(行きては返す鉄の道@一畑口駅)
松江と出雲市のちょうど真ん中あたり、そんな場所にある一畑電車の一畑口駅。宍道湖北岸の集落に静かに佇む2面のホーム、3番線まである辺りはさすがに会社名でもある「一畑」を冠する主要駅だけあるなあ・・・という感じも致しますが、現在は駅員の配置のない無人駅です。特に駅に山坂が迫っている訳でもありませんが、ここで一畑電車はスイッチバックを行います。このアングルで言うと、右が電鉄出雲市方面・左が松江しんじ湖温泉方面。普段はどちら行きの電車も駅舎側にある1番ホームに着きますが、この駅で交換を行う場合は松江行きが1番・出雲市行きが2番に入ります。
駅の構外、車止めから駅の全体像を遠景で。一畑電車の前身である一畑軽便鉄道は、元々この一畑口の駅の北方3km程度の場所にある一畑薬師への参詣鉄道として敷設された路線でした。一畑薬師は「目」のお薬師様として全国にその信仰を集める一畑薬師教団の総本山。大正4年に現在の雲州平田駅から一畑薬師の最寄り駅である一畑駅まで延伸された際、この駅は「小境灘(こざかいなだ)」駅として開業。昭和3年には、松江方面から一畑薬師に向かう現在の北松江線が全通し、一畑電気鉄道は、ここで一畑駅を頂点とし小境灘駅を分岐駅とする人の字型の線形となりました。
しかしながら、太平洋戦争の戦局も進んだ昭和19年の11月。当時の国は一畑電気鉄道の小境灘~一畑駅間を「不要不急路線」に指定。お国のためにレールは剝がされ、参詣の道は閉ざされることになります。終戦を迎えた後も、この区間は休止されたままレールの輝きが戻ることはありませんでした。この区間は、戦後長らくの休止期間を経て、昭和30年代中期にひっそりと廃線になっているのですが、結果的に一畑電気鉄道が一畑薬師への参詣電車として日の目を見たのはほんの30年程度のこと。小境灘の駅は一畑までの区間の廃止数年前に「一畑口」と改称され、出雲市方面と松江しんじ湖温泉方面が直通出来ないスイッチバックの駅として残されることとなります。
渋焦げの板塀で作られた一畑口駅の駅舎。いつくらいに建てられたものだろうか。駅の入口のサッシ回りとかを見ると、ある程度の年季は入っているような気がするのだが。屋根瓦なんかはきれいに葺き替えられていて、元の駅舎を基にした大規模リニューアルパターンなのかもしれない。駅前のバス停は一畑薬師方面へのコミュニティバスですが、たった一日三往復では長らく鉄路が途絶えたお薬師様へのアクセス手段になっているのかどうか。そもそも「一畑」電車を名乗るなら、一畑薬師までの3kmくらいのレールは引き直してもいいんでないの?と思わなくもないのだが。
駅本屋から離れた2・3番ホームを散策してみる。一畑らしいカカシ型のホーム上屋がまたいい味を出しているよなあ。一畑薬師への列車の運用は、晩年は一畑~小境灘間の折り返し運転が主流だったらしく、今は使われない3番ホームは、ひょっとしたら区間運転用の折り返しホームだったのかもしれない。すっかり草に埋もれた錆びたレールに、参詣の道の栄華を偲ぶ。
電車を待つ人もおらず、森閑とした静けさだけの待合室。夏の日差しに煽られた熱風だけが吹き抜ける中で、広告の懐かしいベンチに座って自動販売機で買った暑さしのぎの冷たい麦茶を飲む。人の姿の見えない小境灘の集落、出雲今市(現在の出雲市)から一畑薬師までレールが繋がった際は、松江側からは宍道湖を汽船で渡り、小境灘から電車に乗るのが参拝ルートであったらしい。その頃は、この駅も大勢の参拝客で賑わったのだろうか。待合室の外の景色の長閑なこと。
左側を永遠の空白にして、お薬師様の手前で控えめに終わる一畑電車のレール。掠れかけた柱のホーロー看板に侘びを感じる昼下がり。人文字の形を残し、不可思議に終わる湖畔のスイッチバック。その土地の歴史を紐解けば、かつての信仰や文化の痕跡が地図の上に焙り出されてきます。改めて駅を遠くから、かつての参詣道の袂から駅を眺むれば、いつの間にか現れた一畑の子供たち。松江しんじ湖温泉行きの2100系が、ゆるゆると車体を揺らして陽炎の中をやって来るのでありました。
2023年夏、一畑口の岐れ道。