tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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山添村の神社めぐり

2009年02月23日 | 奈良にこだわる
山添村には古社が多いのに、残念ながらあまり知られていない。奈良まほろばソムリエ検定(奈良検定)のテキストには1社も掲載されていないが、由緒も特徴もある神社が多いので、ここでまとめて紹介することにしたい。

これらは2/18~20にかけて、奥谷和夫さん(山添むらづくり協議会会長、山添村観光ボランティアの会副会長)のご案内でお参りした神社である。参拝順に記載すると…。

●六所神社
初日(2/18)、まずお参りしたのは、六所(ろくしょ)神社(同村峰寺)である。峰寺、的野、松尾それぞれの村落の氏神として祀られているが、式内社「天乃石吸(あめのいわすえ)神社」の候補地でもある。なお「式内社」とは《「延喜式」の中の巻9、10の神名帳に登載された神社の称》(奈良検定テキスト)である。祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと=山の神)で、神社の背後に氏神山がそびえる。
※参考:いいちの杜「奈良 山添村の神社」(関西の神社を紹介するホームページ)
http://www.kcat.zaq.ne.jp/iiti906/yamazoe.htm





ご覧のように、巨石の上に祠が建てられている。この巨石は「磐座(いわくら)」なのだ。磐座とは、『日本考古学小辞典』(ニュー・サイエンス社刊)によれば《社殿の発生以前の信仰的対象物。(中略)神が降臨した際に座す石という観念より起こったもの》である。もともと氏神山や巨石(磐座)を拝んでいたものが、後になって社殿を建てたのだろう。巨石は、今回の同村探訪中に、村内各所で目にすることになる。



境内の巨石の1つには、建武5年(1338年)の銘文のある「不動明王像」(像高約70cm)が刻まれ、村指定文化財となっていた。

●(北野)天神社
六所神社から東に行くと天神社(てんじんじゃ 同村北野)がある。室町時代の建築様式を伝える一間社春日造(いっけんしゃ かすがづくり)の本殿は、国の重要文化財に指定されている。



なお一間社とは、横に並んだ丸柱の間隔が1間(柱は2本)のもの。間隔が3間だと三間社(柱は4本)という。春日造とは、正面に庇がついた形で、大陸の建築手法の影響といわれる。ちなみに山添村で拝見した社殿は、ほとんどすべてが春日造だった。



祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という天地創造の神さまだ。この神名は、天(高天原)の中央に座する主宰神という意味なのだそうだ。この天神社本殿の隣りに美統(みすまる)神社が祀られている。北野地区の五つの社が明治時代に移され、大正時代に社名が付けられたものだという(本殿は村の指定文化財)。道路際には立派なしだれ桜があり、これはぜひ、桜の季節に再訪しなければ…。

●八柱神社
2/19には八柱(やばしら)神社(同村岩屋)にお参りした。名前の通り8人(柱)の神さまをお祀りしている。写真の向かって右(燈籠の向こう側)にムクロジ(無患子)の木がある。筒井順慶が伊賀攻め(1580年)のときに八柱神社に立ち寄り、この木に鉾(ほこ)を立てかけて戦勝を祈願したことから「鉾立ての木」と呼ばれている。





鳥居の手前に川が流れていて、高さ6mほどの滝がある。修行の滝なのだろうか、2人の子供を従えた不動明王像が安置されていた(向かって右のまん中あたり)。



●神波多神社
最終日の2/20には、3つの神社にお参りした。まずは中峰山(ちゅうむざん)の式内社・神波多(かみはた、かんぱた)神社だ。この神社のことは山川出版社の『奈良県の歴史散歩(下)』に出ている。

《由緒については、1581年(天正9年)の織田信長の伊賀攻めの際に古記録を焼失したようで詳らかではないが、『延喜式』によると、畿内の堺10カ所に疫神(えきしん)をまつった記事が見えるのと主祭神のにおいては素戔嗚尊(すさのおのみこと)から式内社とされている。そのため古来「波多の天王さん」ともよばれ大和・伊賀の信奉を集めていたようである》。10/15の例祭では《神輿(みこし)の渡御(とぎょ)・獅子神楽(ししかぐら)が行われている》。


