トップ写真は二上山ではなく、信貴山である(右が雄岳=437m、左が雌岳=400.5m)。王寺駅前の「りーべる王寺」5階の「雪丸カフェ」から外を見たとき、「ええっ、何でここに二上山?」と驚いてしまったが、よく考えればこれは信貴山だ。大和盆地から見慣れている二上山と違い、信貴山は少し遠くてなじみがないので、つい錯覚してしまうのである。信貴山・雄岳の標高は437mだから、標高322mの二上山より、ずっと高いのであるが。
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」が毎日新聞奈良版に毎週木曜日に連載している「ディスカバー!奈良」、先週(2/1)掲載されたのは「大和支配の大規模拠点 平群町の信貴山城跡」、執筆されたのは安堵町在住の柏尾信尚(かしお・のぶひさ)さんである。
柏尾さんは「斑鳩の里観光ボランティアの会」のメンバーでもあり、ガイド名人を認定する「Nara観光コンシェルジュアワード」で優秀賞も受賞されている。鉄道マニア、大相撲ファンでもある。『世界大百科事典』の「信貴山城」によると、
大和・河内の国境にある生駒山系の南部,信貴山(標高437m)にあった中世山城(現,奈良県生駒郡平群町信貴畑)。東の平群(へぐり)谷,南の大和川沿い竜田越(たつたごえ),北の生駒山十三越からほぼ等距離にあり,大和,河内をあわせ制圧する絶好の戦略的位置にある。
という恵まれた立地にあった。この城を有名にしたのは「信貴山城の戦い」(松永久秀討伐戦)だ。天正5年(1577年)10月5日~10日、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城・信貴山城で行われた攻城戦である。久秀は愛器「平蜘蛛の茶釜」を抱いて自爆したとされているが、そうではないという説も現れている。とまあ、こういう予備知識を仕入れていただいてから、今回の記事全文を引用する。
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信貴山城址の石碑
大和支配の大規模拠点 平群町の信貴山城跡
信貴山城は大和と河内国境、生駒山系の南側に位置する標高437㍍の信貴山上に築かれました。南北朝時代に楠木正成が築城したとされるなど伝承は多いですが、史料では1536(天文5)年に河内の木沢長政が使ったことが確認でき、この頃には相当な規模の城が築かれていたと思われます。1559(永禄2)年には、松永久秀が改修し入城、南都に築いた多聞城とともに大和支配の拠点としました。
信貴山城は基本的に土を盛った土塁のような構造でしたが、山頂には小規模ながら天守も存在していたと考えられ、大和最大規模の中世城郭だったと思われます。北側の主尾根には石垣、土塁、切崖そして門のある居館があったと推測され、古絵図には「松永屋敷」も確認できます。そのような信貴山城も1577(天正5)年、織田信長に攻められ松永氏は滅亡、信貴山城は廃城となりました。現在も山上からは大阪平野南部の眺望が楽しめます。
メモ 信貴山城跡にはJR・近鉄王寺駅から奈良交通バスで約25分、信貴大橋下車、信貴山朝護孫子寺の境内を通り、徒歩約40分(奈良まほろばソムリエの会 柏尾信尚)。
松永屋敷跡などは、住民の手で整備が進められている。暖かくなれば、いちどお訪ねいただきたい。柏尾さん、興味深い記事をありがとうございました!
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」が毎日新聞奈良版に毎週木曜日に連載している「ディスカバー!奈良」、先週(2/1)掲載されたのは「大和支配の大規模拠点 平群町の信貴山城跡」、執筆されたのは安堵町在住の柏尾信尚(かしお・のぶひさ)さんである。
柏尾さんは「斑鳩の里観光ボランティアの会」のメンバーでもあり、ガイド名人を認定する「Nara観光コンシェルジュアワード」で優秀賞も受賞されている。鉄道マニア、大相撲ファンでもある。『世界大百科事典』の「信貴山城」によると、
大和・河内の国境にある生駒山系の南部,信貴山(標高437m)にあった中世山城(現,奈良県生駒郡平群町信貴畑)。東の平群(へぐり)谷,南の大和川沿い竜田越(たつたごえ),北の生駒山十三越からほぼ等距離にあり,大和,河内をあわせ制圧する絶好の戦略的位置にある。
という恵まれた立地にあった。この城を有名にしたのは「信貴山城の戦い」(松永久秀討伐戦)だ。天正5年(1577年)10月5日~10日、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城・信貴山城で行われた攻城戦である。久秀は愛器「平蜘蛛の茶釜」を抱いて自爆したとされているが、そうではないという説も現れている。とまあ、こういう予備知識を仕入れていただいてから、今回の記事全文を引用する。
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信貴山城址の石碑
大和支配の大規模拠点 平群町の信貴山城跡
信貴山城は大和と河内国境、生駒山系の南側に位置する標高437㍍の信貴山上に築かれました。南北朝時代に楠木正成が築城したとされるなど伝承は多いですが、史料では1536(天文5)年に河内の木沢長政が使ったことが確認でき、この頃には相当な規模の城が築かれていたと思われます。1559(永禄2)年には、松永久秀が改修し入城、南都に築いた多聞城とともに大和支配の拠点としました。
信貴山城は基本的に土を盛った土塁のような構造でしたが、山頂には小規模ながら天守も存在していたと考えられ、大和最大規模の中世城郭だったと思われます。北側の主尾根には石垣、土塁、切崖そして門のある居館があったと推測され、古絵図には「松永屋敷」も確認できます。そのような信貴山城も1577(天正5)年、織田信長に攻められ松永氏は滅亡、信貴山城は廃城となりました。現在も山上からは大阪平野南部の眺望が楽しめます。
メモ 信貴山城跡にはJR・近鉄王寺駅から奈良交通バスで約25分、信貴大橋下車、信貴山朝護孫子寺の境内を通り、徒歩約40分(奈良まほろばソムリエの会 柏尾信尚)。
松永屋敷跡などは、住民の手で整備が進められている。暖かくなれば、いちどお訪ねいただきたい。柏尾さん、興味深い記事をありがとうございました!
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