新元号「令和」による万葉集のブームを受けて、NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、今年度だけでも20回以上、万葉集に関する講座を開催する予定である。担当する講師も10人以上で、私もその1人である。
今まで読んできたたくさんの万葉本を読み返したり、新しく購入したり、と泥縄式に知識の習得に励んでいるが、その過程でいろいろと興味深い発見があった。せっかくの発見なので、これを「豆知識」として皆さんにも知っていただこうと思い立った。初回は「いほり」である。
以前、坂本信幸氏(高岡市万葉歴史館館長)に「万葉集の良い入門書はありませんか?」とお聞きすると、即座に「伊藤博(いとう・はく)さんの『萬葉のいのち』と『萬葉のあゆみ』(いずれもはなわ新書)がお薦めです」というお答えをいただいた。
そのあと読んだ『萬葉のいのち』を再読すると、「いほり」という項目が立っていた。いほり(いおり)はよく「庵」と書き、仮の宿りをすること、またそのための仮小屋という意味だが、これだけでは不十分だと伊藤博氏は指摘する。
イホリの本義は「斎秀入(いほい)り」なのであろう。イは「い垣(がき)」「い杭(ぐひ)」「い室(もろ)」のイ、「ゆ笹(ざさ)」「ゆ槻(つき)」「ゆ鋤(くは)」のユと同じ接頭語で、忌(い)み清めたの意を表わし、ホは「稲(いな)ほ」「岩(いは)ほ」「垣(かき)ほ」のホと同じく、秀でてすぐれた所の意を示すものと思われる。すなわち、「斎戒沐浴するために籠る聖なる領域」というのがイホで、それにイリが接続して音の縮約を起こした語がイホリであったと認められる。
萬葉集のイホリには、この原義をなお強く留める例が存外に多い。たとえば、持統天皇もしくは文武天皇の国見のさまを讃えた、柿本人麻呂の短歌、
大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上(うへ)に いほらせるかも(3-235)
におけるイホリは、天皇が聖なる国見(くにみ)行事のために潔斎して雷山山頂の仮小屋に畏くも籠ったことをいうのであって、本来の意を押し立てた端的な一例と見られる。
うーむ、なるほど、単なる草庵に入ったことではなかったのだ。今でも使う「いほり(いおり)」という平凡な(と思っていた)言葉に、これだけの深い意味があったとは…。万葉集を学ぶことは古代人の儀礼や習俗を学ぶことなのだ。これは勉強になりました。
今まで読んできたたくさんの万葉本を読み返したり、新しく購入したり、と泥縄式に知識の習得に励んでいるが、その過程でいろいろと興味深い発見があった。せっかくの発見なので、これを「豆知識」として皆さんにも知っていただこうと思い立った。初回は「いほり」である。
以前、坂本信幸氏(高岡市万葉歴史館館長)に「万葉集の良い入門書はありませんか?」とお聞きすると、即座に「伊藤博(いとう・はく)さんの『萬葉のいのち』と『萬葉のあゆみ』(いずれもはなわ新書)がお薦めです」というお答えをいただいた。
そのあと読んだ『萬葉のいのち』を再読すると、「いほり」という項目が立っていた。いほり(いおり)はよく「庵」と書き、仮の宿りをすること、またそのための仮小屋という意味だが、これだけでは不十分だと伊藤博氏は指摘する。
イホリの本義は「斎秀入(いほい)り」なのであろう。イは「い垣(がき)」「い杭(ぐひ)」「い室(もろ)」のイ、「ゆ笹(ざさ)」「ゆ槻(つき)」「ゆ鋤(くは)」のユと同じ接頭語で、忌(い)み清めたの意を表わし、ホは「稲(いな)ほ」「岩(いは)ほ」「垣(かき)ほ」のホと同じく、秀でてすぐれた所の意を示すものと思われる。すなわち、「斎戒沐浴するために籠る聖なる領域」というのがイホで、それにイリが接続して音の縮約を起こした語がイホリであったと認められる。
萬葉集のイホリには、この原義をなお強く留める例が存外に多い。たとえば、持統天皇もしくは文武天皇の国見のさまを讃えた、柿本人麻呂の短歌、
大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上(うへ)に いほらせるかも(3-235)
におけるイホリは、天皇が聖なる国見(くにみ)行事のために潔斎して雷山山頂の仮小屋に畏くも籠ったことをいうのであって、本来の意を押し立てた端的な一例と見られる。
うーむ、なるほど、単なる草庵に入ったことではなかったのだ。今でも使う「いほり(いおり)」という平凡な(と思っていた)言葉に、これだけの深い意味があったとは…。万葉集を学ぶことは古代人の儀礼や習俗を学ぶことなのだ。これは勉強になりました。