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鹿谷勲著『茶粥・茶飯・奈良茶碗』(淡交社刊)を読む/奈良新聞「明風清音」第55回

2021年04月17日 | 明風清音(奈良新聞)
奈良新聞「明風清音」欄(毎週木曜日)に、月2回程度寄稿している。今週(2021.4.15)は《「茶粥」のルーツを探る》として、鹿谷勲氏の最新刊『茶粥・茶飯・奈良茶碗』(淡交社刊)を紹介した。私の実家(和歌山県伊都郡九度山町)でも、朝食によく「茶粥」(おかいさん)を炊いた。家によって、おかいさんは白粥のところもあったが、ウチはもっぱら茶粥で、白粥は病気の時に食べた。
※トップ写真はわが家の茶粥(米多め、お茶濃いめ)と奈良茶碗(蓋付きの茶碗)4/4撮影

私は猫舌なので、茶粥はよく冷(さ)ましてから食べた。漬物を合わせたり、焼いた餅やおかきを入れたり。おかきでは、揚げ昆布の入った「とよすあられのハイサラダ」がベストマッチだった。夏場は冷たいままの(常温の)茶粥を食べたが、これも美味しかった。

小学生時代のこと。先生に指されたとき、小さい声で受け答えする児童がいて「声が小さい!朝ご飯、おかいさんやったんか?」という先生がいた。声の小さいのをお粥のせいにするとは、お粥には気の毒なことだったが、確かにすぐに空腹になるので、昼食が待ち遠しかったことは事実である。


茶粥にサンマの丸干しを添えた。木製品は「道の駅吉野路大淀iセンター」で購入。丸干し
は奈良市内のオークワで買ったが、かつては下北山村などでも作られていた(4/10撮影)

東大寺二月堂の「お水取り」の茶粥がよく知られているので、てっきり奈良時代から食べられていたと勘違いしていたが本書を読み、江戸時代に始まったと知ってとても意外な気がした。

「茶飯」もよく炊く。研いだ米を炊飯器に入れ、既定の分量の水の代わりにほうじ茶を入れる。上にパラパラと炒った大豆(節分によくスーパーなどで見かけるもの)を載せ、スイッチ投入。20分ほどたつと香ばしい香りが漂ってくる。簡単で美味しいご飯である。ブログで紹介したところ、東京の出版社から「茶飯の写真を使わせてほしい」と言って来られ、3,000円の写真使用料をいただいたことがある。

本書のグラビアでは「奈良茶碗」(蓋のついた陶磁器の茶碗)が紹介されていて興味を持ち、奈良市内の古道具屋などで買い求め、愛用している。一冊の本から、いろんなことが学べるものである。では、記事全文を紹介する。

わが家ではよく朝食に茶粥を炊く。水1㍑に半合の米、そこへ使い捨てのお茶パック(Lサイズ)にほうじた番茶を詰めて投入、吹きこぼれに注意しながらガスコンロで約20分、最後に塩をひと振り。これで大人の2食分だ。最近買い替えたコンロには「お粥モード」があるので、一層美味しく炊き上がる。かつてはお茶パックのかわりに、布製のチャンブクロ(茶袋)を使っていた。

私の勤務先が東京に支店を出したとき、借り上げ社宅(集合住宅)の物干し場に、ずらりとチャンブクロが並んだそうだ。関東のからっ風に吹かれてチャンブクロが舞う情景を想像すると、何とも爽快な気分になる。

茶粥は「奈良茶粥」がよく知られているが、私の故郷・和歌山県でも日常的に食べるし、大阪府岸和田市の友人宅でもごちそうになったことがある。NHKの朝ドラ「おちょやん」でも、茶粥を炊くシーンがあった。浪花千栄子の実家(大阪府富田林市)でも食べていたのだろう。手軽に作れて美味しくて消化も良い茶粥、ところがその由来がよくわからなくて長年、疑問に思っていた。

そこに登場したのが、鹿谷勲著「茶粥・茶飯・奈良茶碗」(淡交社刊 税込み2420円)だ。帯には《奈良の茶粥は、明暦の大火後の江戸で、「奈良茶飯」となって流行し、それを食べるための「奈良茶碗」も生まれて全国に広がった。その過程を民俗、史料、文学などから多面的に追跡》とある。鹿谷氏約15年に及ぶ研究成果が凝縮されているので、ぜひ本書をお読みいただきたいが以下、私が思わず膝を打ったところをかいつまんで紹介する。

「奈良茶粥」の起源としてよく知られているのが「大仏建立助力説」だ。聖武天皇が東大寺の大仏を建立する際、民が米を食い延ばして助力したという説で、いかにも良くできた話ではあるが、根拠はないそうだ。また「平景清転害門潜伏説」、つまり東大寺の大仏供養に参詣する源頼朝を討とうと、景清が転害門の2階に隠れていたとき、消化の良い茶粥を作らせたという説だが、これにも根拠はないという。

本書が最も信頼性の高い説として挙げているのが「井戸屋弥十郎創始説」。河内屋五兵衛著「河内屋可正旧記(かしょうきゅうき)」(元禄~宝永年間)に登場する話で、南都の弥十郎(または弥二郎)という貧しい男が、米を食い延ばすために作り始めたという。他の文献の記述と総合すると、弥十郎は江戸時代の初め頃に茶粥を作り始めたようで、その屋敷は現在の奈良市小西さくら通り商店街の西側にあったそうだ(石﨑眼科医院のあたりか)。

「奈良茶飯」は、江戸時代の1657年(明暦3)に起きた「明暦の大火」からの江戸復興事業のさなかに出現した。茶飯、豆腐汁、煮染め、煮豆などがつく定食メニューとして登場した。隅田川のほとり浅草金龍山(待乳山)の麓茶屋で始まり、「飯屋の元祖」つまりわが国外食産業のルーツと位置づけられる。

「奈良茶碗」とは「(奈良茶飯に用いたところからいう)蓋つきの飯茶碗(「日本国語大辞典」)。奈良茶飯の流行は、当時の新しい食器である磁器を使った蓋つきの奈良茶碗を生み出した。形式や産地ではなく、用途から生まれたネーミングというところが珍しい。当初は九州の有田で、のち美濃の多治見などで作られるようになった。

本書を読み進む途中で、しきりに茶粥が食べたくなり、何度も作っては食べた。茶粥はわれわれのソウルフードなのである。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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