2/18(水)~20(金)、休暇を取って山添村(奈良県山辺郡)に泊まってきた。奈良まほろばソムリエ検定(奈良検定)の公式テキストには、山添村のことがよく出てくるが、神野山(こうのさん、こうのやま)以外には行ったことがないので、どうもピンと来なかった。
昨年11/15、地域づくり支援機構(理事長:奈良県立大学教授・村田武一郎氏)が主催するシンポジウムがあり、そこでパネラーの奥谷和夫さん(山添むらづくり協議会会長、山添村観光ボランティアの会副会長、同村議会議員)から、同村で宿泊観光に取り組んでおられるという話をお聞きした。県立大の学生によるモニターツアー(民家に宿泊)も受け入れられたそうだ。
※地域づくり支援機構シンポジウム(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/419b10a57a705e4671259c558e2263bc
いつも笑顔の奥谷和夫さん(08.11.15撮影)
早速、シンポジウムの後で名刺交換をさせていただき「いちど、山添村で宿泊観光を体験させて下さい」とお願いすると、二つ返事でご承諾いただいた。奥谷さんのお車に同乗し、観光ガイドもしていただけるとの有り難いお話だった。
※山添村観光ボランティアの会ホームページ
http://www.yamazoemura.jp/
私はちょうど1週間の永年勤続休暇(勤続30年の特別休暇)が取れるので、このたび厚かましくお願いすることにした。3日間、奥谷さんにガイドしていただいたおかげて、村の魅力を存分に体感することができた。これから何回かに分けて、当ブログで同村の見どころを紹介することにしたい。
●毛原廃寺
お寺をご案内いただいたのは、すべて2/19(木)だ。山添村のお寺といえば、まずは「毛原(けはら)廃寺」跡(国指定史跡 山添村毛原)である。村のHPによると《笠間川を眼下に見る山麓に、奈良時代帝都の大寺院に比肩する堂々たる七堂伽藍が毛原に建立されていたことを立証する金堂跡、中門跡、南門跡の礎石が当時のまま残っている》。
《毛原廃寺に関する文書記録はないが、奈良大仏殿建立のために勅施入された東大寺領板蠅の杣の境域内にあったことから、東大寺の杣支配所とも考えられている》。板蝿杣(いたばえのそま)とは、板蝿の地にあって、木を植え育て、東大寺で使う材をとる山林のことだ。ただし奥谷さんによれば、橿原考古学研究所の『毛原廃寺の研究』は、この説を否定しているそうだ(東大寺より毛原寺の方が完成が早いことなどから)。
http://www.vill.yamazoe.nara.jp/kankou/k-keharahaiji.htm
金堂跡の巨大な礎石群(冒頭写真とも)
奈良検定テキストには《『大和志料』(上巻)の山辺郡の項に「気原伽藍址」とあり、礎石の数170余》と出ている。奥谷さんによると、現存しているのは約70個だそうだが、それでもすごい数だ。目についた石をいくつかカメラに収めたが、立派な礎石ばかりである。石の状況からすれば、金堂は唐招提寺の金堂に匹敵する規模だという。
南門跡
下の写真の毛原寺食堂(じきどう)跡の礎石は、バス停「毛原神社前」の横にある。現地の案内板(山添村教育委員会)によると、食堂跡は、礎石の場所から東へ行ったところ(現在は田んぼ)で、その地下に埋設していた礎石は、1938年(昭和13年)に運び出されて行方知れずになっていた。その後、芦屋市の黒川古文化財研究所が文化財の散逸を防ぐため一括入手して保管していたことが判明し、1974年(昭和49年)、同研究所が移転するにあたり、地元へ寄贈する旨の申し入れがあって26年ぶりに里帰りしたものだそうだ。これらの礎石は金堂や南門の礎石に比べると小ぶりで、食堂跡も金堂跡に比べると小規模なのだそうだ。
食堂の礎石(食堂跡は、もっと東)
