りをささげてしまいがち。まあそれも小市民っぽくていいのだけれども、出雲の国を旅すると、そういう部分とは違う生きて行くための緩やかな祈り・・・それこそ、日々の安寧だったり、五穀豊穣だったり、大漁祈願だったり・・・自分たちの生活が一つでも豊かになるために、人の力ではコントロール出来ないことを託すためのよすがとして、信仰が根付いている。神様がそこにいることが当たり前のような暮らし。それが、いつものいづもの姿と思えてならない。

名もなき鳥居の前を、電車は出雲大社へ向かいます。

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秋鹿町、清き島根の夏。

2023年09月17日 17時00分00秒 | 一畑電車

(島根の夏は青く@秋鹿町駅)

平田の街で昼食を済ませ、引き続き宍道湖の湖岸ドライブを続けるうち、午前中にも立ち寄った秋鹿町の駅に戻って来た。午後になって空のモヤモヤ感がすっかり抜け、夏の日差しに青く輝く湖面がひときわ眩しい。国道を通る車の流れが少し切れた頃合いに訪れる一瞬の静寂。晩夏を彩る蝉時雨と、湖を渡ってくる風の音しか聞こえない。

この宍道湖の青い感じと、いかにもな島根の夏を閉じ込めたくて電車の到着を待つ。時折頭上を流れて太陽を遮る浮浪雲と、湖とレールを隔てる国道のクルマの動きに気を揉みながら待っていると、秋鹿町の駅の構内踏切の鐘が鳴る。夏の太陽に負けないギラギラのオレンジを纏って、バタデンの電車がゆっくりとホームにやって来た。

いいですね、島根の夏。いいですね、秋鹿町の駅。

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人の文字、お薬師様に手を合わせ。

2023年09月16日 21時00分00秒 | 一畑電車

(行きては返す鉄の道@一畑口駅)

松江と出雲市のちょうど真ん中あたり、そんな場所にある一畑電車の一畑口駅。宍道湖北岸の集落に静かに佇む2面のホーム、3番線まである辺りはさすがに会社名でもある「一畑」を冠する主要駅だけあるなあ・・・という感じも致しますが、現在は駅員の配置のない無人駅です。特に駅に山坂が迫っている訳でもありませんが、ここで一畑電車はスイッチバックを行います。このアングルで言うと、右が電鉄出雲市方面・左が松江しんじ湖温泉方面。普段はどちら行きの電車も駅舎側にある1番ホームに着きますが、この駅で交換を行う場合は松江行きが1番・出雲市行きが2番に入ります。

駅の構外、車止めから駅の全体像を遠景で。一畑電車の前身である一畑軽便鉄道は、元々この一畑口の駅の北方3km程度の場所にある一畑薬師への参詣鉄道として敷設された路線でした。一畑薬師は「目」のお薬師様として全国にその信仰を集める一畑薬師教団の総本山。大正4年に現在の雲州平田駅から一畑薬師の最寄り駅である一畑駅まで延伸された際、この駅は「小境灘(こざかいなだ)」駅として開業。昭和3年には、松江方面から一畑薬師に向かう現在の北松江線が全通し、一畑電気鉄道は、ここで一畑駅を頂点とし小境灘駅を分岐駅とする人の字型の線形となりました。

しかしながら、太平洋戦争の戦局も進んだ昭和19年の11月。当時の国は一畑電気鉄道の小境灘~一畑駅間を「不要不急路線」に指定。お国のためにレールは剝がされ、参詣の道は閉ざされることになります。終戦を迎えた後も、この区間は休止されたままレールの輝きが戻ることはありませんでした。この区間は、戦後長らくの休止期間を経て、昭和30年代中期にひっそりと廃線になっているのですが、結果的に一畑電気鉄道が一畑薬師への参詣電車として日の目を見たのはほんの30年程度のこと。小境灘の駅は一畑までの区間の廃止数年前に「一畑口」と改称され、出雲市方面と松江しんじ湖温泉方面が直通出来ないスイッチバックの駅として残されることとなります。

渋焦げの板塀で作られた一畑口駅の駅舎。いつくらいに建てられたものだろうか。駅の入口のサッシ回りとかを見ると、ある程度の年季は入っているような気がするのだが。屋根瓦なんかはきれいに葺き替えられていて、元の駅舎を基にした大規模リニューアルパターンなのかもしれない。駅前のバス停は一畑薬師方面へのコミュニティバスですが、たった一日三往復では長らく鉄路が途絶えたお薬師様へのアクセス手段になっているのかどうか。そもそも「一畑」電車を名乗るなら、一畑薬師までの3kmくらいのレールは引き直してもいいんでないの?と思わなくもないのだが。

駅本屋から離れた2・3番ホームを散策してみる。一畑らしいカカシ型のホーム上屋がまたいい味を出しているよなあ。一畑薬師への列車の運用は、晩年は一畑~小境灘間の折り返し運転が主流だったらしく、今は使われない3番ホームは、ひょっとしたら区間運転用の折り返しホームだったのかもしれない。すっかり草に埋もれた錆びたレールに、参詣の道の栄華を偲ぶ。

