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「木津の文化財と緑を守る会」の40年/奈良日日新聞「奈良ものろーぐ」第34回

2019年02月18日 | 奈良ものろーぐ(奈良日日新聞)
毎月第4金曜日、週刊奈良日日新聞に「奈良ものろーぐ」というコラムを連載している。先月(1月26日)掲載されたのは「木津の文化財と緑を守る会/地元を学び見守り40年」だった。同会の岩井照芳会長は、地元ではよく知られた郷土史家で、2008年10月には興福寺旧境内を案内していただいた(第1回古社寺を歩こう会)。
※トップ写真は鹿背山(かせやま)城跡から泉津を撮ったもの(後藤啓治さんの撮影)

同会が昨年40周年をお迎えになったことは、新聞報道で知った。早速岩井さんに電話して、設立40周年の記念誌を取り寄せた(送料込み@1,000円)。内容の充実ぶりには驚いた。そこで木津晒(きづさらし)のことを知り、コラムに書いたのである。では全文を紹介する。

木津の文化財と緑を守る会/地元を学び見守り40年
「木津の文化財と緑を守る会」(岩井照芳会長)は昨年(平成30年)、設立40周年をお迎えになった、おめでとうございます。

昭和51年(1976)、奈良時代の官庁跡とみられる「上津(こうづ)遺跡」が木津川沿いの港(泉津)の一角で発見された。この保存運動に立ち上がったが、望みはかなわなかった。「失敗の最大の原因は、歴史の知識が不足していたことだ」との反省から、昭和53年(一九七八)研究部会を立ち上げ、その成果を講演会や町の広報誌に発表してこられた。

岩井会長には平成20(2008)年10月、「興福寺の廃仏毀釈」をテーマに講話と現地見学会をお願いし、約20人の仲間と旧境内地を歩いた。会長の深い知識と丁寧なガイドぶりには感服した。

昨年11月、同会は設立40周年記念誌を発刊された。充実した研究レポートのなかで特に目を引いたのが、「木津晒(きづざらし)」の話だ。奈良晒はよく知られている。「麻の織物で肌ざわりがよく、汗もはじくので、鎌倉期以来、神官や僧尼の衣に好まれてきた。江戸時代初め、清須美源四郎が晒法を改良、徳川家康に誉められ、幕府の保護を受けて販路も拡大した。明暦3年(1657)、奈良町の惣年寄が麻布に検査印を押すことになった」(『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』)。

一方、木津晒の実態はよく分からなかった。今回、岩井会長は古文書『山城判場(はんば)之由緒』などから、木津晒は独立したブランドであり、布に検査印を押す判場が木津にあったことをつきとめたのである。

こんなエピソードも添えられている。「筆者(岩井会長)の近所にお住いのハンジ(屋号)さんと世間話をしているとき、偶然『うちの家は木津の判場で印を押すことを生業としていた』と聞かされびっくりした」。

会長は「今も木津川市の経済・文化圏は奈良で、京都府民は『木津は奈良』と見ている。しかし奈良県民からすると『木津は京都』となり、エアポケットのようになっている。恭仁京(くにきょう)の研究や復元整備が進まないのも、それが一因」。同会は今も活発に研究や講演活動を行うとともに、鹿背山(かせやま)城跡の整備(これまでに約300回)にも取り組んでいる。

事務局長の後藤啓治さんは記念誌に「城整備雑感」として、このように記している。「草を刈る人、倒木を切り、細かく裁断し、置き場を確保するための場所整備等、全員が一心不乱に作業に専念」「2時間程で作業が終わり、改めて周囲を見渡すと、あれほど荒れていた主郭が見事に整備され、見学に来られた人々に感動を与えるようになったのを実感した」「汗を拭きながら、終わった後の達成感は、行った者でないとわからない満足感でいつも満ちております」。

この城跡は今年度、国史跡に指定される予定だ。また同会の尽力により、奈良時代の梅谷瓦窯(がよう)跡が保存された。記念誌(限定100部)は送料込み1,000円で購入できる。同会のサイトまたはお電話で(事務局090-5129-8908)。これからも旺盛な活動を期待しています!


文中にあるように、岩井会長は「木津川市の経済・文化圏は奈良なのに、それが奈良の人に知られていないのが残念」とおっしゃる。私も、浄瑠璃寺や岩船寺(ともに木津川市)は奈良の寺の延長として、普通にガイドしている。今後は、もっと木津川市のことに目を配りたいと思う。岩井会長、またお話を伺いにまいります!

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