《(32)竜田川右岸(西側)にあり、巨石の横穴式石室を持ち、東側面に斜格子文を刻む石棺が納められていた前方後円墳はどれか ア.宮山古墳 イ.烏土塚古墳 ウ.三里古墳 エ.西宮古墳》。
これは、昨年1月に実施された「奈良まほろばソムリエ検定」奈良通1級試験に出題された問題である。「ア.宮山古墳」は、御所市室にある古墳で、室大墓(むろのおおはか)とか室宮山古墳とも呼ばれている。これは、地理的に全く違う。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/57acc436153f81eab2718a125e4d5ec3
「ウ.三里(みさと)古墳」は平群町三里にあり、玄室の奥に石棚のあるのが特徴だ。この古墳は竜田川の「東岸」にあるから、これも違う。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/a4c05448b5ff951a28e03082bc675115
1/31(土)、残る「イ.烏土塚(うどづか)古墳」と「エ.西宮古墳」(どちらも竜田川西岸にある)を訪ねてきたので、ここで紹介する。

近鉄竜田川駅下車。南側の踏切を越えて坂を登るとこの標識がある
これらの古墳については、当ブログ常連コメンテーターの畳薦さん(平群町在住)が、「平群の古墳探訪」として、現地レポートを書いて下さっている(上記「三里古墳」記事のコメント欄)。引用させていただくと、

《烏土塚古墳はかわいそうに住宅地に浸食されて石垣の腰巻きを巻いて、やっと残る。姿の美しさが欠けるが墳頂に登り、南側の横穴式石室開口部に至る》。これは巨大な古墳である。平群谷で最大だそうだが、閑静な住宅地の中に屹立(きつりつ)しているさまは、圧巻である。写真を撮っていると、近所の子供に「旅の人?」と声をかけられた。


墳頂からの眺望。中央の小高い丘の向かって左が西宮古墳


ここを降りると石室に至る
《石棺の蓋はないが形態は残る。天井石が巨大。墳頂からは西宮古墳の開口部が見えた》。墳頂から坂と階段を降りると石室がある。真っ暗闇で不気味である。カメラの感度をISO1600に設定し、柵の間から何とか石棺を撮った。


ストロボがなければ、真っ暗闇だ
『奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック』(P107)によると《花崗岩の巨石を用いた両袖式の横穴式石室》《玄室の石棺東側面には斜格子文の線刻が見つかり、県内での石棺装飾の数少ない類例である》。つまり冒頭の問題の正解は「イ.烏土塚古墳」なのである。
なお「玄室」とは遺骸を納める主室のこと。「両袖式」とは、羨道(せんどう=入口通路)と玄室の境目の両側に袖石がある形式のこと。テキストにはこんな用語解説がないので、「古墳の説明はチンプンカンプンだ」といわれるのだ。

平群神社
頂上から西宮古墳が見渡せるので、場所はよく分かる。住宅地を歩き出すと、ほどなく平群神社(平群町西宮)が見えてきた。境内由緒記によると《御祭神大山祇神は山野を司る神で、平群氏の祖武内宿祢が神功皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願し、この地に祀ったと伝う。のち五穀豊穣と、武運長久、家内安全の守護神として信仰をあつめ、今日に至る》とある。

平群神社を過ぎると、まもなく西宮古墳
畳薦さんのレポートによると《西宮古墳は公園内に整備されているので簡単に発見。なるほど方墳、開口していて、石棺も一部が残る。祠もあるので、意味のある場所であった》。


確かに、向かって左手に祠(ほこら)が作られている。テキストによるとこの古墳は《三段築成の方墳である》《埋葬施設は両袖式の横穴式石室》《石室の長さは13.8メートルほどで、精緻な切り石の巨石を用いた横穴式石室として古くから有名である》。築造は七世紀頃だそうだ。