奥谷さんに面白い記事を見せていただいた。伊和新聞(三重県名張市)2004年(平成16年)の記事で、見出しは《毛原廃寺創始者は? 有望視される長屋王説》だ。郷土史家の森本氏(名張市黒田荘)の説で、「美江寺観音縁起」によれば、元正天皇は長屋王に美濃の美江寺建立を命じた。そこから類推して、その次に天皇は長屋王に伊賀寺(毛原寺)の建立を命じたのではないか、という説だ。有力説ではないようだが、それほど立派な寺跡なのである。
尻尾に特徴がある
毛原廃寺南門跡付近の畑に、何やら奇妙な動物がいた。タヌキかと思ったら、奥谷さんは「アライグマですよ」とおっしゃる。動物園以外でアライグマを見るのは初めてだ。「あらいぐまラスカル」というアニメがあったが、「これは、あらいぐまケハラスカルだな」などと、くだらないシャレを思いついてしまった。もちろん、奥谷さんには内緒である。
※あらいぐまラスカル(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%90%E3%81%BE%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB
私たちに見つかったので、あわてて垣根の向こうの道路に飛び出した
やがてケハラスカルは、もとのねぐらに帰って行った
●長久寺
毛原廃寺近くの長久寺(同村毛原)というお寺にご案内いただいた。村指定の名勝で、案内板によれば《「毛原寺」の荒廃後に建てられたもので、古くから東大寺戒壇院の末となっていた》《長久寺中興の祖と仰がれる智龍上人(ちりゅうしょうにん)は、自力で山を開き自然を活かしつつ数多くの石仏を安置し、明治15年霊場「大師山(たいしやま)」を創設した》とある。裏山に「新四国八十八ヶ所霊場」を作るなど、相当パワーのあるお坊さんだったようだ。
長久寺本堂
新四国八十八ヶ所霊場への入口
●阿弥陀磨崖仏
ここから笠間川の方に降りていくと、対岸に「下笠間の永仁阿弥陀磨崖仏」(宇陀市指定文化財 宇陀市室生区下笠間)があった。鎌倉時代後期の永仁2年(1294年)の作で、163cmの花崗岩製石仏だ。笠間街道は、古来大和から伊勢に向かう道だったので、お伊勢参りなどの旅の平安を祈る石仏が彫られているのだそうだ。相当摩滅しているので、写真でお分かりいただけるかどうか不安だが、柔和なお顔の仏さまである。
●神野寺
山添村で最も著名な観光地が、神野山だ。昭和33年に奈良県指定名勝となり、昭和50年には「県立月ヶ瀬神野山自然公園」に指定されている。奥谷さんのご案内で鍋倉渓(なべくらけい)を登り、山頂から少し下ると神野寺(こうのでら、こうのじ 同村伏拝)に着いた。下から探すと相当分かりにくそうな場所だが、奥谷さんに従って山頂から降りると、あっという間に山門が見えてきた。
村のHPには、《聖武天皇の時代、天平12年(740)僧行基によって建立されたと伝えられ、平安初期にはすでに世に知れた名刹であったと思われます。また、当寺の薬師如来坐像は僧行基が自作奉安したものと伝えられています》《国指定重要文化財の銅造菩薩半跏像は、奈良国立博物館に寄託》とある。
http://www.vill.yamazoe.nara.jp/kankou/k-kounoji.htm
神野寺山門
お寺の看板には「聖武天皇勅願所」とあるが、不思議と奈良検定のテキストに神野寺の記載はない。お寺は競争率が高いのだろう。飛鳥時代の仏さまといわれる「銅造菩薩半跏像」は写真で拝見したが、中宮寺と同じスタイルの仏像の小型版で、見事な宝冠を頂いていた。
神野寺本堂
神野山の境内と寺領は村の指定名勝である。奈良時代の山間寺院の境内形態をよく残し、寺領地域には、亜熱帯に生育するマテバシイ(馬刀葉椎)やタブノキ(椨の木)の群生林が残り、弁天池にはジュンサイ(蓴菜)やハッチョウトンボ(八丁蜻蛉=日本一小さいトンボ)が見られ、生物学上の価値が高いのだそうだ。
帰路、奥谷さんが「茶畑の上で梅が咲いていますよ」と教えて下さった
山添村にこんなに名刹があるとは、ついぞ知らなかった。他にも西方寺(さいほうじ 同村広瀬)には、快慶作の檜造阿弥陀如来立像(国重文)があるそうだ。写真を見せていただいたが、損傷のない立派な仏さまである。毛原廃寺以外、山添村と寺院はあまり結び付かなかったが、これからは心を入れ替えなければならない。