向かって左が拝殿、右が本殿

拝殿の額に「牛頭天王社」とある。神波多神社は、素戔嗚尊と、その本地(ルーツ)である牛頭天王(ごずてんのう)という神さまをお祀りしているのだ。



本殿は五間社流造(ごけんしゃ ながれづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)・銅板覆だそうだ。山添村では春日造ぱかり見てきたので流造は珍しい。よく見ようと思ったが、残念ながら拝殿と本殿がギリギリに接近していて、よく見えなかった。



境内には正和元年(1312年)の銘がある石灯籠があり、信長の伊賀攻めの戦火の跡をとどめている(支柱に、焼けたような赤い色が残っている)。


神波多神社の若宮社

神社の急な石段を下り、真っ直ぐに小高い丘を上り下りすると若宮社がある。10/15の例祭では、お神輿が若宮社まで行くのだそうだ。


若宮社の牛の像
 
●岩尾神社
岩尾神社は山添村吉田にある。吉田地区の氏神さまだそうだが、とてつもなく大きな2つの岩(高さ約4m・村指定文化財)がご神体である。祭神は岩尾大神。岩尾は「巌」(「いわお イハホ[ホは穂の意]高く突き出た大きな石」広辞苑)のことだろう。




岩尾神社(冒頭の写真とも)

六所神社のところで「磐座」(いわくら=神が降臨した際に座す石)に触れたが、岩尾神社には、神体石以外にも、岩尾大神がここに降りられたときの荷物という箪笥(タンス)、長持、ハサミ、つづら(葛籠)、鏡台、水鉢などと名付けられた巨石がゴロゴロしている。境内の案内板にあるように《巨石崇拝の伝承として極めて貴重な存在》なのである。
※参考:「山添村の聖石群」考古学好きのサラリーマンMURY(ムーリー)さんのホームページ
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/yamazoe1top.html





奥谷さんによるとこの神社には、16歳以下の少年が川原で拾った小石を参拝者に売り、参拝者はその石を神前に備える、という祭儀(石売り行事)があるそうだ。

●吉備津神社と山の神
吉備津神社(山添村西波多)も、巨石がご神体である。案内板によると《当神社の御神体は、境内山腹の巨岩(高さ6メートル・幅1メートル)であり、古代人が崇拝した「神」降臨し給う岩石信仰をそのまま継承して今日に及び、村内においてもその起源は極めて古い》。木が茂り、石は見えにくいが、写真中央の祠の背後にある。



祭神は、大和朝廷に刃向かう吉備の国を攻めて平定した吉備津彦之命(きびつひこのみこと)である。《鉄の神吉備津神社関係は全国に約五百社とされるが、奈良県内に於ては当社ただひとつである》。



この神社の境内地(丘の上)に「山之神」の石碑があった。毎年1/7、山添村の各村落では、山の神さまの祭りを行うのである。山の神さまは春に山から下りて田の神となり五穀豊穣をもたらし、秋には山に入って山仕事をする人たちの安全を守って下さるのである。


3日間ご案内いただいた奥谷和夫さん

祭りの日は早朝から各戸の男性(山の神さまは女性なので男性だけが参加)が集まり、石碑や神体岩に鍬(くわ)や熊手、鋤(すき)、鎌などの農具のミニチュア(木製)や木刀をお供えする。同時に、2メートルほどの椿の枝を木に引っ掛け、引っ張るような所作(鍵引き)をする。福が舞い込みますように、と願うのだ。その時に歌う歌が石碑に刻まれていた。



「西のくにのいとわた(糸・綿) 東のくにのぜにこめ(銭・米) だいこ(大根)はきね(杵)ほど かぶらはうす(臼)ほど 山の神のヤッサンヤー」~♪。奥谷さんは、これに節をつけて歌って下さったが、村落によって多少歌詞は異なるのだそうだ。


ホウデン(Hoden)

枝には、藁で作った二股の房(福俵)が付いていて、これをホウデンと呼ぶ(1つだけ残っていたのを写真に撮った)。男性の睾丸を象(かたど)っているのだ(山の神さまを喜ばせるため)。ホーデン(Hoden)はドイツ語で睾丸のことだが、偶然の一致とはいえ、面白いネーミングである。

巨石信仰に山の神、磨崖仏にしだれ桜など、山添村の古社には知る人ぞ知る魅力がいっぱい詰まっている。ぜひ、いちどお訪ねいただきたい。

奥谷さん、ご案内有難うございました。

コメント (4)
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