六興出版の『大和の古墳を語る』には、《平群町一帯は平群谷ともいわれ、古代豪族の平群氏の根拠地だったと考えられており、西宮古墳や烏土塚古墳などは平群氏の首長の墓とみてさしつかえないだろう。5世紀に興隆した平群氏が7世紀にあっても大きな勢力を保持していたことが西宮古墳の存在からも知られよう》とある。
このほか平群谷には、長屋王墓や三里古墳などの古墳がある。畳薦さんはこれら4つの古墳を原付バイクで訪ねておられる。これから春にかけて、ハイキング気分で見学するのも良いだろう。
これは、昨年1月に実施された「奈良まほろばソムリエ検定」奈良通1級試験に出題された問題である。「ア.宮山古墳」は、御所市室にある古墳で、室大墓(むろのおおはか)とか室宮山古墳とも呼ばれている。これは、地理的に全く違う。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/57acc436153f81eab2718a125e4d5ec3
「ウ.三里(みさと)古墳」は平群町三里にあり、玄室の奥に石棚のあるのが特徴だ。この古墳は竜田川の「東岸」にあるから、これも違う。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/a4c05448b5ff951a28e03082bc675115
1/31(土)、残る「イ.烏土塚(うどづか)古墳」と「エ.西宮古墳」(どちらも竜田川西岸にある)を訪ねてきたので、ここで紹介する。

近鉄竜田川駅下車。南側の踏切を越えて坂を登るとこの標識がある
これらの古墳については、当ブログ常連コメンテーターの畳薦さん(平群町在住)が、「平群の古墳探訪」として、現地レポートを書いて下さっている(上記「三里古墳」記事のコメント欄)。引用させていただくと、

《烏土塚古墳はかわいそうに住宅地に浸食されて石垣の腰巻きを巻いて、やっと残る。姿の美しさが欠けるが墳頂に登り、南側の横穴式石室開口部に至る》。これは巨大な古墳である。平群谷で最大だそうだが、閑静な住宅地の中に屹立(きつりつ)しているさまは、圧巻である。写真を撮っていると、近所の子供に「旅の人?」と声をかけられた。


墳頂からの眺望。中央の小高い丘の向かって左が西宮古墳


ここを降りると石室に至る
《石棺の蓋はないが形態は残る。天井石が巨大。墳頂からは西宮古墳の開口部が見えた》。墳頂から坂と階段を降りると石室がある。真っ暗闇で不気味である。カメラの感度をISO1600に設定し、柵の間から何とか石棺を撮った。


ストロボがなければ、真っ暗闇だ
『奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック』(P107)によると《花崗岩の巨石を用いた両袖式の横穴式石室》《玄室の石棺東側面には斜格子文の線刻が見つかり、県内での石棺装飾の数少ない類例である》。つまり冒頭の問題の正解は「イ.烏土塚古墳」なのである。
なお「玄室」とは遺骸を納める主室のこと。「両袖式」とは、羨道(せんどう=入口通路)と玄室の境目の両側に袖石がある形式のこと。テキストにはこんな用語解説がないので、「古墳の説明はチンプンカンプンだ」といわれるのだ。

平群神社
頂上から西宮古墳が見渡せるので、場所はよく分かる。住宅地を歩き出すと、ほどなく平群神社(平群町西宮)が見えてきた。境内由緒記によると《御祭神大山祇神は山野を司る神で、平群氏の祖武内宿祢が神功皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願し、この地に祀ったと伝う。のち五穀豊穣と、武運長久、家内安全の守護神として信仰をあつめ、今日に至る》とある。

平群神社を過ぎると、まもなく西宮古墳
畳薦さんのレポートによると《西宮古墳は公園内に整備されているので簡単に発見。なるほど方墳、開口していて、石棺も一部が残る。祠もあるので、意味のある場所であった》。


確かに、向かって左手に祠(ほこら)が作られている。テキストによるとこの古墳は《三段築成の方墳である》《埋葬施設は両袖式の横穴式石室》《石室の長さは13.8メートルほどで、精緻な切り石の巨石を用いた横穴式石室として古くから有名である》。築造は七世紀頃だそうだ。

六興出版の『大和の古墳を語る』には、《平群町一帯は平群谷ともいわれ、古代豪族の平群氏の根拠地だったと考えられており、西宮古墳や烏土塚古墳などは平群氏の首長の墓とみてさしつかえないだろう。5世紀に興隆した平群氏が7世紀にあっても大きな勢力を保持していたことが西宮古墳の存在からも知られよう》とある。
このほか平群谷には、長屋王墓や三里古墳などの古墳がある。畳薦さんはこれら4つの古墳を原付バイクで訪ねておられる。これから春にかけて、ハイキング気分で見学するのも良いだろう。