昨年11/15、地域づくり支援機構(理事長:奈良県立大学教授・村田武一郎氏)が主催するシンポジウムがあり、そこでパネラーの奥谷和夫さん(山添むらづくり協議会会長、山添村観光ボランティアの会副会長、同村議会議員)から、同村で宿泊観光に取り組んでおられるという話をお聞きした。県立大の学生によるモニターツアー(民家に宿泊)も受け入れられたそうだ。
※地域づくり支援機構シンポジウム(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/419b10a57a705e4671259c558e2263bc
いつも笑顔の奥谷和夫さん(08.11.15撮影)
早速、シンポジウムの後で名刺交換をさせていただき「いちど、山添村で宿泊観光を体験させて下さい」とお願いすると、二つ返事でご承諾いただいた。奥谷さんのお車に同乗し、観光ガイドもしていただけるとの有り難いお話だった。
※山添村観光ボランティアの会ホームページ
http://www.yamazoemura.jp/
私はちょうど1週間の永年勤続休暇(勤続30年の特別休暇)が取れるので、このたび厚かましくお願いすることにした。3日間、奥谷さんにガイドしていただいたおかげて、村の魅力を存分に体感することができた。これから何回かに分けて、当ブログで同村の見どころを紹介することにしたい。
●毛原廃寺
お寺をご案内いただいたのは、すべて2/19(木)だ。山添村のお寺といえば、まずは「毛原(けはら)廃寺」跡(国指定史跡 山添村毛原)である。村のHPによると《笠間川を眼下に見る山麓に、奈良時代帝都の大寺院に比肩する堂々たる七堂伽藍が毛原に建立されていたことを立証する金堂跡、中門跡、南門跡の礎石が当時のまま残っている》。
《毛原廃寺に関する文書記録はないが、奈良大仏殿建立のために勅施入された東大寺領板蠅の杣の境域内にあったことから、東大寺の杣支配所とも考えられている》。板蝿杣(いたばえのそま)とは、板蝿の地にあって、木を植え育て、東大寺で使う材をとる山林のことだ。ただし奥谷さんによれば、橿原考古学研究所の『毛原廃寺の研究』は、この説を否定しているそうだ(東大寺より毛原寺の方が完成が早いことなどから)。
http://www.vill.yamazoe.nara.jp/kankou/k-keharahaiji.htm
金堂跡の巨大な礎石群(冒頭写真とも)
奈良検定テキストには《『大和志料』(上巻)の山辺郡の項に「気原伽藍址」とあり、礎石の数170余》と出ている。奥谷さんによると、現存しているのは約70個だそうだが、それでもすごい数だ。目についた石をいくつかカメラに収めたが、立派な礎石ばかりである。石の状況からすれば、金堂は唐招提寺の金堂に匹敵する規模だという。
南門跡
下の写真の毛原寺食堂(じきどう)跡の礎石は、バス停「毛原神社前」の横にある。現地の案内板(山添村教育委員会)によると、食堂跡は、礎石の場所から東へ行ったところ(現在は田んぼ)で、その地下に埋設していた礎石は、1938年(昭和13年)に運び出されて行方知れずになっていた。その後、芦屋市の黒川古文化財研究所が文化財の散逸を防ぐため一括入手して保管していたことが判明し、1974年(昭和49年)、同研究所が移転するにあたり、地元へ寄贈する旨の申し入れがあって26年ぶりに里帰りしたものだそうだ。これらの礎石は金堂や南門の礎石に比べると小ぶりで、食堂跡も金堂跡に比べると小規模なのだそうだ。
食堂の礎石(食堂跡は、もっと東)
奥谷さんに面白い記事を見せていただいた。伊和新聞(三重県名張市)2004年(平成16年)の記事で、見出しは《毛原廃寺創始者は? 有望視される長屋王説》だ。郷土史家の森本氏(名張市黒田荘)の説で、「美江寺観音縁起」によれば、元正天皇は長屋王に美濃の美江寺建立を命じた。そこから類推して、その次に天皇は長屋王に伊賀寺(毛原寺)の建立を命じたのではないか、という説だ。有力説ではないようだが、それほど立派な寺跡なのである。