電車を待つ人もおらず、森閑とした静けさだけの待合室。夏の日差しに煽られた熱風だけが吹き抜ける中で、広告の懐かしいベンチに座って自動販売機で買った暑さしのぎの冷たい麦茶を飲む。人の姿の見えない小境灘の集落、出雲今市(現在の出雲市)から一畑薬師までレールが繋がった際は、松江側からは宍道湖を汽船で渡り、小境灘から電車に乗るのが参拝ルートであったらしい。その頃は、この駅も大勢の参拝客で賑わったのだろうか。待合室の外の景色の長閑なこと。

左側を永遠の空白にして、お薬師様の手前で控えめに終わる一畑電車のレール。掠れかけた柱のホーロー看板に侘びを感じる昼下がり。人文字の形を残し、不可思議に終わる湖畔のスイッチバック。その土地の歴史を紐解けば、かつての信仰や文化の痕跡が地図の上に焙り出されてきます。改めて駅を遠くから、かつての参詣道の袂から駅を眺むれば、いつの間にか現れた一畑の子供たち。松江しんじ湖温泉行きの2100系が、ゆるゆると車体を揺らして陽炎の中をやって来るのでありました。

2023年夏、一畑口の岐れ道。

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旅伏山残暑便り。

2023年09月13日 17時00分00秒 | 一畑電車

(旅の相棒@出雲市西代町)

今回、オリックスレンタカーで借り出したトヨタのヤリス。1人用のレンタカーなら、それこそ荷物が積めて動きさえすれば何だって構わなかったので、予約は「軽」でしてたんだけど、向こうの貸し出しの都合で軽の料金で「コンパクト」=小さめの普通乗用車があてがわれました。普段そこそこの大きさのファミリーカーで撮り鉄をしておるので、このサイズでの撮影行だと実に小回りが利いていいですね・・・民家のひしめく狭い裏路地や、畑の中の細い砂利道だって、幅を気にせずスイスイ入って行ける。そして一番助かるのが、ちょっとクルマを止めたりするのにそこまでスペースを必要としないところですね。

そんなヤリスを駆りながら過ごす出雲の一日。田んぼの中の狭い農道で、一畑電車を待つ。青々とした稲の波を渡る湿り気を帯びた熱風。タオルを水で濡らしながら眺めるのは、四種踏切に真っすぐ続く草生した道。暑さで気の遠くなるような真昼の雲州の大地。旅伏山をバックに、小口の分散クーラーを屋根上にたくさん乗せた、オレンジの一畑電車がやって来る。

思えば7月の北条鉄道、そして8月の一畑電車と、今年の夏は災害級の暑さではあったが、景色的には実にきっぱりと力一杯の夏であった。そして、こちらの方もお腹一杯になるまで夏を吸い込んだ。ただ、時は流れて9月半ばになろうというのに、いまだに空気は夏のままだ。夏は惜しまれつつ終わるくらいがちょうどいいと思うのだが、いったいいつまで夏なのか。地球温暖化だからねえ、と簡単に結論付けられないような何かがあるのだろうか。

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雲州名産、木綿の帆掛けて。

2023年09月11日 17時00分00秒 | 一畑電車

(小さき祠の花飾り@園~湖遊館新駅間)

出雲の国を旅して思うに、実に神社や祠の類が多く、そこかしこに神様のお住まいがある信仰の国であることが分かる。お盆を過ぎて、静けさを取り戻した園の集落。古びた待合室の無人駅にほど近い線路脇にあった小さな祠。小さいながらも、地元の方が手入れを欠かさないのであろう、きれいな花が供えられている。こんな日照り続きに、扉を閉めていてはご本尊様もさぞかし暑かろう。思わず観音扉を開けて、御神酒でも差し上げようかと思ってしまうほど。

田園地帯の高みから、宍道湖北岸に広がる雲州平田の街を望む。現在は周辺自治体と合併して出雲市の一部となっていますが、それまでは「島根県平田市」という独立した地方自治体でした。そもそも島根県、市制を敷いている自治体の数自体が相当に少ない県なのですが、唯一「市」として平成の大合併に参加して消滅したのが平田市だったりします。島根の「市」の数は・・・現在8つなんだね(松江・安来・出雲・大田・江津・浜田・益田・雲南)。平成の大合併で平田市が消滅し、雲南市が新設されているので、数自体は変わっていないようで。ちなみにそれなりの地理知識を擁していると自負していたが、安来市が出て来なかった。不覚である。

今は水田の多い出雲平野ですが、当時は綿花の栽培が盛んで、平田の街はその中心地として栄えました。収穫された綿花は加工され、「雲州木綿」として全国に出荷されていました。今でも旧市街にはその名も「木綿街道」と名付けられた由緒ある街並みが続き、木綿問屋や白壁の土蔵が立ち並んでいるそうですが・・・今回はなかなかそこまで見ている時間はなかった(笑)。どうも線路沿いをドタバタしているばかりで、そういう地場の産業とか歴史に繋がるなにがしかを拾えぬパターンが多いのは汗顔の至り。

雲州木綿の生産のピークは江戸時代の話で、当たり前ながら当時は一畑電車も開通しておりませんから、製品の輸送は専ら水運によって行われており、宍道湖に繋がる水路から帆掛け船によって出荷をしていたそうです。出雲の木綿産業は、明治以降は生糸や輸入綿花に押され、宍道湖沿岸の低湿地帯にあった綿花畑は水田に替わり、次第に衰退することになります。

雲州平田~布崎間で、平田船川を渡る5000系。
平田「船川」という名前が、往時の平田の街の水運需要の高さを物語っているようです。

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