尻尾に特徴がある
毛原廃寺南門跡付近の畑に、何やら奇妙な動物がいた。タヌキかと思ったら、奥谷さんは「アライグマですよ」とおっしゃる。動物園以外でアライグマを見るのは初めてだ。「あらいぐまラスカル」というアニメがあったが、「これは、あらいぐまケハラスカルだな」などと、くだらないシャレを思いついてしまった。もちろん、奥谷さんには内緒である。
※あらいぐまラスカル(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%90%E3%81%BE%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB
私たちに見つかったので、あわてて垣根の向こうの道路に飛び出した
やがてケハラスカルは、もとのねぐらに帰って行った
●長久寺
毛原廃寺近くの長久寺(同村毛原)というお寺にご案内いただいた。村指定の名勝で、案内板によれば《「毛原寺」の荒廃後に建てられたもので、古くから東大寺戒壇院の末となっていた》《長久寺中興の祖と仰がれる智龍上人(ちりゅうしょうにん)は、自力で山を開き自然を活かしつつ数多くの石仏を安置し、明治15年霊場「大師山(たいしやま)」を創設した》とある。裏山に「新四国八十八ヶ所霊場」を作るなど、相当パワーのあるお坊さんだったようだ。
長久寺本堂
新四国八十八ヶ所霊場への入口
●阿弥陀磨崖仏
ここから笠間川の方に降りていくと、対岸に「下笠間の永仁阿弥陀磨崖仏」(宇陀市指定文化財 宇陀市室生区下笠間)があった。鎌倉時代後期の永仁2年(1294年)の作で、163cmの花崗岩製石仏だ。笠間街道は、古来大和から伊勢に向かう道だったので、お伊勢参りなどの旅の平安を祈る石仏が彫られているのだそうだ。相当摩滅しているので、写真でお分かりいただけるかどうか不安だが、柔和なお顔の仏さまである。
●神野寺
山添村で最も著名な観光地が、神野山だ。昭和33年に奈良県指定名勝となり、昭和50年には「県立月ヶ瀬神野山自然公園」に指定されている。奥谷さんのご案内で鍋倉渓(なべくらけい)を登り、山頂から少し下ると神野寺(こうのでら、こうのじ 同村伏拝)に着いた。下から探すと相当分かりにくそうな場所だが、奥谷さんに従って山頂から降りると、あっという間に山門が見えてきた。
村のHPには、《聖武天皇の時代、天平12年(740)僧行基によって建立されたと伝えられ、平安初期にはすでに世に知れた名刹であったと思われます。また、当寺の薬師如来坐像は僧行基が自作奉安したものと伝えられています》《国指定重要文化財の銅造菩薩半跏像は、奈良国立博物館に寄託》とある。
http://www.vill.yamazoe.nara.jp/kankou/k-kounoji.htm
神野寺山門
お寺の看板には「聖武天皇勅願所」とあるが、不思議と奈良検定のテキストに神野寺の記載はない。お寺は競争率が高いのだろう。飛鳥時代の仏さまといわれる「銅造菩薩半跏像」は写真で拝見したが、中宮寺と同じスタイルの仏像の小型版で、見事な宝冠を頂いていた。
神野寺本堂
神野山の境内と寺領は村の指定名勝である。奈良時代の山間寺院の境内形態をよく残し、寺領地域には、亜熱帯に生育するマテバシイ(馬刀葉椎)やタブノキ(椨の木)の群生林が残り、弁天池にはジュンサイ(蓴菜)やハッチョウトンボ(八丁蜻蛉=日本一小さいトンボ)が見られ、生物学上の価値が高いのだそうだ。
帰路、奥谷さんが「茶畑の上で梅が咲いていますよ」と教えて下さった
山添村にこんなに名刹があるとは、ついぞ知らなかった。他にも西方寺(さいほうじ 同村広瀬)には、快慶作の檜造阿弥陀如来立像(国重文)があるそうだ。写真を見せていただいたが、損傷のない立派な仏さまである。毛原廃寺以外、山添村と寺院はあまり結び付かなかったが、これからは心を入れ替えなければならない。